第2話 2a Kei

 世界が、一度、呼吸を止めた。

 灯籠の明かりが凍りつき、空気の粒子が音を失う。

 葉の擦れる気配も、砂利を踏む靴音も――

 すべてが瞬時に静止画となり、夜そのものが白い薄膜に覆われた。


 時間は流れているのではない。

 剥がれている。


 街灯が逆向きに滲み、遠くの雲が溶ける順序を反転させる。

 ケイの吐息は胸に戻り、ビルの指先から零れた血が砂利の上を逆光のしぶきとなって宙へ還っていく。

 耳の奥で、金属を引き裂くような高音が「過去」と「未来」を区切る線を引き裂く。


 語り手はいない。

 誰も観測していない。

 世界だけが、世界自身を巻き戻している。


 灯籠がひとつ、ふたつ、順を逆にして点滅するたび、夜は淡い灰へ、灰は午後の陽光へと色を変え――

 神社の石段がひと呼吸ごとに若返っていく。


 そして。


 ――午後。

 キャンパスの空気が、熱を帯びた芝生の匂いを返してくる。

 世界が再び息を吹き返した。



 ――俺は、どこにいた?


 気づけば理工学部棟の廊下に立っていた。

 片手に缶コーヒー、もう片方に分厚いノート。

 蛍光灯の白がやけに輪郭を持って滲んでいる。

 さっきまで何をしていたのか、一瞬だけ頭が抜け落ちた。

 景色は確かに“今”なのに、自分だけが一歩遅れてはめ込まれたみたいだ。


 胸の奥で、薄い膜が張るようなかすかな圧が動く。

 鼓動でも痛みでもない。

 ただ、身体の奥で“何か”が自分の居場所を探している。


 視線を落とすと、ノートから提出用のプリントがはみ出していた。

 印刷された名前が、にじんではまた形を取り戻す。


 雪宮ケイ。


 その文字を見た瞬間、締切の迫るレポート、教授の顔、未完成の数式が堰を切ったように頭へ流れ込んだ。

 思い出した、はずなのに――

 記憶の縁だけがどこか薄く欠けている。


 途端、首筋にひやりとした違和感が走った。

 虫が皮膚の下を一瞬だけなぞったような感触。

 両手は塞がっていて確かめられない。


 ――今はレポートが先だ。気にするな。


 自分にそう言い聞かせ、早足で歩を進めた。


 そして、角を曲がった瞬間、世界が弾けた。


 ドン、と肩に衝撃。

 ノートが宙を舞い、缶コーヒーが白い廊下を反射してゆっくり落ちていく。

 銀色の缶が空中でぴたりと止まり、誰かの手がキャッチしたのだと気づく。

 時間が一瞬、ほんの少しだけ逆流したように見えた。


Whoaウォウ、危ない」


 低く通る声。

 完璧な日本語に、英語の息がうっすら混ざる。

 その響きが、耳の奥に名のないざわめきを残した。


 缶を差し出してきた青年――

 色素の薄い髪、深い青の瞳。

 どこかで見たことがあるような、しかし思い出せない。

 記憶の端を誰かに指でなぞられたような感覚が背中を走る。


「前見ろよ」


 思わず眉をひそめて吐き捨てる。

 声が自分でも驚くほど鋭く響き、胸の膜がわずかにきしむ。


Sorryソーリー、ごめん」


 缶を差し出しながら肩をすくめた。

 完璧な発音なのに、語尾だけが英語のリズムを引きずる。

 そのズレが、耳にひっかかる。


「お前、誰だよ」

「ウィリアム・ホーキンス。愛称はビル。僕は医学部からの交換留学生なんだ。君の名前は?」


 当然のように投げられた問いに、

 ついさっきプリントで確認したばかりの自分の名が喉の奥で一瞬だけ引っかかる。


「……雪宮ケイ」

Nice to meet you,ナイストゥーミーチュー ケイ。あ、日本語うまいって顔したね? 当たり?」


 ビルがいたずらっぽく笑う。


「留学生にしては発音が完璧すぎるだろ」

Thanksサンクス. 子どもの頃からアニメとマンガにドはまりしてさ。字幕なしで観たくて、ひたすら日本語をぶっ込んで覚えたんだ。好きって、チートだよね」


 冗談めかした声の奥に、長年積み重ねた努力を軽く隠すような熱が覗く。

 完璧と無邪気が同居するその温度差が、胸の奥をくすぐった。


「で、わざわざ俺のノートぶっ飛ばして何の用だ」

「お願いがある。大学に隣接してる神社に入りたいんだけど、神主さんに“外国人お断り”って追い返されちゃってさ。ちょっと調べたいことがあるんだ。観測――って言うと大げさだけど、中の様子をデータみたいに記録したい。君、日本人だよね? 一緒に来てくれたら助かる」

「観測って……何だそれ。爆発でも起きるのか?」

Probably notプラバブリーノット でもゼロじゃないかも?」


 ビルが自分で自分を突っ込み、肩を揺らして笑った。その軽やかさとズレが、胸の奥でじわりと響いた。


 締切が頭で点滅する。

 それでも、この男をここで切り捨てたら

 何か取り返しのつかないものを失う気がして、舌が動かない。


 ――理屈を超えて、こいつは面白い。


「……ったく。十分だけだ。さっさと終わらせて俺は帰るからな」


 口が勝手に動いた。

 違和感と好奇心が、静かに手を組んだ瞬間だった。


 夜気が一段と冷えてきた。

 大学の裏門を抜け、神社へと続く細道を歩く。

 灯籠の明かりがまばらに揺れ、石畳を淡く染めている。


 ビルは隣で黙々と歩いていた。

 さっきまで軽口ばかり叩いていたのに、今は何かに追われるように歩幅を速めている。

 気づけば俺の方が小走り気味になっていた。


「そんなに急いでどうした。観測とやらの締切でもあんのか」

「はは、締切……まぁ似たようなものかな」


 軽く笑った声の奥に、微かな張りが混じる。

 それが冗談なのか本気なのか、判断がつかない。


「観測って結局何だよ。中身を記録するだけなら写真で十分だろ」

「うーん、写真じゃ残らない“状態”がある。世界の揺らぎとか、観測者の痕跡とか」


 ビルは歩きながらちらりと俺を見た。

 青い瞳が灯籠の光を受けて一瞬だけ淡く光る。


「でも説明はあとで。彼らを見た方が早いから」


 核心をチラつかせては引っ込めるその言い回しに、

 興味よりも先に小さな苛立ちが頭をもたげる。


「お前、最初から“謎の外国人”キャラを演じてるだろ」

「演じてないさ。ただ、君にだけは――」


 そこでビルは言葉を切った。

 顔をわずかに俯け、短く息を吐く。


 灯籠の影が彼の横顔を切り取り、

 ほんの一瞬、寂しさのようなものが浮かんだ。

 口元は笑っているのに、

 その瞳だけがどこか遠くを見ている。


 理由もなく胸の奥がざらりと揺れる。

 なぜそんな顔をしたのか、俺には見当もつかない。

 ただ、その表情が“今の俺には届かない何か”を映していることだけは分かった。


「……何だよ、その顔」

Nothingナッシング. ただの風、かな」


 ビルはすぐにいつもの調子に戻り、

 肩をすくめて笑ってみせた。


 その笑顔が作り物に見えたのは、

 気のせいだろうか――。



 石段を上りきった瞬間、空気が一変した。

 闇に沈んだ社の前――

 そこに人影が無数に立っていた。


 黒い輪郭。

 どれも同じ高さ、同じ姿勢。

 片方は口を押さえ、片方は耳を塞ぎ、また一体は目を覆っている。

 日光の猿を思わせるその仕草が、夜の闇でいっそう不気味に映った。


「……何だ、あれ」


 思わず声が漏れた。

 ビルがこちらを振り返る。

 灯籠の光を受けた青い瞳が、一瞬だけ鋭く光った。


「ケイ……見えてるんだな」


 その短い一言で、胸の奥がざらりと揺れる。

 俺にしか聞こえないはずの空気の震え。

 世界の輪郭がわずかに締まり、影たちの揺らぎが確定していく――そんな感覚。


 ビルが一歩前へ。

 視線を影の一体に向けた瞬間、周囲の闇が息を呑むように凍った。

 影が膨れかけ、次の瞬間、輪郭が収束し、沈黙した。


 まるで――

 ビルがその存在を「そうあるもの」として

 世界に書き込んだかのようだった。


 俺は息を呑む。

 何が起きているのか分からない。

 ただ、ビルの眼差しが

 影だけでなく俺自身をも射抜いたとき、

 足元の石畳がかすかに震えた。


 心臓が跳ねる。

 ――今、俺は何かに定義されている?


 ビルが微かに笑った。

 それは勝利の笑みというより、

 どこか祈るような笑みだった。


 影たちが沈黙してから、どれくらい時間が経ったのか分からない。

 社の前の空気は相変わらず冷たいのに、足元を縛っていた緊張だけがゆっくりとほどけていく。


 ビルが一歩下がり、俺の隣に並んだ。

 その横顔は、いつもの軽い調子とは別人のように硬い。


「……これで、世界はひとまず安定した」


 低い声が夜気に落ちる。


「君に危険は――もう及ばないはずだ」


 ほっと息を吐く音が、ほんのわずかに震えていた。

 その震えに、俺の心臓が微かに反応する。

 恐怖だけじゃない。

 この外国人が、心の底から安堵しているのが伝わってくる。


 ビルは少し間を置いてから、視線をこちらに向けた。


「ケイ。君が――僕と同じ“観測者”だと分かった以上、本来なら組織に報告しなきゃならない」


 その言葉で、背筋が無意識に強張った。

 観測者? 組織?

 何を報告するって言うんだ。

 思わず一歩、距離を取る。


「報告……? 俺を、どうする気だ」


 ビルはその反応を見て、

 ふっと笑いを零した。

 さっきまでの張りつめた顔が嘘のようにほどける。


「――でも、その前にお腹がすいた」


 肩をすくめ、いつもの調子に戻る。


「バーガーショップ、行かない? 僕が奢るよ」

「……は?」


 間の抜けた声が勝手に漏れる。


「報告はいいのかよ」

Friendship firstフレンドシップファースト.」


 青い瞳がいたずらっぽく細められる。


「友達として親睦を深めるのが先だ。それに君、さっき“友達になれると思った”って言っただろ?」

「俺が? そんなこと――」

「言った。僕が聞いた。だから成立」


 ビルは片手を上げて、勝手に判決を下したみたいに笑った。


「もし記憶にないなら……今、僕が決めたってことでいいよね」

「おい、勝手に決めんなよ」


 呆れ半分、苛立ち半分。

 けれど口元が勝手に緩んでしまう。

 くだらないやり取りのはずなのに、

 胸の奥にわずかな温かさが広がっていくのを

 自分でも止められなかった。

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