第6話
黒猫のぬいぐるみを抱えたまま、屋台の並ぶ参道を歩き出す。
ソースの香ばしい匂いが漂ってきた。
「たこ焼き!」
葉月は迷わず列に並ぶ。
「りんご飴食べたばかりじゃない」
「祭りは別腹!」
意味不明な理屈を唱えて笑う。
そのまま、たこ焼きを一つ刺して。
「ほい、たこ焼き!」
「んっ!?」
追い打ちのように、焼きたてのたこ焼きを口に放り込んだ。
七森が軽く拳を握る。
その仕草には、気付かなかった。
提灯が優しく揺れ、人の声は祭囃子に紛れて広がる。屋台の明かりが参道を橙色に染めた。
空は暗くなっていくのに、参道は昼間のような活気が溢れていた。
結局、その後も葉月は屋台を見つけるたびに足を止めた。
焼きとうもろこし。
チョコバナナ。
焼きそば。
気が付けば、わたしの手には綿飴が握られていた。
落とさないように、黒猫のぬいぐるみを抱え直す。
ちり、と小さく鈴が鳴った。
隣にいた七森の視線が、白い綿飴の雲に流れた気がした。
大したことじゃない。
そう思い、意識の外に追いやる。
一口。
綿飴を啄む。
浴衣の帯で締められたお腹が少し窮屈に感じた。
「飲み物買ってくる〜」
葉月は人混みの中に消えていく。
いつの間にか、七森と二人きりだった。
葉月の声が消えただけなのに、周りのざわめきまで遠くなった気がした。
七森がやけに近くに感じる。
胃のあたりを落ち着けるように、ゆっくりと背中を伸ばす。
履き慣れない下駄のせいで、足も少し重かった。
「ちょっと休もうか」
提灯の仄かな光を宿した七森の瞳が、一瞬だけこちらを向いた。
「そうね」
二人で境内の石垣に腰を下ろす。
鼻緒の当たる指の付け根がちくりと痛む。
「痛い?」
「大丈夫よ」
祭りのざわめきが薄くなって、遠くで金魚すくいの水音がかすかに聞こえた。
白い雲のように膨らんだ綿飴を唇にそえる。
ほんの少し舌先を出して、触れる。
甘い砂糖の糸が絡み付いて、すっと溶けた。
口の中に甘さが残る。
「あげる」
七森に綿飴を向ける。
「…………」
が、受け取ろうとはしない。
綿飴ではなく、わたしの口元を見つめて、たちまち視線を落とす。
差し出した手が少し気まずい。
……見ていたから欲しいのかと思ったが、思い過ごしのようだ。
甘いものは苦手ではなかった、はずだけど。
七森も満腹なのか。
「いいの?」
何のことか一瞬迷ったが、綿飴のことだろう。
「ええ」
なかば押し付けるように、綿飴の棒を七森の掌に乗せる。
七森は綿飴を見つめる。
それから指先で柔らかい塊を少し千切った。
細い砂糖の糸がふわりと解ける。
ほんの一瞬迷ってから、口に入れた。
淡い光に照らされた七森の唇。
ゆっくりと、甘さを確かめるように食べている。
「……甘いね」
「綿飴だからよ」
当たり前の感想につい笑みがこぼれる。
七森も困ったように笑った。
「ねえ、
唐突に、名前を呼ばれる。
その目は薄く細められていて、首筋が疼く。
変な要求をする時の、嫌いな目。
「射的、私の勝ち、だよね?」
「え、は?」
「なら言うこと聞いてね。浴衣、ちょっとめくって?」
確かにあれはわたしの負け、だと言える。
「ここ外よ?」
「大丈夫」
何が、と抗議する前に。
白い綿飴の壁を作り、細い指先の浴衣の襟を少しはだけさせた。
瞬間、慣れた様子でわたしの肌に吸い付く。
祭囃子が遠くに聞こえる中、甘い砂糖の香りを感じながらじっと耐える。
「ね、見えないでしょ」
唇を離した七森は、薄く小さな声で、微かな笑みを唇にのせた。
「おーい!」
静けさに飛び込んできた声に顔を上げる。
はだけた浴衣を強引に直す。
人混みの中から葉月が駆け寄ってきた。
両手にはラムネとソーダの瓶。
「
「じゃあ、ソーダで」
「はい!」
「ありがとう」
七森は瓶を受け取る。
何事もなかったように。
先程まで人の身体に口付けしていたとは思えないほど涼しい顔だ。
「あ、綿飴残ってる」
拳ほどの大きさの綿飴に気付き、勢いよくかぶりつく。
「あま〜い」
「また食べて。太るわよ」
「こんなに柔らかいんだからカロリーゼロだよ〜」
「そんなわけないから」
「あはは」
棒だけになった綿飴を見て、三人で顔を綻ばせる。
わたしは完璧に見えた七森の口元に隙を見つけた。
「七森」
「どうかした?」
「口」
「え?」
不思議そうに聞き返す。
仕方がない。
身を乗り出す。
黒猫の鈴が小さく鳴った。
同時に、七森の体が固くなる。
……どうしたのだろう。
七森の変な行動よりましだし、そんなに驚くことでもないと思うのだけれど。
指先で、七森の唇の端についた綿飴を軽く払った。
思ったより近かったのか、七森の吐息が指先にかすかに触れる。
「綿飴、ついてる」
肩をすくめる。
「……ねえ陽菜」
「なに?」
「今のさ」
葉月は笑いを堪えながら言う。
「距離近くない?」
「そうかしら?」
「ラブい空気出てた」
「なによそれ」
大げさだ。
綿飴がついていただけなのに。
七森を横目で見る。
まばたきを忘れたように、目を丸くしていた。
七森の呼吸が、少しだけ速い。
何か言おうと、薄く口を開いた時──
遠くで、低い音が響いた。
──どん。
夜空が揺れた。
わたしは反射的に空を見上げる。
黒猫のぬいぐるみを抱え直す。
黒い夜空に、花が咲いていた。
光の花だ。
「わー!花火だ!」
「始まったのね」
お腹に響く音に合わせて、黒猫のぬいぐるみを抱きしめる。
……本当は、こんなもの貰うつもりなかったのに。
しばらくの間、花火の光に見惚れていた。
***
大輪の花が、夜空を彩る。
誰もが上を向いている中で、自分だけが花火を見られない。
花火の光を浴びる横顔が、泣きそうになるくらい綺麗で。
いつもより大人っぽい表情が、胸の奥を苦しくするから。
目を逸らせない。
ぬいぐるみを、少し抱きしめる。
鈴の音が、かすかに聞こえた。
花火の光が黒猫の目を一瞬だけ光らせる。
どこか似ている、黒猫のぬいぐるみ。
凛とした瞳。
その瞳の先に、花火が開く。
……あの時と、同じ瞳だ。
どうか。
まだ終わらないで。
***
最後の花火が、夜空にほどける。
花火が終わると、周囲のざわめきがゆっくり戻ってくる。
「終わっちゃったねー」
葉月が大きく伸びをする。
ふと七森を盗み見る。
七森は、まだ夜空を見上げていた。
花火の余韻に浸る姿もやはり絵になる。
思わず小さくため息をついた。
人の波は、少しずつまばらになっていく。
石段を降りるたび、屋台の灯りが遠ざかっていった。
十分満足したようで、葉月の足取りは軽い。
「楽しかった〜。花火も綺麗だったし」
「そうね」
人々のざわめきと足音が、先ほどよりくっきりと耳に届く。
祭りの終わりが近づいて一抹の寂しさすら感じる。
葉月の背中が少し先を歩いている。
わたしと七森は、その後ろを並んで歩く。
手にはまだ、黒猫のぬいぐるみ。
「……それ、持って帰るんだ」
「当たり前でしょ」
ぬいぐるみを抱き直す。
言葉の意図が掴めない。
七森が取ったもの、というのが引っかかる。
でも。この子に罪はない。
揺れる袖が、七森の手に触れそうで触れない。
七森は、そのことに気付いていない。
その時。
「あれ、朝日奈?」
後ろから、男の人の声で名前を呼ばれた。
懐かしい顔。
「……藤原先輩?」
中学の頃。
少しだけ憧れていた人だった。
そして、七森に奪われた人。
思わず腕の中の黒猫を抱きしめる。
「や、久しぶり」
声にも渋みが出て最初、反応出来なかった。
あの頃より、一段と背が高くなった気がする。
男の子は一気に成長するらしいが、大きくなるのは羨ましい。
「浴衣、似合ってるね」
「ありがとう」
声がうわずる、なんてことはない。
息をするようにすらすらと言葉が出てきた。
心は意外なほど沈んだままだ。
「祭り来てたんだ」
「ええ」
わたし達を見て、七森に視線が止まる。
「あっ」
先輩の口から声がこぼれた。
「……七森もいたんだ」
気まずそうに頬を引き攣らせる。
理由は、分かる。
交際していたのに、拍子抜けするほど簡単に、無慈悲に別れたのだ。人伝に、随分とこっぴどく振られたと聞いた。
七森はすぐに手放したのだ。
わたしへの当てつけのように。
「……元気そうでよかった」
「…………」
七森は口をつぐんだままだ。
「あー、うん。じゃあ友達待たせてるから、行くわ」
先輩は、逃げるようにわたし達の前から去っていく。
その背中を、七森が静かに見つめていた。
近づいてきた葉月がわたしに耳打ちする。
「大丈夫?」
「何が?」
「うーん。大丈夫ならいいんだけど」
本当に大丈夫なのだ。
思っていたより、何も感じなかった。
どちらかと言えば、わたしが手に入れられなかったものを七森が手にした事実のほうだ。
昔、好意を抱いていたのに。
わたしの足は、地についたままだった。
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