第2話
顔を上げる。
わたしの眼前には、テスト結果による順位が書き記された用紙が貼り出されている。
プライバシーも何もない掲示だが、学校はこうして闘争心を煽る。
首が少し辛くなる程に目線を上げていく。
この痛みは対価だ。常日頃から研鑽を重ね、上を目指すために努力した結果だ。
生半可な順位には興味なんてない。
わたしが見るものはいつだって一番だけだ。
自信は、ある。
だが、胸の奥に錘を落とされたかのような不快感。緊張かそれとも不安か。
その不快感を飲み込み、用紙に目を走らせる。そこには──。
──2. 朝日奈
力が抜けた。硬直していた体がほどけていく。
それもまた一瞬で。煮えたぎるマグマのように沸々と怒りが湧いてくる。
幾度となく見た自身の名前。
そして、わたしの邪魔をする名前を目にしたから。
──1. 七森
──わたしの嫌いな名前だった。
***
掲示板の前は人だかり。
その中心にいる名前は、もう分かりきっている。
学年2位。
その結果を受け入れた瞬間から、ようやく周囲の喧騒が耳に入ってきた。
「おおっ、陽菜すごいじゃん。2位だよ2位!」
「……そうね」
「さすが!わたしの陽菜たん!ちぃちゃくてかわいいのに頭もいいなんて」
「ありがとう。あなたのではないけどね。あとちぃちゃくないから」
中学からの付き合いの夏目葉月の賞賛に、やや辟易とする。
とはいえ好成績なのは確かだ。
賛辞は素直に受け取る。だが態度には出さないように心掛ける。
「かわいいは否定しないんだ」
「かわいいのよ」
「はいはい」
定番と化したやりとり。
軽口をたたきつつ、横目を使う。
「で、葉月は?名前あったの?」
「……うーん……ないねぇ」
「真面目に勉強しないからよ」
「あーきこえないきこえなーい」
まったく。
耳を押さえながら大袈裟に振る舞う葉月。
あーあー言いながらわたしの頭の上に顎を乗せてくる。
こら、やめなさい。これ以上わたしの身長が伸びなかったらどうしてくれるんだ。
頭上からの襲来には目を背けつつ、目の前の高い壁を見据える。
この高校では成績の貼り出しに載るのは上位50人まで。
成績下位者への配慮と共に、上位者に下剋上せんとする闘志を煽るための措置だろう。
……まあ、わたしには関係ない話だ。
少なくとも、一位の名前を見なければ。
首元まで隠す黒いインナー越しに、首元へと手を当てる。
「いつまでそうしているの。ほら、葉月。早くお昼を食べに行きましょ」
「お、それもそうだ」
頭上へ声をかけると葉月はたいして気にした様子もなく、周囲で一喜一憂している生徒たちを尻目に教室へと向かっていく。
呑気なものだ。
まだ一年生の七月。初めての期末テストだとしてもこんなに緊張感がなくて大丈夫なのだろうか。
教室に戻り、自分の席に座る。窓側の1番後ろ。わたしの前には葉月の席がある。
葉月は慣れた手つきで「よいしょ」と、自身の机を動かしてわたしの机とぴったりくっつけた。
「ん〜ふ〜ふ〜」
「なんだかご機嫌ね」
鼻歌を口ずさみながらお弁当を広げる葉月。彼女の機嫌に合わせて、肩口に揃えられた髪が犬の尻尾のように揺れる。
おおかた、テストという重荷からやっと解放された、くらいの理由だろう。
「だって、ようやくテスト期間終わったんだよ?」
ほらね。
「それにもうすぐ夏休み!高校生になって初めての夏休みだよ!陽菜も楽しみでしょ?」
「まあ、そうね。葉月は夏休み何をするか決まってるの?」
「海!プール!後は夏祭り!あとあと──」
「楽しそうだね、夏休みの話?」
わたし達の右隣に、一人。
さり気なく会話に加わってきたのは見知った顔だった。
「お、鈴蘭ちゃん。そう、夏休み何したいー?って」
「いいね。一年生の今が一番楽しめるもんね」
「ねー!」
「あ、私も一緒に食べてもいい?」
「いいよいいよー」
「ありがとう」
言うや否や、近くの空席から椅子を引き寄せ、淀みない動きで昼食を用意し始める。
七森鈴蘭。
文武両道、容姿端麗。
才色兼備という言葉がよく似合う人物だ。
「鈴蘭ちゃんは夏休みどこかに行くの?」
「うーん。今の所そういう予定はないかな」
「やっぱり忙しい感じ?」
「そうでもないよ?」
二人の会話をBGMにお弁当を食べ続ける。
学校の人気者。生徒からはもちろん、教師からの信頼も厚い。
一部からは信仰的な扱いを受ける七森と普通に会話できるのは、マイペースな葉月の才能だろう。
実際、緩くカールのかかった長い黒髪を耳に掛けながら優雅に昼食を取る七森の姿は絵になる。
と言いたいところだが──。
「そういえば陽菜ちゃん」
腰を浮かせ椅子に浅く座る。
その瑞々しい口元をわたしの耳に寄せて──
「──また私の勝ちだね」
その声は嬉しそうなのに、どこか安心したようにも聞こえた。
「………」
耳に水が入った時のような、不快な感覚。
わたしを見つめる瞳はどこか扇情的で。
その目で見つめられると胸の奥が疼く。落ち着かない。
おかずを奥歯で思い切り噛みちぎる。
足に力を込める。この苛立ちを出来るだけ表情に出さないように。
挑発に屈することは許されない。
なぜなら、七森鈴蘭の目的はわたしを悔しがらせることだから。
何故わたしなのか。
……分からない。
ただ、勉強も運動、稽古事も容姿も。
──憧れの人だって奪われた。
全てにおいてわたしを上回ろうとする七森が気に入らない。
わたしが悔しい顔をするのを見て、目を細める七森が気に食わない。
「いつか七森を追い越せるように、わたしも頑張らないといけないわ」
だからこそ努めて冷静に、泰然に。
「……そうだね。お互いに頑張ろうね」
一瞬。拍子抜け、というよりつまらなそうな顔の七森。
欲しい反応が得られなかったのだろう。
そのまま何事もなかったかのように座り直して食事を再開している。
簡単に心を揺さぶられるのは、わたしも執着しているからなのか。
ああ本当に、理解に苦しむ。
「でもさー、陽菜はさ、別に一位じゃなくてもすごいよ」
葉月の間延びした声。
思考の海からわたしを掬い上げる。
「わたし的には陽菜が一番だし」
「何を言って──」
「だってわたしの中の一位は陽菜だもん」
屈託なく笑う。
純粋で素直な感情が少しくすぐったい。
「……まったく」
出かかった言葉を飲み込む。
気恥ずかしくなり、耳の横を流れる髪に触れる。
その刹那。
七森の箸の先が、かすかに止まった。
「仲良いよね、二人」
穏やかな声。
作り物めいた完璧な微笑み。
「中学からの付き合いだもんねー」
「腐れ縁よ」
「そうなんだ」
小さく頷く。
ただ、七森の白い指先で持つ箸に力が入った気がした。
付き合いの長さだけならば七森との方が長い。
いわゆる幼馴染というやつだ。
だというのに、今わたし達を繋ぎ止めているのは反感と、異常な勝負事。
なんとも物悲しい話である。
「あ、陽菜の玉子焼きちょうだいっ」
玉子焼きを目ざとく発見した葉月が軽く身を乗り出す。
断る理由もないので、「しょうがないわね」と箸で掴んで葉月のお弁当へ運ぼうとしたが。
「あー」
間抜けな顔を晒す葉月に動きを止める。
まるで意地汚い雛鳥のようだ。
「自分で食べなさいよ。子供じゃないんだから」
「えー、いいじゃん。ほら、あー……」
「やめなさいって」
押し問答の末、仕方なく葉月の口へ運ぶ。
七森は、何も言わない。
「んー!美味しい!」
「はいはい、お粗末さまでした」
玉子焼き一つで、だらしなく頬を緩ませている。
安上がりな子だ。
「陽菜の玉子焼き、好きなんだよね〜」
満足げに笑う葉月。
瞬間。
「陽菜ちゃんの玉子焼きは砂糖多めだもんね」
目を伏せ、口元を綻ばせながら何でもない顔で七森は言う。
箸を置く音がやけに静かに響いた。
「だからか〜。全然気づかなかったや」
「昔からそうだよね。陽菜ちゃん、甘いものそんなに好きじゃないのに玉子焼きだけは甘くするの」
わたしの好みに合わせて作ってくれた母の味付け。
一番好きだったから、自分でも作りたくて。初めて自分で作ったのはいつだったか。
わたしのことなのに記憶が曖昧だ。
「……よく覚えてるわね」
思わず口をついて出る。
「覚えてるよ。何回も食べてるし」
昔を懐かしんでいるのだろうか。
まだわたし達が心から笑い合っていた頃。
遠足で。
運動会で。
部活で。
いくつもの思い出が頭をよぎる。
「幼馴染ってすごいねぇ」
葉月は無邪気に笑う。
「また作ってよ、陽菜。また食べたいなぁ」
軽い口調。
深い意味なんてない、本当に食べたいだけなのだろう。
「まあ、別にいいけど」
わたしも同じく気軽に、何気なく答える。
ただ一言。
たった一言で。
七森の視線が、ゆっくりと上がる。
「陽菜ちゃん、優しいね」
首元が痒くなる。
果たして七森の言葉は本心なのか。
その"優しい"に含まれる、ちょっとばかりの重み。僅かな変化に誰も気付くことはなかった。
「楽しみ〜」
「ただの玉子焼きよ」
わたしと葉月は気付かない。
「──本当に、優しいね」
唇だけを震わせた、七森の声に。
***
放課後。
静けさに包まれる教室。
誰もいない教室。
夏の風が、黒髪を揺らす。
七森は一人、陽菜の席に視線を落とす。
少し前まで陽菜が座っていた場所。
椅子を引き、ゆっくりと腰を落とす。
まだ唇には陽菜の温もりが残っている気がする。
伸ばした指先が、形を確認するように机の端をなぞる。
「……ほんと、昔のまんま」
小さく息を吐く。
「……別にいいけど」
指先をほんの少し強く押し付ける。
「どうせ──」
風が吹く。
髪が揺れる。
「……また私が勝つし」
七森は机から指を離す。
机の端に、ほんの少し爪の跡が残った。
陽菜の椅子を引く音が、教室に響いた。
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