一腹幾ら。
五月雨ジョニー
一腹幾ら。
「ははっ。これ全部。目に見えないか?」
出張で訪れた港町の食堂で、すぐさま運ばれてきたいくら丼を目の前に、彼女は笑った。
僕は手元にある自分の分のいくら丼を覗き込むと、無数の艶やかな橙色の粒の中に浮かんだ緋色の球が、確かに僕を見上げているようにも思えた。
白米の上に雪崩れ込み、折り重なって山を成したそれは、元々は鮭の腹に入っているべきものであって、よく考えてみたら異様な光景であった。
それを彼女は笑いながら、銀色のスプーンで容赦なく潰して遊ぶ。
その下品な仕草に眉を顰めた僕は、やはりこの人の事は苦手だなと再認識して、嫌悪した。
手癖できついスーツの首元を緩め、さて、どう話を切り出そうかと悩んでいると、彼女はそんな僕を見て、また口を開いた。
「おい、どうした。お前の稼ぎじゃ、こんなものなかなかありつけないだろ。上司の奢る飯が食えないってのか? それはどうも可愛くないな」
そう言いながら、まるで米なのか、いくらなのかわからない程、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられたそれを、大きな口を開けて彼女は頬張った。
切羽詰まった僕は頭をぐしゃぐしゃと掻いて、スプーンを握る。
「すみません。こんな魚卵は僕にはどうにも勿体が無くて、なかなかがっつく度胸がありません」
とりあえず静かにスプーンで一掬いすると、白米の上のいくらが独特の粘度をもって数粒溢れた。
「はははっ、そんなだからお前はダメなんだ。いいか? 我々が卵を食べるのは必然なんだ。必要な事なんだよ? わかるか?」
ようやく口へ運ぼうとした、いくらと白米を前に、僕は手を止める。
「それは一体どういう事ですか?」
「よく言うだろ? 俳優のたまごとか、作家のたまごとか。だとすれば、“たまご“ってのはすべからくそこに夢や希望が詰まっているんだよ。それを我々は騙して掠め取り、貪り食って生きている訳だろ?」
すぐに僕は察した。
「ああ、それは人の気持ちを食べている……。という事ですか」
「そうだ。ほれ、見てみろよ、そのいくらを。馬鹿みたいにして、全て上を向いていやがる。何も考えず、ただただ漠然と天を見つめ、幸せを望んでいるんだ。そんなの滑稽で仕方がない。いつの時代も、馬鹿は食われて当然だ」
僕は一度、スプーンを丼に戻す。
「そう……ですね」
──端的に言えば。
僕達は詐欺師だった。
幸福な電波を受信するという石を売り、それの効果を持続させる為と称して、その石に毎日垂らすための水を売っていた。
実際にはそんなものは無い。
石はただの石で。水はただの水なのだ。
だが、もし効果が無ければ、水を倍かけろ。
それでも無ければ、石をもう一つ買えと。
提唱する幸福を否定しようものなら、どこまでも追い込みエスカレートする、グループのその手口。
最初、僕はそれを面白いと思った。
何故ならそうすればみんな、どこかのタイミングで、『私は幸福だ』と言わなくてはならなくなるからだ。
だから、みんな必ず幸福になる。
これはよく出来た心理的脅迫だと思っていたのだ。
「上衆が蓄えた貯金を、下衆である我々が掠め取るのは当然の事だ。卵を抱えた鮭は腹を裂かれて、卵を抜かれるだろ? 堪らないな。私はそれが一体、一腹幾らになるのかが知りたいよ」
鋭く言い放つ彼女は美麗ではあった。
しかし、飛び抜けてはいなかった。
さらりとした艶のある黒髪は清潔で。
やや太めのはっきりした眉は、初対面の者達に親近感と安心感を与えていた。
加えて大きく優しそうな目と微笑む口は、とても人当たりの良い、おぼこい娘といった印象を与えるのだろう。
だから迷える人々の心の隙間に忍び込むのは、容易かったと思う。
でも、その実は計算高く、狡猾な人だった。
僕はこういう“なるべくしてなった“と思う人に出会うと、世の中というのは、その一部の人にとっては、とても都合の良いように出来ているのかもしれないなと考えた。
──で、あるならば。
そうではない僕には、とても都合が悪く。
僕は、この職には向いていないと感じたのだ。
誰もが羨む豪邸に住んでいた者達が、僕達の詐欺にかかり、様々な金品を手放した挙句。
地方の団地の一室で、大量の石に囲まれながら、頭を垂れてありがたそうに僕達を迎え入れるようになったのを、この目で何度も見てきた。
そこに僕が抱いたのは、心が痛むなんて真っ当な感情では無かった。
ただ純粋に、その者達の笑顔が、酷く不気味だったのだ。
僕はそんな幸せの価値観を、人為的策略を持って、いとも簡単に歪ませる仕打ちには、どうにも耐えられなくなっていた。
だから、仕事を辞める旨を伝えたくて、ここ最近、ずっと頭を悩ませていたのである。
そしてどうやらそれは、残念ながら既に彼女に勘付かれていたようであった。
「卵を抜かれた鮭は、一様に死ぬわけですか? 生き残るものなどはいないのでしょうか?」
目の前のいくら丼に一口もつけず、スプーンをテーブルに戻した僕は、彼女にそう質問をした。
「そんなの死ぬに決まっているだろ。大体野生の鮭の産卵するものは、そもそも寿命が近いんだ。人が腹を裂いたって、そいつの結末は変わりはしない。それにどうせ、あの世には卵も金も夢も、持って行けやしないんだ。蓄えた物を吐き出して死んだ方が、この世の為だろうよ」
呆気なく言い退けた彼女は、ため息を吐いて続けた。
「いくらが悪いんだ。鮭がどんなに苦労をして激流を登ろうとも、その腹に抱えたいくらがこんなにも美味いものだから、簡単に人に腹を裂かれてしまうのだ。そういうように世界は出来ている。私は決して激流を登らない。激流を登る者達の気持ちもわからない。私はただ、掠め取るだけだ」
そうですか。とぽつり呟いた僕は、彼女の方へ姿勢を正し、はっきりと伝える。
「ご馳走様でした。今まで大変お世話になりました」
彼女は食べ終えた丼へスプーンを乱暴に投げ入れると、一本のタバコに火をつけて、紫煙を吐きながら小さく言った。
「そうか、残念だよ。でも、お前とは一度組んだよしみだ。私なりに少しだけ猶予を作ったつもりではある」
僕は立ち上がって、彼女に深々と頭を下げる。
そのまま、すぐに出口へと向かった。
「お前のように、卵を持たない者の腹にあるのは、大した価値のないモツだけだ。精々その価値のない一腹を大切にして逃げるんだな。でないと明日の昼にはモツ鍋になるぞ」
彼女の最後の言葉を背に受けながら、僕が食堂を出ると、目の前に見覚えのある黒塗りの車が止まる。
それを見るや否や、僕は店の前のゴミ箱を車の方へとぶちまけて、その身が千切れるほど全力で走った。
ああ。
いくら丼を拝める日は、もう来ないのかもな。
そんな事を考えた僕は──
たとえ自身の結末が想像出来ようとも。
抱えた物を守る為に、激流を登る者達の気持ちを、そこで初めて知った気がしたのだ。
一腹幾ら。 五月雨ジョニー @MMZZOMBIE
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