第3話

 外から怒鳴り声が聞こえた。

 ……しかも、かなりの長台詞を言っていそうだ。

 分厚い扉で区切られて、何と言っているかは分からない。けれども金属扉がボーンと反響して、怒鳴り声の主の声色と訴えの凄まじさを伝えている。女だ。

 ガダンッ――と。

 直ぐに手術室のスライドドアが開けられたのを理解する。病院にあるまじき衝撃音が鳴って、僕は寝たきりなりにびくりと身体を震わせた。誰かが入って来る。

 ツカツカと高い足音が近付いて来る。

「ちッ。イライラするぜ……」

 ややハスキーな女の呟きが聞こえた。

 相変わらずの真っ白な世界。視界の地平線から現れた黒が、忌々しい照明を遮って、僕に影を落とした。

「あぁ? なんだ、オマエ起きたのか」

 女はこちらを見ていた。黒の眼帯で左目を隠し、桃色の右目で僕を見下ろしていた。医者ではない。僕の知っている人物でも、多分ない。おかしな格好――その女は真っ黒のゴスロリ服を着ている。首、それから顔の白い肌が際立っていて、泣き腫らしたような真っ赤な下瞼に気付いた。知らない女だ。

 唐突に、銀の何かが光った。

「丁度いい」

 それは刀身だった。腰の辺りからするりと放たれた抜き身の日本刀の刃を真下から見上げていた。

「オマエ、宇宙人と人間、どっちだ。返答次第じゃあ、アタシがこの場で切ってやる」

 焦点が定まらないほど眼前に急接近する刃がピタリと止まる。すると、スッと音もなく僕に付けられていた呼吸器を割った。

「……う、宇宙人?」

「ふうん。あくまでシラばっくれる気か。イイだろう」

 女は不機嫌そうに刀身の棟を肩に乗せると、トゲドケが厳めしいウエストポーチから何かを取り出した。グイと押し付けるみたいにして、僕へと見せる。それには見覚えがあった。

高松たかまつ遊宇馬ゆうまという人間に心当たりはあるか? コイツはそいつの学生証だ。奴は今どこにいる」

「どこにも何も、僕がその高松遊宇馬ですけど」

「そうか」

 ふん、と不満げに鼻を鳴らし、女は僕を縛り付けるベルトの一つを逆さに持った刃を滑り込ませ、いとも容易く切断した。

「これでちっとは動けるだろ。右手を上げてみろ」

「右手? ……こうです――」

 か?

 ――と僕が言い切る前に、僕の右手は宙へ上がった。ふっと吹いた埃が軽やかに舞い上がるように。重みが消えたように。回転しながら鮮血の飛沫を撒き散らす右手は、羽の如くにゆっくりと落ちて来る。いや、本当のところそれは一瞬で、ベッドに横たわる右手を見た時、急速に時間は加速する。

「ああ……」

 情けない声が出た。

 テスト中。手から溢れた消しゴムが机を跳ねて、飛んで行き、あまつさえ着地してからもコロコロと机や椅子の足の間を縫って遠くまで行ってしまうような。

 小学生の頃。竹林くんが思い切りに蹴ったサッカーボールが弧を描き、校舎の窓ガラスに吸い込まれていくのを見るような。

 もう自分では如何ともし難い。起きてしまったことは仕方がない。取り返しが付かない。と、どこか割り切るみたいな諦めに血の気が引いた。

 手首の節。その下あたりで水平に切られた右手は、肘からただ真っ直ぐに伸びる棒同然だった。

 急激に冷たくなっていく傷口。傷口よりも上に、あるはずの感覚がない。

 痛みを理解できたのは、それら諸々の情報を頭が整理してからであった。

「あがッ……!!!」

 鈍い痛みと鋭い痛みの両方が現れる。ドクドクと脈動する度、脳を揺らすような鈍い衝撃が伝わって来て目眩がする。細くて長い針を深く突き立てるみたいな鋭い痛みがビリビリと肘を叩き、その熱さにも似た痺れに吐き気がする。

 涙が垂れた。鼓動が早まり、脂汗が浮かび、背中に力が入って上体が浮き上がる。ベルトがギシギシと僕の代わりに悲鳴をあげている。

 奥歯を痛いほどに噛み締めて、全身の筋肉に締め上げられ、関節には尋常ならざる力がこもる。それでも尚、手の方が痛い。

 目を閉じて逃避に走っても、目の奥を叩く脈拍が忘れられない痛みを教えて来る。まるで全身が傷口であるみたく、どうしようもなく痛みに晒されていた。

「痛覚があったのか。それは災難だな。でも今はそんな茶番はいらないんだ。ほら。目を開けろ」

 そんなことを言われても、僕はこの身に余る痛みと戦わなくちゃならない。

「ぐぐ……!!!」

「うるさいな。おい、しっかりしろ! オマエの右手なら無事だ。何も無かった。そうだろ?」

 この女は何を言ってやがる。お前が僕の腕を切ったじゃないか。切られたから痛いんじゃないか。何も無かったなら、この痛みはなんだ。

 ――そんなわけない!

「目を開けろ。事実を見ろ!」

 ああ、くそ。うるさい。お前のせいでこうなったんだ。許さないからな。畜生。右手の仮はどうやってでも返してやる。

 くそくそくそ……くそ――。

 暗中に怒りと痛みが木霊する。

「うじうじしやがって!!! 左手も要らないか?!」

「――アタシは目を開けろって言ってんだ!!!」

 畜生……!!!

 あまりにも不利な僕は目を開けた。ベッドに縛られてる僕が、どうやり返すのだ。左手も? 堪ったもんじゃない。ああ、くそ。

 目を開ける。明るい照明が過敏になった視覚に染みる。

 無意識に身体が安静を図ったのか、曲げられた肘、上を向いたままの手首の上には手が乗っていた。

 ――動いた。指が。

「ああ……手が……」

「そうだとも。オマエの手はそこにある」

 不思議と痛みが無くなった。強烈な痛みの数々がその余韻も残さずに消滅していた。

「どうして……? 何だったんだ」

「はあ。全く、手間をかけさせやがって。腕は切った。切り落とした。……車にも跳ねられた。即死するようなものではなかったらしいが、重症は間違いない事故だった。でも、オマエは生きている。五体満足。腕を切られても、まだだ」

 は?

「んな……な、何を言ってるんだ?」

「おかしいな。見た方が早いと思ったんだが」

 女はいつの間にか閉まっていた刀をまた振り抜いた。今度は居合だ。僕がそれを居合だと理解する頃には、また僕の右手が飛んでいた。

「……あ」

「まあ、待て。痛がるのは後にして。先ずはこれを、こうして――」

 振り抜き、また鞘に収めるまでが一連の動作である居合。それによって両手が空いた女は、今し方自身の手で飛ばした手を拾い上げる。そして、一巡目のジェンガを積むような気楽さで腕を傷口に乗せる。

 すると――ガコン、とひとりでに右手は回転し、あるべきところへ。溢れた血はその一滴一滴が生き物であるかの如く腕を這い上がり、わらわらと傷口に集まった。そうして、僕の腕は――。

「これで、元通り。ほらな?」

 女の言う通り、指先の感覚が返って来た。

「分かっただろ。高松遊宇馬、オマエは不死になったんだ」

「ところで、オマエは宇宙か。それとも人間か?」

 そんなもの。ここまで異様な光景を見せられて、普通であると思えるわけがない。普通の人間であるはずがない。そんな常識は分かっている。

 いいや、まさか。この人だって腕を切られるくらい平気なのだろうか。テレビで流れる人身事故のニュースは全てフェイクで。僕の思ってるよりも、ひょっとして人間は丈夫なんじゃないのか。

 切った腕が戻るくらいには。いや、そんなこと――有り得るわけがない。それでも。

「人間ですよ。僕は」

 そう、絞り出す他なかった。

 自分でも怪しい。でも、宇宙人である自覚なんてもっと僕の中にはない。人間だと認められるわけがないとしても、自認は地球生まれ地球育ちの地球人だ。

 それに。これ以上、痛い思いをしたくない。

 でも、そんなことを言ったって無駄だろう。

 ――けれども。

「ああ。そうだろうとも」

 女は僕の言葉に満足して、不敵な笑みで応えた。

「そうでないとアタシが困る。アタシは歌方うたがた依澄いずみ。オマエの身元は我々が引き受ける」

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