第8話
保健室の扉が閉まる。
薄い金属音がやけに大きく耳に残り、外のざわめきが遠くなった。
薬品の匂い。アルコールと消毒液が混ざった、清潔で、どこか冷たい匂い。
濡れた髪から水滴が落ちて、床に小さな水たまりをつくる。ぽた、ぽた、と一定の間隔で響く音が、静まり返った室内に溶けていく。
高校に入って初めて保健室を利用する理由が、サボタージュとは。ちょっとした不良気分だ。
……少しだけ、背徳感。
授業を抜け出して、こうして誰もいない場所にいる。
授業中の校舎から切り離されたみたいな、別の時間が流れているような不思議な感覚。
電気は、消えていた。
「先生、いないね」
「職員室にでもいるんじゃない?」
七森の声は、いつも通り穏やかで、少しだけ軽い。
この静けさの中だと、その声音だけが妙に浮いて聞こえた。
日中なのに、差し込む影が色濃くて保健室の中は薄暗い。白いカーテンがわずかに揺れて、光と影を揺らしている。
昼と夜の境目みたいな、不安定な明るさ。
時計の針が進む音が、やけに大きく聞こえる。
規則正しく刻まれる音が、意識をそちらへ引き寄せる。
時間だけが、取り残されたみたいに進んでいく。
「ここ、座って」
「はいはい」
七森は真っ白で清潔なベッドにわたしを誘導する。
きい、と軋む音。
保健室のベッドの脚は少し高くて、座ると両足が宙に浮かぶ。
床に届かない足先が、わずかに揺れた。その浮遊感が落ち着かない。
隣に立つ七森の視線が、まだ消えない赤い痕に触れている気がした。
胸元に残るそれは、薄くなってきたとはいえまだ隠しきれない。
「あのさ、もうちょっと見えない所にして欲しいのだけど」
「隠さなくていいのに」
「いいわけないでしょ」
「だって──」
伸ばされた指先が、触れる直前で止まる。
ほんの数センチ。
触れるか触れないか、寸前で止まるその仕草。
わざとらしい間。
「──虫刺され、なんでしょ?」
睨むように七森を見上げる。
自分でやった癖に、とは言えなかった。
夏の日差しが透き通るような白い指。
細くて、綺麗で、妙に目につく。
……噛みついてやろうか。そう考えたが、飢えた獣じみた衝動を抑えて、牙をしまう。
「嫌だった?」
「今日みたいに隠すのが大変なのよ」
言葉を選ばず、率直に返す。
今の時期は特に苦労する。
ただでさえ暑いのに、首元を隠すためにインナーを着ないといけないのだ。厚めのチョーカーなどは校則で禁じられているし、メイクだって汗や水で流れてしまう。
体育の後なんて最悪だ。
鏡を見るたびに余計な気を使うことになる。
結局、完全に隠すことはできない。
「隠すのが大変だから、嫌なんだ……」
視線を逸らし口元を覆い隠しながら、独り言のようにどこか弾んだ声で七森がつぶやく。
この当事者は、わたしの苦労を分かっているのだろうか。
「分かったらもう少し考えてちょうだい」
溜め息混じりに苦言を呈する。
「じゃあ……」
水気を含んだ深く輝く黒髪を揺らして、わたしの前に膝を曲げて身を低くする。
見上げていたはずの相手が、視界の中に収まる位置に来る。
視線がすっ、と下がる。
七森の目が妖しく光る。
水着から伸びるわたしの足。その付け根あたりに視線が注がれている。
ぴと。
ひんやりとした手が膝に置かれる。
その冷たさが、逆に意識を引き寄せる。
瞼を少し落とす。
世界から切り離されたかのような静寂。
時計の音すら、遠くなった気がした。
耐えきれず、七森を見ると。
唇の端を歪ませて、平然と、さも当然なように──
「足、開いて」
「…………は?」
急に胸倉を掴まれたかのような衝撃で、体が無意識に強張る。
思考が一瞬止まる。
遠慮も配慮もないシンプルな言葉を、脳が理解するのを否定していた。
「……どう、して?」
やっと絞り出した声。
「痕、見えない所にしてあげようと思って」
言いながら、足の付け根あたりを見る。
その視線が妙に生々しい。
「……変態」
「ふふ、ひどい」
わたしの精一杯の罵倒も微笑み一つで片付けられる。
ゆっくりと、辱めを与えるように。
足を開かれる。
無意識に力が入るが、それすら軽くいなされる。
耳の裏で、心臓があるみたいに鼓動が波打つ。
どく、どく、と音が響く。
理屈は、まあ分かる。
目立たない所。見えない所なら問題ない、と。
だが、それを許容出来るかは別だ。
そもそも、痕をつけるのを止める選択肢をして欲しかった。だが七森からしたら、わたしが負けた証を残さない選択は存在しないようだ。
七森の身体が更に近付き、逃げ場を塞ぐ。
視界に映るのは、伏せられた睫毛と、わずかに開いた唇。
まるで他人事のように七森のつむじを眺める。
冷えた太ももにかかる息がやけに熱い。
指先に力が入る。
握るシーツにシワが増える。
「緊張してるの?」
震える空気が、肌をくすぐる。
緊張ではない。
この強張りは、未知の行為に対する警戒だ。
……けれど、それだけでもない。
沈黙を肯定か否定か、どちらに捉えたか知る術はない。どのみち、七森は止まらない。
息が触れて。
距離がなくなる。
唇が触れる瞬間。
まぶたをぎゅっと閉じる。
「………っ」
一瞬。
鋭い痛みと遅れてくる羞恥で、息が止まった。
身体がびくりと跳ねるのを、必死に抑える。
音も、思考も、何もかもが一瞬で途切れて。
体の奥まで響くような衝撃に、思考が白くなる。
羽のように軽やかな動きでわたしから離れる。
その距離が急に開いて、空気が戻ってくる。そ
残されたのは、じん、とした熱。
目を開けた時、七森は微笑を浮かべながらも涼しい顔をしていた。
「これなら文句ないでしょ?」
「……最低」
熱を帯びた太ももを見て、顔をしかめる。
シーツの衣擦れの音と共に、残された痛みから逃げるように足を閉じる。
七森は肩をすくめるだけ。
「ほら、見えない」
「そういう問題じゃないわ」
七森はゆっくり立ち上がり、わたしを見下ろすと目を細め、そこへ視線を落とした。
まるで、確かめるみたいに。
視界の端で、七森が唇に触れた気がした。
「普通、やらないでしょ」
「負けたんだから、ね?」
……そんなこと、分かってる。
顔を背けて、無言の抗議。
瞼の奥が熱くなる。
……何だ、これは。
悔しさか。怒りか。
それとも、別の何かか。
溢れ出そうなものを必死に抑える。
「……変態」
「また言って……、え」
七森の声が、ほんのわずか途切れた。
こっちを見るな。
瞬きをしたら流れ落ちてしまうほど、視界がぼやけた。
七森がどんな表情をしているかなんて分からない。
ただ無言で、そこにいた。
さっきまでとは違う、静かな気配。
触れてこない距離。
窓の外で、蝉が鳴きはじめた。
じりじりと、夏を押し付けるような音だ。
***
「着替え、持ってきてあげる」
そう言って、保健室から出ていく七森を視線だけで見送る。
どこか急いでいるみたいだった。
扉が閉まる。
保健室から離れていく七森の足音が、少し早い気がした。
……逃げるみたいに。
すぐ保健室には静けさが戻る。
わたしの息づかいだけがうるさく聞こえた。
時計の音は変わらずに時間の流れを伝えてくる。
常識では測れない距離がある。
……きっと、わたしと七森みたいな。
近いのに、遠い。触れているのに、分からない。
最近は、七森を見上げたり、背を追ったり、手を引かれたりと、後ろを走ってばかりだ。
……あの頃とはまるで逆。
過去は過去。
だが、現在を形作っているものも、きっと過去だ。
過去があって現在がある。
わたしの知らない七森の過去が、今の七森を形成しているのだ。
それが、ほんの少し口惜しいと感じる。
肌に刻まれた痕には熱が残っている。
まるで、七森の体温が移ったみたいだった。
チクリとした痛みに、深い吐息をこぼす。
「…………ほんと、最悪」
呟きは、誰にも届かない。
やけに冷たく感じるシーツに身を投げる。
どっと疲れが押し寄せてきて、わたしは目を腕で覆った。
……ああ、迷惑な暑さだ。
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