究極 対 至高 ~煌めく魚卵、その真実を求めて~

ages an

例のグルメ漫画への、敬意を込めて。

「これより、The Ultimate vs The Supremeを執り行う!」


 荘厳なホールに、審査委員長の朗々たる声が響き渡る。本日のお題は『いくら丼』。シンプルが故に、料理人の哲学そのものが問われる深遠なテーマだ。


 私の隣で、志郎さんは自信に満ちた笑みを浮かべていた。だが、私、助手の栗田久里子の心は、どんよりとした不安の雲に覆われていた。


(ダメだわ…!今日の志郎さん、いつにも増して負けフラグが乱立している…!)


 今回の対決に至るまでの日々が、私の脳裏を駆け巡る。


『久里子君! いくら丼の歴史を覆す、とんでもないアイデアを思いついたぞ!』


 そう言って目を輝かせる志郎さんが向かったのは、高級食材店ばかり。伝統的な鮭の産地や、米農家、醤油蔵には目もくれず、ただひたすらに目新しさと高級感を追い求めていた。その姿は、食の本質を探求する者というより、付け焼き刃の知識で一攫千金を狙う浅薄な博打打ちのようだった。


 一方、対決相手の遊斬は、普段の傲岸不遜な態度を微塵も感じさせなかった。彼は日本中の漁港に自ら足を運び、漁師たちに頭を下げ、夜明けの海で鮭の品質をその目で見極めていた。その真摯な姿は、これまでのどの対決よりも、食への深い敬意に満ちていた。


 これまでの対決パターンから導き出される未来はただ一つ。志郎さんが、遊斬に完膚なきまでに叩きのめされる未来しか、私には見えなかった。


「では、先行! 志郎氏、前へ!」


 促され、志郎さんは待ってましたとばかりに一歩前に出る。その手には、上品な漆塗りの椀が恭しく置かれたお盆があった。蓋が開けられると、審査員たちから驚きの声が上がる。


 椀の中にあったのは、キラキラと輝く黒い宝石。立ち上る湯気は、極上の昆布出汁の香りを運んでくる。


「こ、これは…キャビアではないか!」

「いくら丼対決で、キャビア…だと?」


 どよめく審査員を前に、志郎さんは得意げに口を開いた。


「皆様ご存知ですか? ロシア語で『魚卵』を意味する言葉、それが『イクラ』です。つまり、チョウザメの卵であるキャビアもまた、広義のイクラと言えるのです!」


 硬めに炊き上げた純白の米に、利尻昆布から丁寧に引いた黄金色の出汁を張り、その上に最高級のベルーガキャビアを惜しげもなく乗せた逸品。『究極のいくら丼』と称する、キャビアの出汁茶漬けだった。


 審査員たちは半信半疑でレンゲを手に取り、そっと口へと運ぶ。その瞬間、彼らの表情が驚愕に変わった。


「う、美味いッ! キャビアの濃厚な旨味と塩気が、熱い出汁によって見事に調和している!」

「プチプチとした食感と、米の甘み、昆布の香りが三位一体となって口の中に広がる! まさかキャビアが、これほど白米に合うとは…!」

「鮭のいくらとは全く違う、洗練された大人の味わいだ! これは素晴らしい!」


 賞賛の嵐に、志郎さんの得意満面は頂点に達した。彼は腕を組み、ふんぞり返って言い放つ。


「フン、当たり前ですよ。そこらの鮭の卵と、世界三大珍味の一つである最高級キャビア。どちらが上かなんて、比べるまでもありません。つまり、究極のいくら丼とは、このキャビア丼のことだったのです!」


 その言葉がホールに響き渡った、その時だった。


「クックックッ…! フハハハハハハハハ!」


 それまで沈黙を守っていた遊斬が、腹を抱えて哄笑した。その声は、志郎さんの浅はかさを、そして審査員たちの見識のなさを嘲笑うかのように、天井をビリビリと震わせた。遊斬はゆっくりと立ち上がると、憐れむような目で志郎さんを見据える。


「志郎…。貴様は、何も、何一つ分かってはおらん」


 その静かだが、絶対的な自信に満ちた声に、会場の空気が凍りつく。


「いいだろう。貴様のような愚か者にこそ、見せてやる価値がある。食の本質、その深淵を…。『至高』のいくら丼というものをな!!」


(ああ…やっぱり…!)


 私の不安は的中した。志郎さんの考えは、やはり根本から間違っていたのだ。遊斬の瞳の奥に揺らめく、真実の探求者だけが持つ揺るぎない光を見て、私はこれから始まる一方的な蹂躙劇を予感し、そっと目を閉じるのだった。


 遊斬が静かに前に進み出る。彼がお盆に乗せて運んできたのは、あまりにも普通、あまりにも見慣れた、一杯のいくら丼だった。艶やかな白米の上に、大粒のいくらが惜しげもなく盛られている。ただそれだけだ。


「な、なんだそれは! 何が『至高』だ! そんなもの、場末の居酒屋でも食える代物じゃないか!」


 あまりの凡庸さに、志郎さんが声を荒らげる。だが遊斬は、そんな雑音には目もくれず、ただ静かに審査員たちへ語りかけた。


「論より証拠。まずは一口、お召し上がりいただきたい」


 その有無を言わさぬ迫力に押され、審査員たちは恐る恐る箸を取る。そして、いくらを一粒たりともこぼさぬよう慎重に口へ運んだ瞬間――


 世界から、音が消えた。


 審査員たちは言葉を失った。ただ、ひたすらに。夢中になって丼をかき込み、あっという間に米粒一つ残さず平らげてしまった。しばらくの沈黙の後、一人の審査員が、まるで天啓を得たかのように呟いた。


「……いくら丼とは……こんなにも、こんなにも美味なるものだったのか…」


 その一言が、堰を切った。


「あぁ…! なんという濃厚な旨味だ! 一粒一粒が、口の中で生命力を持って弾けるようだ!」

「そしてこの白米! いくらの塩味と旨味を優しく受け止め、完璧な甘みで包み込んでいる! これこそが至福、口福の極み!」


 賞賛の声が飛び交う中、遊斬は淡々と、熟練の職人が自らの仕事を語るように、その一杯の秘密を解き明かし始めた。


「日本で最も美味いとされるイクラの一つが、北海道は白糠町の『シラリカいくら』だ。水揚げされたばかりの秋鮭の腹を、わずか30分以内に処理することで、他の追随を許さぬ抜群の鮮度を保つのだ」


 彼はそこで言葉を切り、志郎さんを射抜くような目で見つめた。


「だが、それだけでは『至高』たり得ない。私は製造元に頭を下げ、特に大きく、脂の乗った極上の鮭からとれる、最上の卵だけを厳選していただいた」


 遊斬の解説は続く。


「いくら丼として最高の味を追求するならば、いくらの旨味を殺さぬよう、白米の割合は自ずと少なくなる。ならば、いくら自体の塩分は極力抑えるべき。これもまた、私の我儘を聞き入れてもらい、通常よりも塩分を控えた特製の醤油だれで漬けてもらったものだ」


「米は同じく北海道産の『ゆめぴりか』。これを羽釜で一粒一粒が立つよう硬めに炊き上げた。大粒のいくらが口の中で弾け、溢れ出た旨味の水分を米が瞬時に吸い込む。その渾然一体となった美味こそが、この丼の真髄だ」


 その完璧な理論と、食への執念ともいえるこだわりに、審査員たちは恍惚の表情を浮かべた。


「これだ…! これこそが『至高』のいくら丼だ!」


「志郎氏のキャビア茶漬けは、確かに目新しかった。だが、この本質を突いた一杯の前では、ただの小手先の戯れに過ぎん! 遊斬さんのに比べたら、志郎さんのはクソや!」


「勝者、遊斬!!」


 満場一致で審査委員長が宣言すると、大きな拍手が鳴り響いた。

 ガックリと膝を突く志郎さん。その顔には、完敗を喫した悔しさが滲んでいた。


(俺はなんて馬鹿だったんだ…。食材の珍しさ、高級さという上辺だけの価値に目を奪われ、いくら丼という料理の本質を完全に見失っていた…!)


 志郎さんを完膚なきまでに叩き潰した遊斬は、満足げに、そして高らかに笑った。


「分かったか、愚か者めが! 貴様は目新しさと高級感に惑わされ、魚たちが未来を紡ぐはずであった尊い命を頂くという、魚卵を食すという行為そのものへの敬意を忘れたのだ! 貴様は所詮、高級品を盲目に追い求める、浅ましい美食家気取りと同類だ! ガッハッハッハ!!」


 その言葉は、志郎さんの心に深く突き刺さった。彼は悔しさに涙を浮かべながら、遊斬から差し出された『至高のいくら丼』を一口食べた。


(う……美味い…!!)


 口の中に広がる、生命の爆発。自分と、この好敵手との間にある、あまりにも巨大で、絶望的なまでの実力差を、彼はその一杯で思い知らされたのだ。

 その光景を眺めながら、私は心の中で静かにため息をついた。


(ああ、やっぱり…。やっぱり、志郎さんはフルボッコだわ…)


 予想通りの結末。そして、ここから打ちひしがれた志郎さんを慰め、励まし、次の対決へと奮い立たせるという、いつもの重労働が待っている。私の本当の戦いは、いつもこの後に始まるのだ。


(やれやれだわ…)


 私はそっとハンカチを取り出し、うなだれる上司の背中を見つめるのだった。

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