第3話 囁き

翌朝。高野咲は、窓の外から聞こえてくる美しい鳥のさえずりで目を覚ました。

 まだ朝の光が柔らかく差し込み、緑の葉を透かして小鳥たちが楽しげに囀っている。爽やかな風景に一瞬心が和む――だが、扉を開いて一歩外に出ると、その空気は一変した。館の中には鳥の声ひとつ届かず、重苦しい静寂だけが支配していた。


 仕事は前日に言われたとおり、簡単な掃除から始まった。床を磨き、食器を拭き、家具を整える。単純な作業ではあるが、宮園が背後に立っていると気が抜けない。

 彼女は細部にまで目を光らせ、咲の手元を鋭く見ていた。


 昼前、廊下を移動していると、車椅子に座った館の主――当主の宮園宗一郎とすれ違った。

 片足を失い、車椅子に深く身を沈めている。無言のまま、包帯に覆われた手で車輪を押し、咲をじっと見つめた。その視線の冷たさに、背筋がぞわりと粟立つ。慌てて頭を下げると、彼は何も言わずに通り過ぎていった。


 しばらくして。

 廊下を歩いていた咲の背後から、低く柔らかな声がした。


「……咲さん」


 思わず返事をしかけ、咲ははっと息を呑んだ。

 ――返事をしてはいけない。

 昨日言われた注意事項が脳裏に蘇る。


 足を止め、振り返らないように必死で堪えた。

 声はもう一度、はっきりと名前を呼んだ。


「……咲さん」


 背筋に冷たい汗が伝う。心臓が跳ね、口が勝手に開きそうになる。


 そのとき――。


「返事しなくて、正解だったね」


 不意に横から声がした。

 振り向くと、見知らぬ中年の女性が立っていた。地味なエプロン姿の、もうひとりの家政婦だ。彼女は咲を一瞥すると、冷たく言い放った。


「次はないかもしれないから、気をつけることね」


 そう言って足早に去っていく。その背中を見送りながら、咲は震える指先をぎゅっと握りしめた。



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