第7話
あの子に関する記憶は、いつまでも宝箱にしまってある。
「わたしの好きな人?」
ちょっとした雑談。
恋多き少女達の話題の一つ。
陽菜の隣で、沈黙を崩さずに聞いてしまう。
「今はいないわ」
ほっと胸を撫でおろす。
深く息をする。
誰かが言った。
「じゃあ、どんな人がタイプなの?」
再び、身を乗り出し耳をそばだてる。
かっこよくて、かわいくて。
何でもできる。
私が目を追ってしまう陽菜が、好きになる人。
「タイプ……」
顎に手を当て、考える。
「そうね。わたしよりすごい人」
得意気に微笑む。
子供らしい気取らない笑み。
「すごい人?」
漠然とした回答に問いが続く。
「勉強も運動もわたしより出来るし、誰からも人気で尊敬できるような人よ」
普通なら笑ってしまうような理想のタイプ。
しかし、氷のような澄んだ凛々しい顔に、揺るがぬ意志が宿っていた。
陽菜と付き合う人は大変だ。
一方で。
陽菜よりすごい人なんていない。
狭い世界しか知らない私は、そんなことを信じて疑わなかった。
だからこそ。
「ねえ、藤原先輩って知ってる?」
陽菜から、男の名前を言われるとは夢にも思わなかった。
図書室で勉強を教わった。
──やめて。
部活で活躍した。
──いやだ。
文化祭で、誰とでも楽しそうに笑っていた。
──もう、聞きたくない。
私の知らない誰かのことを、透明なガラスの向こう側で陽菜が語る。
私の名前を呼んでくれた、その声で。
────。
黒い泥が胸の奥を覆った。
だから私は、勝とうと思った。
思ってしまった。
***
夏祭りというイベントを終えた後でも、わたし達の関係は変わり映えすることはない。
たまに会話して。
たまにお昼を一緒に食べて。
たまに、帰り道が重なる。
そして、勝負したらわたしが負けて。
七森の言うことを聞く。
友達と呼ぶには距離があって。
宿敵と呼ぶには近すぎる。
結局、一度ひび割れたガラスは元に戻らないように、わたし達は傷つけ合う。
廊下の向こうに七森の姿が見えた。
眼球だけを動かして、目が合う前にすぐに視線を外した。
目の前の葉月が訝しげにこちらを見ていた。
「陽菜さー」
「なによ」
「最近なんか、魂抜けてるよね」
「失礼ね」
らしくないことを考えていたら心配されてしまった。
「全然ご飯、減ってないじゃん」
「……夏祭りで食べ過ぎたから、ダイエットよ」
「ふーん、ま、いいけどね」
食べ終わった葉月に対して、わたしのお弁当は半分も減っていない。
「でも、次の授業プールなんだから食べといた方がいいんじゃない?」
そういえばそうだった。
うだるような暑さに憂鬱としながら、ゆらゆらと揺れる窓の外を眺めた。
***
学校指定の水着に着替えてプールサイドに立つ。
屋内プールの為、日焼けの心配をしなくていいのは女の子としてありがたい。
強い塩素の匂いが鼻をつく。
「……陽菜って着痩せするタイプなんだね」
「ちょっと、失礼なこと言わないで」
隠すようにお腹に手を当てる。
まさか本当に夏祭りで食べ過ぎたのだろうか。
「そっちじゃないんだけど……。やっぱ何でもない」
落胆したように肩を落として遠い目をしている。
要領を得ない葉月の態度に、不服に息を漏らす。
「あれ、陽菜?」
わたしの身体の上を辿っていた葉月の視線がふと止まり、首をかしげる。
「ここ、ちょっと赤くなってるよ?」
自身の胸元を指でつんつんと示す。
「…………っ」
ばっ、と葉月から身体を背ける。
油断した。
つい、綿飴の匂いを思い出す。
遠くから、七森の視線を胸元に感じる。
「虫に刺されたのよ」
「そっか〜、後でムヒ貸してあげるね」
「……助かるわ」
居た堪れなくなって、葉月から少し離れることしか出来なかった。
準備運動をして体を徐々にほぐしていく。
「やっぱ七森はいいよな」
「モデルみたいにスタイル良いし」
ふと、男子のそんな会話が聞こえた。
両腕を上げ、頭の後ろで、腕を組む。
七森をちらりと一瞥する。
……確かに。
子供の頃は同じくらいの身長だったのに、気付けばわたしは七森を見上げるのが普通になっていた。
「いやでも、朝日奈の方が……」
「……すご。意外と、だな」
わたしが何だというのだ。
両腕を後ろに伸ばす。
目の前に影が出来る。
気がつくと、七森がそんな男子の会話を遮るように、わたしのすぐ横にいた。
水面の反射が揺れて、七森の影がプールサイドに伸びる。
「……七森?」
「…………」
いつも通りの顔なのに、どこか不機嫌そうに感じる。やはり、じろじろと見られるのは気分が良くないらしい。
わたしの顔を見て、それから、ほんの少しだけ視線を下げた。
胸元。
一瞬だけ、七森の目が細められる。
かと思えば、人の良さそうな笑みを浮かべて、わたしをじっと見て口を開く。
「陽菜ちゃん。勝負、するよね?」
「……もちろんよ」
肩をすくめ、負けじとわたしも口を歪ませた。
スタート台に向かいながら勝負のすり合わせをする。
「25m」
プールの端から端。
七森がプールの端を指す。
「先にタッチした方の勝ち」
「それでいいわ」
水面がゆらゆらと揺れている。
塩素の匂いが、更に濃くなった。
七森と同時にスタート台に足をかける。
細い腕。それなのにしっかりと筋肉が付いているのが分かる。
スターターは葉月が担当することに。
「競争するの!?じゃあ合図出してあげる!」と無駄に元気に立候補してくれた。
「二人とも、準備はいい?」
「うん」
「ええ」
「負けた方がわたしにジュースね!」
「勝手に決めないで」
「はーい準備して!」
熱気が削がれそうになるが、葉月なりの激励なのだろう。
一つ、深呼吸。
七森に勝ったことは、ほとんどない。
それでも、負けるだなんて思ったことは、一度もない。
息を吐き、ゆっくり吸う。
肺全体に空気を行き渡らせる。
「よーい……」
葉月が片手を上げる。
肺を限界まで膨らまして、息を止める。
自分の呼吸が聞こえなくなって、水の音が耳に届く。
「──スタート!」
足を蹴り出す。
一気に腕を伸ばす。
瞬間、冷たい水が身体を包み込んだ。
隣を気にする余裕はない。
ぶくぶくと空気が頬を伝う。
水の向こうに七森の腕が見えた。
同じリズムで、同じ速度で。
腕を回す。水を駆ける。
肺が焼ける。思考が徐々に沈んでいく。
壁まであと少し。
もう一度だけ腕を伸ばす。
ゴールの壁に指先が──。
その刹那。
七森の手が、わたしよりほんの少し先に壁を叩いた。
水面から顔を上げる。
「……はあ、はあ」
壁に手をつけたまま、息を整える。
水滴が頬を伝い、水面に円を描く。
「鈴蘭ちゃんが僅差で勝ち!」
頭上から葉月の結果が伝えられる。
……また、負けたか。
「あと少しだったね」
壁に手をつけ、プールの波に揺られながら、こちらを静かに見つめる。
濡れた黒髪が頬に張り付き、歪んだ形を作っている。
「次は勝つわ」
「そんなこと言っても、いつも負けてるよ」
「うるさい」
虚勢ではない。七森の背中は目前まで迫っていたのだ。
突き放すように顔を背ける。
その時。
七森がわずかに身を乗り出す。
「……陽菜ちゃん」
「なに?」
返事をした瞬間、細い指先がわたしの胸元に伸びた。
思わず肩が跳ねる。
七森の指先が触れる寸前で止まる。
たった数センチの距離。
水滴が指先から滴って、わたしの胸元に流れてプールに溶ける。
「まだ残ってる」
小さく呟く。
「……何がよ」
わざと分からないふりをする。
七森の目が僅かに細められた。
「虫刺され」
「節操のない虫がいたのよ」
「ふーん」
その声はどこか楽しそうだった。
指先が更に、ほんの少しだけ近づく。
無意識に体を強張らせる。
跳ね除けようとしなかったのは、突然のことで反応できなかったからだ。
触れる。
かと思った時。
「はいはい!イチャイチャしなーい!」
葉月の声が割り込んできた。
「してないわ!」
反射的に声を荒げる。
七森は何事もなかったように、手を引っ込めていた。
「じゃあ、負けた陽菜がジュースね」
「……分かったわよ」
本気だったのか。
不本意だが、しぶしぶ了承する。
壁から手を離しながら、七森へ視線だけをそっと向ける。
七森の表情は、いつもの柔らかな笑みに戻っていた。
***
プールの縁に手をかけて、プールサイドに上がる。
水を含んだ水着は重く、地上に浮上したわたしの身体に重力がのしかかる。
ひと泳ぎし終わった後の倦怠感に身を委ねていると。
「陽菜ちゃん、行くよ」
「え?」
「"お願い"。負けたんだから」
わたしの耳元で囁く。七森からは花のような香りではなく、塩素の匂いがした。
別に約束を反故にする気はない。
逃げたら本当に負けだ。
……勝負には負けているが。
「分かってるけど、授業中よ」
静かな異議を無視して、体育教師に向かった。
「先生。陽菜ちゃん、具合悪そうなので保健室に連れて行きます」
「は?」
「え!?そうなの?陽菜大丈夫!?」
大袈裟だ。葉月まで騒ぎ始めてしまった。
そもそも体調は悪くないし、いつから七森はわたしの保護者になったのだ。
さっきまで接戦を繰り広げていたではないか。
「ん?そうか。まあ、七森なら大丈夫か」
一人で何やら納得したようだ。
「なに勝手に──」
「ほら、行こう」
手を取られ、有無も言わさず身体が引っ張られる。
泳いでいたから指先が冷たい。
誰も、わたしの話を聞く気がなかった。
あれよあれよと、タオルを被せられ、屋内プール場から風のように立ち去る。
保健室へと続く廊下を、どこか落ち着かない気持ちで進む。
わたし達しかいない廊下にいると、サボりという罪悪感で心の奥がざわついた。
咎めるような口調で先を行く七森へ声をかける。
「ちょっと、七森」
遠くからピアノの音が聞こえる。
今更授業へと戻るのも決まりが悪いし、水着姿のまま廊下で立ち話するのもわたしの倫理観が許さない。
掴まれた手を振り解く気にもなれず、足だけを機械的に動かす。
「何がしたいの?」
今日の七森は少し強引がすぎる。
全てとは言わないが、理解しようと努めてはいる。七森なりに考えも価値観もあるだろう。
この行動にも意味があるのかもしれない。
わたしの体調が悪く見えたのか。
嫌がるわたしの顔を見て、せせら笑いたいのか。
「……危ないから」
七森の視線がわたしの胸元へ一瞬だけ落ちて、消え入りそうな声で言った。
「……?」
……危ない?
わたしが何に対して危ないというのだろうか。
頭を悩ませる。
答えを聞いたのに、何故か理解から遠ざかった。
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