空の旅



 ララは恐る恐る竜の背に手をかけ、よじ登った。感触は、硬くて冷たい。滑らぬように慎重に膝をつき、身を安定させようとするが、どうにも座り心地が悪い。

 しばらく背の上でもぞもぞと体勢を探ってから、意を決して前方へ移動した。風にたなびく髪をかき分け、ジェアンの頭の方までよじ登り、目の前に伸びていたツノを掴む。

 途端、怒声が飛んできた。


「勝手にツノ触ってんじゃねぇっつってんだろ!」

「だ、だ、だって、ここしか掴むとこなくないですか!? ここが駄目なら他に掴むとこ出してくださいよ!」

「そんな都合よく出せるか!」


 ララは慌てて両手を放そうとしたが、風に煽られるたび身体がぐらりと揺れ、怖くなって結局また握り直す。そんなやり取りをしているうちに、ジェアンが低く呟いた。


「……こんなところでもたついてたら日が暮れるな。もういい、どこでもいい。しっかり掴まっとけ」


 ララはごくりと唾を飲み込み、両手に力を込めた。

 次の瞬間、巨大な翼が音を立てて広がり、空気を叩く。


「ひぇっ……!」


 地面が一気に遠ざかった。

 ジェアンの背がぐんぐんと空へ舞い上がる。

 風が頬を打ち、耳を切るような音がした。雲が近づき、視界の端を流れていく。


 すごい。本当に飛んでいる。


 少しだけ興奮した。けれど、その興奮も長くはもたなかった。


 風圧は想像以上。竜の背中も思った以上に揺れる。指が痺れ、握力が徐々に抜けていく。体勢を直そうとした拍子に、重力がララの全身を竜の背から引きずり落とす。


「ひぎゃぁあああああああっ!!」


 叫び声が空に散る。身体が宙を舞い、視界がぐるぐると回転した。

 死ぬ。

 そう覚悟した次の瞬間、どこかで低い舌打ちの音が聞こえた。


 風を切る音とともに、竜の影が急降下してくる。ジェアンの口がララのドレスの裾を噛み取り、そのままぐんと上昇した。

 ララはジェアンの口に咥えられてぶら下がったまま、空へと引き上げられる。両手両足をだらりと垂らしたまま揺れる姿は、かなり情けなかった。

 しばらくぶらぶらと揺れる状態が続いた。

 目を瞑ってじっと待っていると、ようやく速度が緩み、地上が見えてくる。高い塀が目前に迫っていた。

 ジェアンは器用に翼を傾け、ララを塀の上へと降ろす。


 ララは膝をつき、胸を押さえながら大きく安堵の息を吐いた。

 隣で、竜の姿から人の姿に戻ったジェアンが呆れたように長い溜息をつく。


「お前、握力なさすぎだろ……ここまで竜に乗るセンスのない奴を見たのは初めてだ」

「生まれてから十八年間引きこもりだった女を舐めないでください……! 腕の力も手の力もありません!」

「今度から俺の背中に縛り付けてから行った方がいいな」

「それもそれで怖い……!」


 ララはふるふると首を振りながら、心臓の鼓動を落ち着けようと深呼吸した。


 ……死ぬかと思った。


 震える足を何とか支えにして立ち上がり、塀の下を覗き込む。

 はるか下方に、リムササルムの街が広がっていた。

 何故かあちこちから黒煙が上がっている。炎の明滅が見える。

 かつての祖国を高いところから見つめるのは、塔の中にいた時以来だ。

 美しかったはずの街並みが、遠く霞み、どこか現実味を失っているように見える。


「……あれは何ですか?」

「あの黒煙か? この塀の中の連中が戦ってんだよ。食料の奪い合いになってる」

「リムササルムは、穀物や畜産の生産が盛んで、食料自給率も比較的高いはずです。なのに、食料が足りないのですか?」


 ララの素朴な疑問に、ジェアンの紅い瞳がわずかに見開かれる。


「……お前、幽閉されてたわりによく知ってるな。教育を受けてたのか?」

「教育というか、自主学習です……。私が閉じ込められていた塔の中に、こっそり本を沢山持ってきてくれた人がいたんです。十年以上、毎日。私はその本を読んで外の世界のことを学びました」


 言いながら、ララは彼のことを思い出した。「姉さん」と呼んでくれた、小さな男の子。彼だけが、塔の中で孤独だったララに会いに来てくれた。

 ララには一人、二つ下の弟がいる。父である国王と、その妾の間に生まれた子だ。男子の中では一人だけ、王位継承権を持たなかった。

 ララの想像に過ぎないが、おそらくその弟は、周囲に馴染めなかったのだろう。自分一人が妾の子だから。だから現実逃避として、塔の中に閉じ込められている、自分より可哀想な姉に会いに来た。

 そして、毎日のように甘いお菓子と分厚い本を運び込んでくれた。


(あの子も、もう……)


 リムササルムの王族は、ララ以外みんな処刑された。

 弟と会えることはもう二度とない。



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