虹と約束と放課後
「虹ってさ、幸運の前触れなんだって」
「そうなの?」
唐突に言われて、僕はそう返すしかなかった。
放課後の部室には、僕と彼女の二人しかいなかった。
降りしきる雨が窓を叩く音と、廊下の向こう側から聞こえてくる放課後を喜ぶ生徒たちの声が薄っすらと聞こえる。
部室にある長机はコの字に置かれていて、僕と彼女はそんなコの先端に向かい合うように座っていた。
それは僕たちの距離感を表しているようで、なんだかくすぐったさと共に切なさを感じてしまう。
六月の湿気がうっすらとあたりを漂っていた。
部室の本棚にある古本の匂いと混ざって、古い図書館にでもいるような気分だった。
この匂いは好きだ。
あまり本は好きじゃないし、読むとしても漫画アプリで漫画を読むくらいの僕だけど、経年劣化した紙とインクの匂いは何とも言えない気分になれる。
僕の返答に少し悩む彼女が口を噤むと、雨音に交じって少し低めに設定されている空調が回る音が聞こえる。
その音のせいで寒さがやってきて、僕はぶるっと身震いをした。
僕は学校指定のポロシャツを引っ張り出してきて今日から着ていたけど、雨のせいでそれは少し失敗の様に感じていた。
逆に彼女は半袖のワイシャツとニットベストを着ていた。
昼過ぎから雨が降り始めたのを見て、僕はそれが正解だったかと思った。
折り畳み傘を持ってくるのを忘れてしまった僕は、とりあえず部室で雨宿りをすることにした。
スマホでに入っていた天気予報のアプリによると、雨が上がるのは十七時過ぎらしい。
あと一時間もすればこの本降りの雨も上がって、曇りになるようだった。
そんな僕の気まぐれに付き合うように、彼女も学校に残ることを決めた。
なんでも、彼女も折り畳み傘を忘れてしまったらしい。
雨で気温が下がる事を見越してベストを着てこれる女の子なのに、珍しいと思った。
だけど、さっき開けたスクールバックの中に水色の可愛らしい傘が入っているのを見つけてしまって、なんだか少し申し訳ない気持ちになった。
今日は僕も彼女の部活が休みで、早く帰れるはずだった。
部活仲間の子から遊びに誘われていたが、委員会の仕事があるからと断っているのをみてしまったからか、それとも彼女にしょうもない嘘をつかせてしまったからか。
そんな彼女は、僕との間にあった微妙な空気感を消すために雑談を振ってきた。
それをうまく返せず、また僕は少しの自己嫌悪をする。
「例えばさ、ジェットコースターとかあるじゃない? 上に上に上がっていって、その時はどんどん恐怖をあおられているけど、その後には気分爽快なことが待っているみたいなものだよ」
「僕、絶叫系は嫌いだから分からないな」
「そうなの? そしたら、ケーキを待つ十四時半みたいな感じかな」
「うーん、ちょっと抽象的すぎない?」
文学部の中だと彼女は抽象的な言葉を使いたがる。
クラスの子と話す時は普通だけど、文学部での活動中は独特の言い回しをするのだ。
全生徒が部活動への強制入部をさせられる影響で、なんとなく楽そうで週二回顔を出していれば、あとは何も言われないという理由だけで入部をした僕とは対照的に、彼女は純粋に本が好きだから入部をしたらしい。
僕は、彼女の入部理由が少し意外に思えた。
クラスではどちらかと言えば活発な雰囲気で、勉強もそこそこと言った感じ。
可愛いというよりも綺麗系の見た目であり、彼女のことを好きだという男子から、この前恋愛相談を受けるくらいの子だった。
だから、文学部に入部したのも僕と似たような理由で、例えばバイトをしているから適当な部活に入ったものとばかり思っていた。
勝手に仲間意識をもってただけに、純粋に本が好きだから入部したと聴かされた時は、なんだか僕が小さい人間のように感じた。
そんな彼女は、口元を少しだけほころばせる。
「私が思っていること、考えていることをできるだけ高い純度で君に伝えようと思ったら、自然とこうなっちゃうの」
「なるほどね。そうなったら、ケーキを待つ三十分が雨が降ってる時間で、冷蔵庫を開けようとした時が、虹が出てる時みたいな感じかな?」
そんな感じ、と彼女は言った。
「良いことの前には悪いことがある、ってなんだか神様は意地悪じゃないかな?」
「そうかな? 逆に悪いことがないと、良いことが分からないと思うけど」
「それは尺度の話でしょ? 僕が言ってるのはタイミングの話」
なるほどね、と彼女は笑う。
「良いことの後に、良いことがあったっていいはずだと思うんだ。例えば虹という綺麗なものが見れた後に好きな人と出会えたって不思議じゃない」
「うーん、幅の問題じゃないかな?」
幅、と聞き返す僕に、彼女はコクっとうなずく。
その仕草は大人ぶったものじゃなくて、年齢相応の女の子の雰囲気だった。
「そう、幅だよ。例えば今幸せだって思える数値を八十にしたとして、ゼロから八十になった人とマイナス二十から六十になった人だったら、上り幅は同じだけどマイナスから脱却できたっていう安心感もない?」
「確かに、それはそうかもしれないね」
「だから、単にタイミングが重なるんじゃなくて、些細な事であったとしても良いことが起こったって認識しやすいって話なんじゃないかな?」
じゃあ、今この時間は君にとってどうなの。
僕は思わず聞きそうになって、喉元でその言葉を押しつぶした。
聞いたら引き返せなくなってしまいそうだったから。
「だから虹は幸運の前触れなんだよ」
「そう聞いたらそうかもね」
彼女はそう締めくくった。
僕はそっと息を吐きだしながら、窓の外へ視線を送った。
雨はさっきに比べて少しだけ弱くなっているように思えた。
昼過ぎには、太陽を隠していた黒灰色の雲が風に流れ、切れ間から太陽の光が薄っすらと見え始めている。
この分であれば、もう少しで雨が止むかもしれない。
そう考えると、今の僕にとっては今日午後から雨が降ったことが、虹の役割を果たしているように思えた。
傘を忘れたこと、冷房が効きすぎた部室にいること、そしてそんな僕に付き合って部室に残ってくれている彼女。
なんだか奇跡みたいなバランスで整ったシチュエーションは、落ち込んでいた心持を少しだけ回復させてくれる。
これが虹の効果なのだとすれば、それは確かにそうなのかもしれない。
「……ねぇ、この学校の屋上に行けるのって知ってる?」
「屋上は全生徒立ち入り禁止じゃなかったっけ?」
入学式の日に、強面の体育教師が言っていたのが脳裏を過る。
確か話によれば、校則違反で停学させられるはずだ。
僕はそんなリスクを冒して内申点を下げたくないし、何より家にいるよりも学校にいる方が気楽だった。
そんな僕の心を読み取ったように、彼女はそっと笑みを浮かべる。
たまたまなのかもしれない。
でも、僕にはそんな風に見えた。
「それがね、この前の防災訓練の時に施錠担当の先生が鍵を壊しちゃったんだって。今は南京錠が掛かってるんだけど、古いタイプの南京錠だから簡単に取り外せちゃうんだって」
「なんでそんなことを知ってるの?」
僕が聞き返すと、彼女は小悪魔っぽく笑った。
「クラスの子から聞いたの。なんでも、その子と彼氏で行って学校でキスをしたんだって」
「……僕はこういう時どういう反応をすればいいの?」
「じゃあ行ってみる、って私を誘うとか?」
僕は深く息を吐きだした。
「君は屋上に行く共犯を作りたいのか、それとも僕をからかっているのかどっちなの?」
「それは秘密。例えば目の前に宝箱があるとして、中身が分かっている状況で開けると楽しみにが半減するでしょ?」
「確定していることで増える喜びもあると思うよ?」
「予定調和の方が、君は好きってことかな?」
僕は首を横に振った。
「いや、不調和にも不調和の良さがあると思ってる。上手くいかないから、上手く言った時に喜べるでしょ。さっきの虹の話しと同じだよ」
「確かに。だから君は小説を読まないのかな?」
「小説は読んでないけど、漫画読んでるよ。表現方法が違うけど、構成っていう部で見たら漫画も小説も映画も同じでしょ?」
それは敵を作る言い方だね、と彼女は言った。
確かに今の僕の理論は横暴のように思えたし、何よりも思考停止をしている人間の考え方だった。
ただ、それでも根っこにあるものは変わらないと思っているのは本当だ。
そこについては嘘偽りない本心だった。
「雨、止まないね」
「予報だと、もうすぐ上がるよ」
「だったら、もう少しだけ部室にいなきゃだよね?」
そうだね、と僕はぽっけに突っ込んでいた手を出して部室の長机に乗せて頬杖を突いた。
視界の先では僕と同じタイミングで頬杖を突く彼女が見える。
「真似しないでよ」
「君の真似じゃなくて、鏡の真似をしてるの」
「それって何が違うの?」
「左右が違うよ」
僕は右手で頬杖をついていて、それを真似する彼女は左手で頬杖をする形になっている。
言われてみれば確かにこれは鏡の状態だ。
「でも、同じことだよ。目の前の僕を真似しているのに変わりはない」
「逆に君が私の真似をしている可能性はないの?」
「僕の方が先に動いたから、それはないかな」
「あはは、君はいつも面白いね」
それはこっちのセリフだと思ったけど、その言葉はそっと喉元に仕舞い込んだ。
今日何度目か分からない沈黙が僕と彼女の間に漂った。
沈黙はコの字型の何も置かれていない空間に、大きな崖を作り出しているように思える。
距離はない、でも落ちれば奈落というのは橋がかからない限りわたる事を躊躇させる。
だけど、これは虹の前に降る雨なんだろう。
幸運の前の悲劇なのかもしれない。
「……じゃあ、見に行ってみる?」
「ん?」
聞き返してくる彼女は、いたずらっぽく微笑んでいる。
聞こえていて、わざとそうしているんだろう。
ほほに熱が上がってくるのが分かる。
心臓が変な音を奏でて、縮むときに余計な圧力がかかって痛い。
「虹、出るかもしれない」
「まだ雨降ってるよ?」
「聞こえてるんじゃん」
どこに行くのかが聞こえなかった、と彼女は言う。
「いや、やっぱりいいや」
「そうなの? 屋上行くの怖くなっちゃった?」
そんな感じ、と僕は言った。
でも、こんな僕だけどこのままで終わってはいけないような気がした。
だから、不格好に早鐘を打つ心臓を押さえつけて、目の前の崖に飛び込んでみることにする。
「虹が出そうな時にさ、見に行こう」
「屋上に?」
「屋上かな、やっぱり。この辺で高くて見晴らしがいい場所は屋上しか知らないから」
「その時にはもう鍵は開かないかもしれないよ?」
それは確かにそうだ。
「でも、その時の僕達ならきっとこわせるよ」
「あはは、意外と君は大胆だね?」
それはきっと君と居るからだ。
これは雨の日のささやかな約束。
空にかかる虹を見ると、ふいに思い出してしまう約束。
もうきっと大人になったら忘れてしまう様な思い出を抱いて、僕たちは生きていくんだ。
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