第3話


 肌にブラウスが張り付く感覚が煩わしい。

 肌を覆う黒のインナーが熱を上げるのを加速させていく。


 図書室の空気は重く、息苦しい。



 わたしは図書室にいた。


 こんな時期に図書室で勉強する生徒など稀だ。


 図書室にいるのは、わたしと葉月だけ。

 少なくとも、そう思っていた。


 対面には苦悶の表情をした葉月。

 言葉にならない唸り声を出しながらノートに向き合っている。


「う〜、なんでこんな……」


「自業自得でしょう」


「正論やめてよぉ……」


 今の彼女には火力が高すぎたようだ。


 力尽きたかのように机にひれ伏す。

 ペンを握る手は完全に投げ出されてしまった。


 困ったように腕を組む。


 こうなった原因は、まだ記憶に新しい。



 ***



 事の発端は、葉月のテスト結果であった。


 夏休みも目前。

 浮かれまくっていた葉月の足取りは、赤点を突き付けられ地に落ちた。


「今回赤点を取ったものは、後日追試があるので勉強しておくように」


 担任教師の言葉に、ほとんどの生徒は反応を示さない。

 葉月の肩は更に落ちたが。


「追試を合格出来なかった場合、夏休みに補習が予定されるからそのつもりで」


 前に座っている葉月の肩が震え始める。

 顔は見えないが青ざめているのが目に浮かぶ。


「──以上」


 担任教師が言い終わるや否や。


陽菜はるなっ!!」


 がばっ、とわたしに向き直り。


「勉強教えて!?」



 ──そして現在に戻る。



 ***



「脳が沸騰するぅ……」


 人の集中力は基本的に長く持続しないと言われている。

 適度に勉強したら短い休憩をする。これを繰り返すのが最も効率がいいとされる。


「一度休憩しましょうか」


「はぁい……」


 ゆっくりと起き上がった葉月は、そのまま背凭れに体重を預ける。

 自分で招いた種とは言え、少し気の毒だ。


 幸いにも葉月が赤点を叩き出したのは一教科だけ。

 数学だった。

 高校一年の数学は、中学の基礎が出来ていれば理解しやすい。だから教えるのも基本は基礎だ。

 そこからはひたすら問題を解く。


 追試なら問題の傾向も掴みやすい。


「対策さえしっかりすれば問題ないわ」


「頼りになります、陽菜先生!」


「はいはい」


 調子がいいのは元気な証か。

 この様子なら心配なさそうだ。



「ん〜っ!」


 同じ姿勢に体が固まったのか、両腕を上げ伸びをする。

 途中「あっ」と、思い出したように口した。


「今度さ夏祭りがあるんだって」


「もう七月だものね」


「うん。でね、丁度追試の日に開催なんだよ」


 夏祭りを想像して、逸る気持ちが抑えられない様子。

 次に来る言葉が容易に想像できて目尻が下がる。


「追試の合格祝いで夏祭り、行こー!」


 提案ではなく、断定しているところが葉月らしい。


 でも。


「夏祭りはいいけれど、もう合格したつもり?」


「うぐ、おっしゃる通りです……」


 一喜一憂が忙しい。

 このくらい素直なら七森にも可愛げが生まれるというのに。


 ……まったく、余計なことを考えた。



「今、鈴蘭すずらんちゃんのこと考えてる?」


「……は?」


 眉を顰める。

 どうして急に七森の話題が。


「陽菜がそういう顔する時って、大体鈴蘭ちゃん絡みだし」


 顔に触れる。

 むにむに、と。

 表情をほぐすように。


「どういう顔よ」


「ん〜、威嚇するチワワみたいな顔?」


 なんだその顔は。

 呆れた目を葉月に向ける。


 そんなに分かりやすいのか。


「あ、せっかくだし鈴蘭ちゃんも誘おっか」


 その言葉に、胸の奥がわずかにざわついた。


「………」


「また、同じ顔してる」


 悪戯っぽく笑う。子供のように無邪気に。


「嫌だった?」


 黙り込むわたしを見て、葉月はそう判断したようだ。


 嫌、ではない。

 ただ七森が参加するだろうかと懸念していただけだ。


 わざわざ嫌いな相手と夏祭りに行くだろうか。


 ……いや。

 七森なら、行くのかもしれない。


 ふと思った、その時。


 静かな図書室。

 窓の外では、蝉の鳴き声が絶え間なく続いている。


 その音に紛れて、かさり、と紙の擦れる音がした。

 葉月も気づいたのか、音の発生源へと顔を向ける。


「……あれ?」


 本棚の向こう、窓際の席。


 一人の生徒が本を読んでいる。

 長い黒髪。

 均整の取れた背中。

 暑さを感じさせない涼しい顔。


「ごめんね」


 そして、こちらを見て柔らかく微笑む。


「集中してたから、話しかけなかったんだけど」


 七森鈴蘭だった。



 ***



 七森の机の上には分厚い参考書が開かれていた。

 色鮮やかな付箋がいくつも貼られている。


 葉月は椅子を軋ませ身を乗り出し、慌てた声をあげる。


「えっ、鈴蘭ちゃんのいたの!?」


 くすり、と七森が笑った。


 おろおろと視線が左右に泳ぐ。


 何をそんなに動揺しているのか。

 七森を誘う丁度いい機会では。


 人のいい七森のことだ。

 葉月の誘いなら断らないだろう。


「葉月ちゃん、追試だっけ?」


「あぐっ」


 うめき声をあげて固まる。


 机の上のノートを見る。

 ノートには計算式が並んでいた。

 踊るような黒い線やところどころの消し跡が、葉月の苦戦を物語っている。


「頑張って」


 七森は優しく激励を送る。

 その声音はからかいではなく、励ましの音だった。


 一拍置いて。


「勉強、教えてあげてるんだね」


「……そうよ」


 短く答える。


「そっか」


 その声は、納得しつつ、どこか少し考えているようでもあった。


 そんなことしていて大丈夫?

 とでも言いたいのだろうか。


 僅かに目に力がこもる。

 わたしは自然と、お腹に力を入れて背筋を伸ばす。


 実際に何か言われたわけではない。

 それでも、七森の前で姿勢を崩したくなかった。



 七森がふと口にする。


「私も手伝おうか?」


 極めて合理的な提案。ごく自然な申し出だった。


 ──まただ。


 七森はいつもこうだ。

 当たり前みたいな顔で、私の前に立つ。


 そして、気づけば勝負になっている。


 葉月がばっと顔を上げる。


「いいの!?」


 しかし。


「結構よ」


 わたしは即答を選ぶ。


 図書室の空気がほんの一瞬止まる。

 温かい風が頬を撫でた。


 七森の手が参考書のページをめくる途中で止まっている。

 ページの端を押さえた指先は、動かない。


 しかし、瞬きする間。

 それだけで七森はいつも通り柔らかく笑う。


「うん、分かった」


 怒っている様子もない。

 悲しんでいる様子もない。

 ただ──。


 どこか、安堵と困惑の入り混じった目をしていた。


 何故かそれが、少しだけ引っかかる。



 ぱたん。

 七森が参考書を閉じた。


 丁寧に鞄にしまい、立ち上がる。


「あれ、もう帰るの?」


 葉月が首を傾げる。


「邪魔しちゃ悪いし」


 いつもの彼女らしい優しさだ。


 だが思いもしなかった言葉に、葉月は慌てて首を振る。


「いやいや、邪魔とかじゃないよ!?」


「ふふ。今日はもう区切りいいとこだったから」


 そう言いながら、鞄を肩に掛ける。

 軽々しい動作。

 本当に中身が入っているのかと、いらぬ疑念を抱いてしまう。


 そして一瞬、わたしと目が合う。


「じゃあ、またね」


 制服のスカートを靡かせて歩く。

 静かな足音が遠ざかる。


 その前に。


「──待ちなさい」


 図書室の扉の前。

 七森の足が止まる。


「どうしたの?」


 七森はこちらを振り返りながら、少し首を傾げる。

 黒髪がゆらりと流れる。


 一度だけ、息を吸う。


「夏祭り、一緒に行きましょう」


 扉の取手にかけた手が、そのまま動かない。


 いつもより微かに目を見開く。

 見開いたまま、わたしから目を逸らす。


 七森に心を乱されたことへの、ささやかな意趣返し。


 このまま帰らせるのは、なんだか負けた気がした。


 少しだけ気分が良い。

 胸の奥に溜まった膿が剥がれ落ちたように。


 何かを隠すように、七森の手がブラウスの裾をつまむ。


「えっと……」


 わたしの言葉の意味を読み解こうとしている七森に向かって。


 余裕の微笑みで。

 遜ることなく。


「どうかしら、七森?」


「用事とかあった?」


 葉月による援護射撃も付いてきた。


「……いや、大丈夫だよ」


 ぱっ、と顔を輝かせる葉月。


「ほんと!?」


「うん」


 吐いた息と共に、七森の柔らかい笑みが戻る。


「よーしっ、頑張るぞー!」


 追試に向けて意気込む葉月をよそに、


「引き止めて悪かったわ」


「ううん、気にしないで」


 図書室の扉が開く。

 七森が一歩踏み出したところで、葉月から七森へ声がかかる。


「楽しみだね、鈴蘭ちゃん!」


「そうだね」


 わたしを見る。

 ほんの一瞬だけ。


 そして。


「ね、陽菜ちゃん」



 ***



 図書室の扉が静かに閉まる。

 蝉の声が、また戻ってくる。


 葉月はノートに目を戻した。

 だが、わたしはしばらく七森が去った後の扉を見ていた。


 先程の七森の表情が、妙に頭に残っていた。


 ……何だったのだろう。

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