「今日牛病」
志乃原七海
第1話「狂牛病」
「あーたまには、お肉食べたい!」
食卓に並んだおひたしと焼き魚を前に、私は箸をぷらぷらさせながら不満を漏らした。母は昔、祖母を生活習慣病で亡くしてから、肉というものを目の敵にしていた。我が家の食卓は、まるで修行僧のそれだ。
「わがまま言うんじゃありませんよ! 女の子がお肉なんて! 太るわよ!」
案の定、お茶碗を片手に母が眉を吊り上げた。そのヒステリックなまでの健康志向は、もはや信仰に近い。
「えー? お肉だから、筋肉が付いて細くなりそうですけど? 太るのは脂でしょう?」
雑誌の受け売りだったが、私は負けじと食い下がる。母は一瞬、ぐっと言葉に詰まると、ふっと口元を緩めた。その笑みは、何か重い枷が外れたような、奇妙な開放感に満ちていた。
「……そう? なら、わかったわ。明日からお肉主体に変えてあげるから! 思う存分食べなさい!」
「わぁーやったー!! ありがとうございます!」
私は飛び上がって喜んだ。ついに我が家の食卓に、禁断の果実がもたらされるのだ!
この日を境に、母は「狂牛病」という、我が家を崩壊させる謎の伝染病にかかってしまうことを、私は知る由もなかった。
*
翌日の夕食、鉄板の上で分厚いサーロインステーキが音を立てていた。次の日は山と積まれた唐揚げ。その次は豚の生姜焼き。親の仇を討つかの如き肉、肉、肉。最初の数日は天国だった。
だが一週間も経つと、私の胃は悲鳴を上げ始めた。ある朝、こっそり冷蔵庫のミニトマトに手を伸ばした瞬間、背後に母の気配を感じた。振り返ると、母は無言で私の手からトマトをひったくり、ゴミ箱に叩きつけた。その目に光はなかった。
「えー……今日も肉だけ? もう飽きたよ……」
その夜、巨大なハンバーグの塊を前に本音を漏らすと、母は能面のような顔で私を見た。
「あなたが言い出したんじゃない」
その声には、一切の温度がなかった。食卓の隅に、赤い文字で「最終通告」と書かれた封筒が置かれているのが見えた。父の姿も、ここ数日見ていない。
私の願いは、家庭の歯車を狂わせ始めていた。食卓に上る肉のランクは日を追うごとに下がり、ステーキはコマ切れ肉に、そして脂身ばかりの煮込みになった。
そして、ついにその日が来た。
母がスーパーの精肉コーナーを素通りし、一直線に向かったのは缶詰コーナーだった。
その夜、食卓に置かれたのは、皿の上に無造作にあけられた台形のコンビーフの塊だけ。
「……ご飯、ないの?」
恐る恐る尋ねる私に、母はゆっくりと顔を上げた。虚ろな目が私を捉える。母は静かにフォークを手に取ると、コンビーフの塊をトン、と指した。
「これがご飯よ」
その瞬間、私はすべてを悟った。
これは狂牛病なんかじゃない。私のたった一言のわがままが生み出した、母を蝕む病。
『今日、牛(肉)を出す』という名の、終わらない呪いだ。
そして私の『今日牛病』は、明日も明後日も、このコンビーフの塊と共に続いていくのだろう。
「今日牛病」 志乃原七海 @09093495732p
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