終わらない一瞬の中で、君と

未人(みと)

第1話 1  Bill

 参道の玉砂利を踏みしめるたび、足裏に小さな音が返ってくる。

 昼の熱を吸った石が夜気に冷やされ、かすかに軋んだ。

 灯籠の淡い光がケイの横顔を断続的に照らし、黒目に金属めいた冷たさを宿す。

 無表情に見えるのに、眉の奥がわずかに動いた。

 レポートの締切が頭から離れないのだろう。

 その集中を邪魔している自覚があるのに、沈黙に耐えきれず、僕は口を開いた。


「アメコミでさ、よくあるだろ? ヒーローが特殊能力を持ってるやつ。日本のアニメにも似た設定が多いよね。……僕も、俗に言う“能力者”ってやつなんだ」


 ケイが横目でこちらを見る。

 灯籠の光が瞳に反射して、宝石のような輝きを帯びた。


「能力者?」


 声は低く、砂利を転がす石みたいに乾いている。


「その“設定”って、日本語じゃ“自分で勝手に決めただけ”ってニュアンスになるぞ。つまり嘘ってことになる」

Whatワット? マジで? ……はぁ、日本語むずかしいな」


 思わず肩をすくめてぼやくと、ケイが小さく息を吐き、ほんの一瞬だけ口角を上げた。

 月明かりに触れた華のようなその微笑は、鋭くて美しい――

 キュートだ、なんて言葉が頭をかすめたが、もちろん口には出さない。


「とにかく、君の言う“設定”じゃなくて、実際に僕には“観測者”という能力がある」


 自分でも驚くほど、声がわずかに震えた。


「量子物理学でいう“観測”に一番近いかな」


 ケイの足が半歩だけ止まり、砂利を押しつぶす音がやけに響いた。


「観測って……スーパーカミオカンデのニュートリノ観測みたいなやつか?」

Exactlyイグザクトリー! それそれ。ニュートリノ観測みたいに、観測して初めて“姿”が分かるものもあるけど――」


 僕は手をひらひらさせながら続けた。


「僕が相手にしているのは、ヒッグス粒子みたいに理論上存在するとされながら、実験で確かめられるまでは“あるともないとも言えなかった存在”なんだ。それを僕が観測すると世界は定義され、観測しなければ“揺らぎ”として漂い続ける」

「……神様みたいな口ぶりだな」

No wayノーウェイ、神様になるつもりは一度もないさ」


 軽く手を振って否定したが、心臓の奥で何かがひそかに脈打つ。


「で、そんな秘密を初対面の俺に話して大丈夫かよ」

「心配無用」


 指先に力を込めて軽く鳴らす。


「僕には観測を“キャンセル”する力もある。君が事実を知ったという観測を取り消せば、君はその記憶を失う」

「……なるほど。洋画に出てくる記憶を消すライトってやつか。よく出来てんな」


 ケイは肩をすくめながら呟き、再び前を向いた。

 石畳を渡る風の音だけが耳に残る。

 月明かりが彼の輪郭を斑に照らし、その光景がゆっくりと俺の胸に刻み込まれていく。


「……面白そうなお前と、友達になれると思ったんだけどな」


 唐突に、ケイが低く言った。

 ぶっきらぼうなのに、不思議と温かい声。

 その言葉が胸の奥で炸裂する。

 呼吸が浅くなり、視界がわずかに揺れた。

 僕が思わず足を止めると、ケイも立ち止まる。

 灯籠の光が淡く揺れ、境内の空気が一段と冷たく感じられた。

 砂利を踏む音が途切れ、沈黙が夜気に吸い込まれていく。


「……どうしたんだ?」


 ケイが肩越しに振り返る。

 その声は淡々としているが、どこか優しい。


「やらなきゃいけない仕事があるんだろ。さっさと終わらせてしまおうぜ」


 心臓が一瞬だけ跳ねた。

 “仕事”――その言葉を、彼が口にするとは思わなかった。


「君、僕の仕事って何か知ってるわけじゃ……」

「知らない。だから教えろって言ってんだ」


 ケイは片眉を上げ、わずかに口角を上げてみせる。


「どうせ記憶を消されるなら、俺が損するだけだろ。それじゃつまんないだろ」


 冗談めかした口調。

 でもその奥にある純粋な好奇心を、俺は聞き逃さなかった。

 胸の奥が、じわりと温かくなる。


「……初めてできた友達に話すのが、こんなに緊張するとはね」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。

 ケイがじっと僕を見つめる視線を感じる。

 逃げ場はない――いや、逃げたくない。


「僕は、ある組織に属している。表向きは存在しない、世界の裏側を動く小さな機関だ」


 言葉を選びながら、ゆっくり吐き出す。


「目的はただ一つ。世界が秩序を保ち、回り続けることを維持すること。そのために僕らは、神々の観測者を監視している」

「神々の……観測者?」


 ケイが小さく反復する。

 疑い半分、興味半分の声。


「そう。世界のあらゆる場所に点在する“彼ら”は、現実を見つめ、記録し、定義する存在だ。観測することで世界は固定され、観測を保留することで世界は揺らぎを保つ。その絶妙なバランスが、世界を回してきた」


 灯籠の明かりが一瞬、風に揺れて影が伸びる。


「もっと分かりやすく説明するなら、神々の観測者たちは、世界を写す鏡みたいなもんだ。彼らが見ることで、世界はハッキリとした形を保つ。でも最近、その鏡が曇り始めている。世界を映すのをやめて、目を逸らす奴らが増えたんだ」


 ケイは小さく鼻で笑った。


​「はは、鏡磨きね。ずいぶん地味な仕事だな、世界の裏側の機関にしては」

「そう言うなよ」


 僕は笑って肩をすくめてみせた。


「世界の輪郭が曖昧になって、全てが揺らぎ始める。僕の仕事は、そんな曇った鏡を、僕自身が観測することでピカピカに磨き直すことだ。そうやって、世界の像をもう一度ハッキリさせる」


 言い終えると、境内の空気がさらに静まり返った。

 ケイはしばらく無言のまま、夜空を見上げていた。


「……もしそれが本当なら、お前、ただの留学生どころじゃないな」


 その声に驚きはあっても、恐怖はない。

 黒い瞳が、冗談でも軽蔑でもなく、

 ただ興味だけを宿して俺を見ていた。

 胸の奥が熱くなり、言葉が続かなくなる。


「やっぱりお前、神様なんじゃないか」

Godガッド? No wayノーウェイ! 神様って呼ぶなら、ピザとコーラを供えてからにしてくれよな。夜はNatflixを奉納してくれ。アメフトは欠かせないから」


 冗談半分に言うと、ケイが鼻で笑った。


「なんだよ、だいぶ世俗にまみれた神様だな」

「だろ?神様っていうより、ただのバグだらけの観測アプリさ。しかもアップデート担当が僕一人っていうね。だから、時々バグ修正を手伝ってくれる友達が欲しいんだ」


 ケイの口元が、わずかに緩む。

 その表情に、胸の奥がさらに温かくなるのを感じた。


 そんなやり取りをしながら鳥居をくぐった瞬間、空気の密度が変わった。

 灯籠の光が届かない奥は、夜が幾重にも折り重なったように濃い。

 息を吸うたび、冷えた闇が肺の奥まで滑り込む。

 拝殿の前に、黒い影が無数に立ち並んでいた。

 人の形をしているのに、輪郭は煤のように曖昧だ。

 一体は口を手で隠し、一体は耳を塞ぎ、一体は目を覆っている。

 他の影もそれぞれが顔や頭を覆い、

 まるで何かを見ることそのものを拒むかのように静止していた。

 

「……なんだ、あれ」


 隣のケイが小さくつぶやく。


「君、あれが見えてんのか?」


 ケイは頭を軽く振って、混乱したように呟いた。だが、その目は影に釘付けになっている。


「あぁ、見えてる、俺には見えてる。なんだこれ、気持ち悪いな……」


 その声に、心臓が跳ねた。


 本来、神々の観測者を視認できる人間は、僕だけのはずだ。

 あり得ない現象に、背筋が凍る。

 その瞬間、群れの奥からひとつの影が膨張した。

 墨を水に垂らしたように輪郭を広げ、背丈を何倍にも膨れ上がらせながらこちらへ迫ってくる。

 影の奥から、獣のような咆哮が社の天井を震わせた。


Get backゲットバック, ケイ!」


 叫ぶより早く、黒い巨影がケイに跳びかかる。

 そして――噛みついた。

 肩に食い込む影の顎。

 刹那、月光の中に鮮血が散った。


 ケイの悲鳴が境内を裂く。

 その音が、俺の中の何かを完全に断ち切った。


 ――観測を、消す。


 意識が命じるより先に、力が発動した。

 僕は両目を閉じ、世界からその影の存在そのものを指で消し取るように、「なかったこと」として塗りつぶした。

 空気が一瞬真空になり、音が吸い込まれる。

 影は形を失い、霧のように崩れ落ちた。

 ケイを喰らった神々の観測者を世界から削除する――

 それは神殺しに等しい禁忌だ。


 だがケイの肩から溢れる血は、その行為を嘲笑うかのように止まらない。

 体温を艶めかしくはらむ赤が、俺の手の中で現実を証明していた。


「ケイ! ケイ、頼む、目を開けて!」


 声は震え、視界が白く滲む。

 だが彼の呼吸は、もう――。


 心臓が砕ける音が、自分の鼓動よりも鮮明に響いた。



 指先が震える。

 僕の能力は、観測を取り消せたとしても情報の「修正」が限界だ。これ以上の力は、秩序そのものに手を加えることになり、世界そのものが拒絶する。

 ​それでも、「死」という現実を打ち消すため、僕は次の禁忌に手を伸ばす。


 死そのものを消去する。


 この世界から「ケイが死んだ」という事実を根こそぎ塗りつぶす。


 空間が軋み、灯籠の光が裏返る。

 境内の景色が崩れ、再び組み上がっていく。

 そして――

 途方もないループが、静かに始まった。

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