2.

(しまった!)

 少女は目を覚ますなり、ベッドの上で思った。

 帰宅して食事の時間まで少しだけ眠るつもりだった。しかし、すっきりと明瞭な意識が、眠っていた時間が一時間や二時間ではないことを少女に確信させた。

 恐らく母親が食事の時間に起こしに来てくれたはずだが、自分が追い払ったに違いない。その記憶すらなかった。

 窓の外からは、冷たい風と共に季節外れでもあり、時間外れに思える蝉の鳴き声が聞こえた。まだ目は闇に慣れておらず、周囲は真っ暗にしか見えない。

 何時間眠ったのだろうか。嫌な予感を抱えながら、少女は手を這わせてどこかにあるはずのスマホを探った。

「あれ……?」

 持ってきたはずのスマホは、どうやらベッドの上にはないようだった。

 洗面台かどこかに置き忘れたのかもしれない、と少女は思った。

 仕方なくベッドからギリギリ届く位置にあるはずの、ボードに置かれた目覚まし時計にまで思い切り手を伸ばし、それを目の前に引き寄せた。

 時計の針は、1時56分を指していた。

 少女はため息をついた。空腹感はないが、このまま眠れそうにもなかった。



午前2時ちょうどに、時計を見ながらひつじを数え続けると、02:00:59を超えても02:01:00にならず、数字が増え続ける



 放課後のA子の怪談話を思い出した。

(時計が、02:01:00にならないって……?)

 少女は、A子がデジタル表示の時計を前提に説明していたのだと気付いた。

 手元にあるようなアナログ表示の時計ではどうなるのだろう、と少女は何となく考えた。その頃には部屋の様子をうっすらと目視することができた。


 時計はもうすぐ2時を指す。


(アナログ時計なら手も足も出ないでしょ?)

 刻々と午前2時へと近付く秒針に急かされるような気がして、少女はひつじを数えてみることを決断した。



「ひつじが1匹……」ひつじを数え始めてすぐに、文字通り数えていては間に合わないことに少女は気付いた。

「2匹、3匹……」少女の微かなつぶやきのようなカウントが暗闇の中に続く。


「25匹、26匹!……」その時、下の階にある大きな壁掛け時計が2時を告げる鐘を鳴らした。

 一瞬、少女はびくりと身を固めるが、すぐに一階の時計の音だと気付き、構わず数え続けた。


「59匹、60匹……」

 秒針が60秒に達したその時、突然、それが当然であるかのように左回りを始める時計を見た。


「えっ?」

 少女は呆然として、左回りに逆行する秒針を見つめることしかできなかった。


 秒針が49秒に到達した時、突然、玄関のドアを強く叩く音が闇に響いた。

 少女が恐怖で動けない間もドアを叩く音は止むことがない。音は少しずつ大きくなっていく。しかし、いい加減眠りから覚めても良いはずの家族が反応する様子もない。

「ヒロシ!」少女は隣の部屋で眠っているはずの弟の名前を叫んだ。

 しかし、返事はない。


 少女は部屋を飛び出した。弟の部屋のドアを開けようとするが、ドアノブはびくともしない。ドアを叩き、弟の名前を叫び続けるが応えはない。

 その間も、玄関のドアを激しく叩く音が響き渡る。


 少女は恐怖に身を屈め、手すりを両手で伝いながら階段を降りていった。

「お父さん!お母さん!」

 下の階にいるはずの両親に向かって叫ぶが、何の反応もない。

 左手にある玄関の方を見ることはできなかった。

「お父さん!お母さん!」少女は叫び続けた。ドアを叩く音をかき消したかった。


 ようやく父と母の眠る寝室にたどり着き、少女は叫びながら寝室のドアを開けようとした。しかし、どうしてもドアを開けることができない。

「お父さん!お母さん!助けて!」

 叫んでも、ドアを叩いても、何の応えもない。玄関のドアをヒステリックに叩き続ける音が少女を追い詰めていく。



そのドアを開けて、そこに立っている人から渡された契約書にサインしないと、あなたは死ぬ



 A子の言葉が頭をよぎった。

 凄まじい恐怖に嗚咽しながら、このままここに居続けるべきかドアを開けるべきか考えたが、答えなど出なかった。

(助けて、助けて、助けて!)

 少女は動けなかった。もう言葉も出てこない。できることは、心の中で助けを求め続けることだけだった。


 やがて、ドアを叩く音がピタリと止んだ。

(助かった?)そう思っても、しばらく動くことができなかった。

 少女は全身の感覚を研ぎ澄まし、周囲の気配を必死に感じようとした。周囲からは何の物音も気配も感じなかった。ただ自分の荒い息遣いだけが聞こえた。

 どれほどの時間が経ったのか分からない。ようやく少女は恐る恐る顔を上げることができた。


 突然、目の前が影に覆われた。

 とっさに振り返ると、そこには自分と同じ年頃の少女が立っていた。声を上げることすらできなかった。


 いきなり肩を突き飛ばされ、少女は押し倒された。容姿からは想像もできない力だった。

 考える間もなく、仰向けにされ、両手で首を掴まれた。襲ってきた少女が、全体重を首を掴んだ手に掛けてくる。

(嘘でしょ……)

 喉が押しつぶされ、自分が醜いうめき声を上げているのを聞いた。何もかも信じられなかった。

 自分の首を絞める少女は、何故か泣いていた。


(A子……嘘でしょ?)


 少女は何も分からないまま、呆然とA子を見上げていた。不思議と苦痛はなかった。ただこれが死ぬことなのだと思った。

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