第3話 2b Kei

 店に入った途端、塩と油の匂いが腹を直撃した。

 揚げたてのポテトの香り、グリルの焦げた肉の匂い――

 どれも現実的で、神社の冷たい空気が

 遠い嘘みたいに霞んでいく。


「うわ、いい匂いだ」


 ビルが鼻をひくつかせて笑う。


「この匂い、学食じゃ絶対出せない。危険だ、太るやつだ」


 思わず吹き出しそうになる。

 さっきまで神だの観測者だのと口にしていた男と同じ人物とは思えない。


 カウンターから運ばれてきたバーガーは、紙袋ごと俺のノートより分厚い。

 ビルが包みを開いた瞬間、チーズがとろりと溶け落ちた。


So hungryソーハングリー.」


 英語まじりの低い声。

 ビルは豪快にかぶりつき、口角にソースをつけたままサムズアップしてみせる。


「……汚れてるぞ」


 思わず指さすと、ビルが舌で器用に拭って笑った。


「アメリカじゃこれが正しいマナー。バーガーは豪快に食べないと味が半分になるんだ」

「日本じゃ“お行儀が悪い”って言われるやつだな」

Good thingグッドシング I’m Americanアイムアメリカン.」


 白い歯を見せて、悪戯っぽくウインクする。

 肩の力が抜ける。

 この男、やっぱり変だけど――嫌いじゃない。


「で、報告とやらはいいのか?」


 神社で言っていた“組織への報告”を思い出し、紙ナプキンで指を拭きながら探るように訊ねる。


「まだ腹ごしらえが終わってない」


 軽快に返すビル。

 その口調があまりにも自然で、“報告”なんて言葉が冗談だったかのように思えてくる。


「そういえば」


 俺はポテトを一本つまみ、わざと気だるい声で言った。


「さっき神社で手伝ってやったんだ。今度はお前が俺のレポート、手伝えよ」

Reportリポート?」


 ビルが目を丸くする。


「量子物理工学のレポート。締切が迫ってて死にかけてる」

「Ha, dealディール. ポテトの報酬込みなら考える」


 ビルがニヤリと笑い、ポテトを俺の皿に一握り放り込む。


 苦笑しながらそれを受け取った瞬間――


 揚げ油の弾ける音が一拍遅れて止まった。

 店内を満たしていたBGMが、スピーカーの奥で誰かがスイッチを切ったかのようにフェードアウトしていく。

 客の笑い声も、紙袋の擦れる音も、すべてが水の中に沈むように遠のいていった。


「……ビル?」


 思わず名前を呼んだ。

 ビルはハンバーガーを持つ手を止め、視線だけで入口を示した。


 ガラス窓の向こうに――黒い影が立っていた。


 あの社で見たものと同じだ。

 口を押さえる者、耳を塞ぐ者、目を覆う者。

 街灯に照らされながら、まるで夜そのものが人の形を取ったかのように、静かにこちらを見ている。


 胃の奥が冷たくなる。

 どうして、ここに――。


 影の一体が動いた。

 他の客には何も見えていない。

 子供がジュースを飲み、店員がポテトを揚げ続けている。

 俺とビルだけが、その異形を捉えていた。


「ケイ、動くな」


 ビルの声が低く震える。

 青い瞳が鋭く光り、世界の輪郭が一瞬、硬質な輝きを帯びた。


 次の瞬間、ガラス越しに影がこちらへと踏み出した。


 ビルの声が空気を切り裂いた。


「ケイ、Stay backステイバック!」


 窓の外の影が膨れ上がる。

 さっきまで人型をかろうじて保っていた黒い輪郭が、肉の塊のようにねじれ、牙を生やした口へと裂けていく。

 その口が開くたび、

 店内のBGMも、フライヤーの油の弾ける音も、世界からひとつずつ削り取られていった。


 ビルが右手を前に突き出し、何かを呟いた。

 低い英語の連なりが、金属をきしませるように空気を震わせ、影の動きが一瞬だけ鈍る。

 世界を縫いとめる音――そうとしか形容できない響き。


 その刹那、客席の奥からもう一体が現れた。

 床と天井のあいだ、ありえない隙間から滲み出るように。

 ビルの青い瞳がそちらへ引き寄せられる。


「ビル!」


 叫ぶ暇もなく、

 最初の影がガラスをすり抜け、俺の肩に――噛みついた。


 鋭い痛みが世界を塗りつぶす。

 氷と火を同時に押し込まれたような感覚。

 肺が掴まれ、息が奪われる。


 視界が白くにじむ中、ビルがこちらへ駆け寄るのが見えた。

 その顔が、信じられないほど痛ましい。

 唇を強く噛み、瞳の奥で何かを必死に押し殺している。


 ――恐怖でも絶望でもない。


 もっと深い、取り返しのつかない喪失を知っている者の顔。


 その表情に、胸の奥がかき乱される。

 痛みよりも先に、なぜこの男がこんな顔をしているのか――

 その理由だけが、理解できずに心を締め付けた。


 ビルが俺のすぐ目の前まで来る。

 青い瞳がひらめき、その奥に決意の光が燃えた。


「ケイ、僕はまた……」


 震える声が耳に届いた瞬間、噛みつく影の輪郭が霧のように崩れ落ちる。

 痛みがふっと消え、世界が一度、息を止めた。


 耳鳴り。

 フライヤーの油の匂いが遠のき、床のタイルが冷たい水に沈むように沈黙する。


 次の瞬間――

 視界は白い閃光に飲み込まれ、俺の意識は音も痛みもない闇へと滑り落ちていった。

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