「あっ――」

　テーブルから転がったのは、ガラス製の装飾だった。

　丸い形状のそれは少女の気づかぬうちに何かしらの衝撃を受けて転がったようだ。軽快な音を立てて、フローリングの上に着地した。

　本に栞を挟み、少女は若干椅子を引いた。木製の足は経年劣化で奇妙な鳴き声をあげる。

　机の下のスペースに手を伸ばそうとして、少女は足元を覗き込む。右側に落ちたはずだから、反射的に体を右に捻りながら。

「あれ？」

　無い。

　落ちたはずの小さな球体は、完全に少女の気配から消え去っていた。

　足を浮かしたりして探すが、どこにも見当たらない。

　おかしい。

　確かにこの目で落ちる瞬間、落ちた音、足元を触れるガラスの冷たさを感じ取っていた。

　しかし、視線を向けた瞬間――そう、その瞬間を狙っていたように、この世界から綺麗さっぱり消え去ってしまった。

　まるで手品のように消えてしまっていた。

「あれ……？」

　思考を切り替えて、小説に戻ろうか思案する。

　正直なところ今読んでいる小説の展開は佳境を迎えていて、主人公の隠されていた過去が明らかになるところだった。

　その展開は意外なものだった。主人公はスラム街の生まれとして物語の序盤で語られ、その世界のほとんどの人物と同様に、少女も信じて疑っていなかった。

　全てを知っているであろうフィクサーの立場である老人によって、いざ彼の昔話が始まる……そんな矢先にガラスは消え去ってしまった。

　探すのを諦めようか。

　ひねっていた体を戻しながら、少女は刹那で思考を巡らせる。

「んー……」

　ガラスの存在を忘れられないこともない。

　物語に戻ってしまえば現実とは隔絶され、あの臨場感の渦巻いた非日常に戻ることができる。

　しかし、一旦気になってしまうともうダメだ。脳内は先ほどの物語の顛末よりも、小さなガラス玉に縛り付けられてしまっていた。

　面倒だが、席を立つか。

　椅子を引き、立ち上がろうとした時。

「あっ」

　椅子の足に当たって転がる球体を見つけて、少女は無意識に声を上げていた。

　そんなところにあったのか……少女は昨日先生から教わった『灯台下暗し』と言う言葉の意味がよく分かった気がした。

「あった」

　少女は席から立ち上がって、今もなお転がり少女から逃げ出そうとするガラス球を捕まえる。

　窓から差し込む光を跳ね返すガラス玉は、なぜか誇らしげに見えた。