氷の溶けたコーヒー

 明日について考えていた。


 それはある意味、昨日のことを考えているようで、延長線上にある今日についても考えているようだった。

 一つなぎになったその線の上を、どことも知れずに歩いているような感覚。私たちは生命として地球に生まれ落ちた段階で、その線の上歩くことを半ば強制されているのだと思った。


 人はなぜ生きるのだろう。

 私たちは何を思って、明日へと向かっていくのか。とりあえずの惰性で明日へと向かうが、しかし別に無理して歩を進める必要もない気がしていた。

 死にたいわけではないが、どちらかと言えば諦観に似た感情だった。有神論者が無神論を理解するような感覚に似てるようで、生の存在によって死は色の濃さを増す。


 死とはなんなのだろう。

 謎めいたこの命題は、一生掛かっても解くことができない難題であった。解いたからといって懸賞金があるわけでもなく、だからこそ私たちは、日常生活においてその存在を遠ざけ続けている。


 そこで、ふっと意識が体に戻る。


 夏の風だった。


 開け放った窓にもたれかかり、ただ呆然と外の光景を見つめていた私は、ふいに頬を撫でた熱風に顔を顰めた。

 空はじりじりと焦げるような音を奏でる太陽と、海に似た青空が広がっていた。雲はさながら自由を象徴していた。

 ノースリーブの肌着は汗でぐっしょりとしていた。気持ちが悪かった。

 頬を伝う汗がまとう熱気は、毎年温度を上げているように思える。私たちが住んでいる地球が、なんだか緩やかな死に向かっているように思えて、少し怖くなった。


 私にとって人生とはこんな風に、温度が上がっていくものだっただろうか。

 年々高くなっていく最高気温のように、来年また来年と、自分自身を高めることができているだろうか。


 脳内を一瞬空白が満たした。

 それは明らかな否定で、白を否定的な感情の表現に使ったことを後悔した。表現は自由だが、なんだか純白を汚してしまったように思えたからだった。

 純白を汚してごめんなさい。

 心の中で静かに懺悔の言葉を残した。


 からん、と耳に快音が響いた。

 視線を向ければ、先ほど冷蔵庫で楽園を謳歌していたコーヒーが、自身の熱で氷を溶かしていた。それはなんだか、私とアイツの関係のよう。


 アイツが溶けてきていたのか。

 それとも私が溶かされたのか。


 男女の関係は氷と液体のようだった。


 最初はちゃんと固まっているが、時間が経つごとに、その固体の形はあやふやになっていく。

 そうなったらもう戻ることなんてできなくて、気がつけば関係は薄まった液体のように味気ないものになっている。


 それは感情の摩擦熱とか、きっとそんな感じだ。さっき部屋から出ていた彼は、憤りに似た表情をしていた。


 私が悪いのだろうか。


 こんな暑い夏にコーヒーを出しっぱなしにしてしまうような女だから。ガサツなところまで全てを愛されている気になっていた自分に、改めて嫌気が差す。


 自己嫌悪なんてしたくなかったけど、せざるを得ない状況だった。

 自分で自分を傷つけなければ、この心が壊れてしまいそうで。でも溶け出した氷は今更元には戻れない。


 過去には戻れないのだ。


 薄まったコーヒーを飲んだアイツは、それを好きだと言っていた。だって、水が足されただけだろ、って。

 でもそれ、ガムシロップの味だって。そう言った私の言葉を、アイツは半分聞いてなかったっけ。


 本当に、どっちもバカだ。


 アイツにとっての私なんて、その程度だったんだって思ったら、急に虚しくなってくる。今までが全部無駄だったんだって、優しい言葉で言われているようで、でも頭の中はそれを否定したくて、洪水のようで気持ち悪かった。


 吐きそうだ。


 朝起きてから何も食べていない胃から何も出てこない。だからこんなこと無駄だってわかってるけど、そう思えた瞬間に涙が出てきた。


 いや、これは汗。

 そう思いたいけど、でもどうしようになかった。誰かに会いたいけど、誰にも会えない顔になっていた。

 居なくなってから、居ることの大事さに気がつくなんて、神様は残酷な運命を与えたものだって思った。


 淹れたばかりのコーヒーを冷たくするには、いつだって氷が必要だ。

 無くす前に気がつくようにしてくれば、こんな感情にならなくて済んだのにって。


 でも、全部自分が悪いから。

 私はそのまま感情を吐き出し続けた。

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