第2話 さわやか王子と元気娘
寮を出た瞬間、まだ涼しさの残る空気が肺に滑り込む。夜の名残が薄い膜みたいに街を包んでいて、そこへ朝日がじりじりと差し込む。並木道は、葉の縁だけが早起きして光っている。道路の白線はうっすらと湿り気を持ち、誰かが少し遅れて引いた消しゴムの跡みたいだ。景色そのものは昨日と同じはずなのに、輪郭だけが異様に鮮やかで、ロードし直したゲームのマップみたいに見える。俺の足音に合わせて、通学モードが読み込まれていく感じ。
背中から、春先のラジオDJみたいに耳に馴染む声が届いた。
「おはよう、大志」
要木 明だ。振り向くと、朝日に照らされたその顔は、相変わらずアイドル雑誌の一ページみたいに整っていた。黒目がちの瞳はどこか楽しげで、唇の端は常に半笑いに近い角度を保っている。制服のジャケットはきちんと着ているのに、ネクタイだけは妙にゆるく、首元の無防備さが彼らしい。
「大志の寝癖、今日も自由すぎる」
「そのうち独立を主張されそうで困ってる」
明は少しだけ眉を下げて笑う。俺は指で跳ねた毛先を押さえつける。押したところで従う性格ではないらしく、髪はすぐ復権した。風が吹くたび、シュプレヒコールが起こる。
「おはよう!」
後ろから軽いブレーキの音。莉子、張羽 莉子が小走りで追いつく。
肩まで伸びた髪は黒に近い焦げ茶色で、朝の光を受けると細い筋が透けるように見える。制服は皺一つなく、白いブラウスの襟元まできちんと整えられていた。瞳はややつり目気味で、言葉を発する前から快活さを主張していた。手に持った鞄には、小さな猫のキャラクターのキーホルダーがぶら下がっていて、駆け足に合わせてぴょんと揺れる。その揺れ方まで元気に見えるのは、本人の性格のせいだろう。
横にいるだけで空気がきちんとするタイプの人間、というのはたしかにいる。彼女はその証明書を常に首から下げている感じだ。
「二人とも早いね。寮の朝食、今日はパンだった?」
「パンだった。あと俺はトレイの角で肘を強打。肘にも朝ご飯を食わせた」
「一番痛いところにぶつけてたよね。ご愁傷様」
並木道を抜けると、通学路らしい生活音が増え始める。自転車のベル、郵便受けに手紙を束ねて差し込む音、遠くで犬が一回だけ吠える音。開店準備中の花屋はホースで路面に水を撒いていて、その水の匂いが朝の空気を若返らせていた。
角を曲がると、いつものパン屋が正面に現れる。ガラスの向こうでトングが忙しく動いて、トレーに焼きたてが並ぶ。店先の黒板には「チョココロネ20円引き」の文字。黒板の粉がまだ飛んでいるように見える。
「朝からカレーパンの匂い、幸福度が三割アップだね」明が鼻を鳴らす。
「油で幸せ測るな」俺がすぐ返す。
「油が脳に幸福をもたらすからね。あながち間違いじゃないよ」
パン屋の自動ドアが開いて、焼けた生地の蒸気がふっと外に出た。朝は許容量が大きい。いくつかのいい匂いが混ざっても、ケンカにならない。
信号待ちの人だまりに合流する。青に変わるのを待つ間、明が急に空を見上げた。
「もし遅刻したら、地球の自転のせいだね」
「お前の目覚ましだろ」俺は淡々と返す。
「スヌーズ二回まで情状酌量は認められてもいい気がするなあ」莉子が肩をすくめる。
青信号に切り替わると、人の群れがほどける糸みたいにスルスル動き出す。自転車が一台、車輪の影だけを長く伸ばして横切っていった。横断歩道の白線のうえで、俺の靴底がわずかに鳴る。
校門までの直線が見えてきた。校門の内側にある掲示板は、紙が何枚も重なっていて、風にあおられて端が少しめくれている。近づくと、その一枚に赤いスタンプが押してあった。
《遅刻届は必ず担任へ。事前提出は無効》
紙は雨を吸って乾き始めていたのか、うねっていた。角が二、三ミリだけ反っている。何となく、皺の模様が京都の枯山水と被った。何考えてんだ俺。
「これ常備したら遅刻し放題じゃん」明が笑う。
「事前提出は無効だからな」
「コピーして、大量に持っておけばいいんじゃない?」
バス停の電光掲示板から、朝のニュースが漏れてきた。
『昨夜、天原市北区で金庫荒らしが発生。壁に歪みが見つかり、紙幣の一部が散乱——』
「またか」明が小声で言う。笑いの熱が少しだけ落ちる。
「壁の歪みって、物理法則無視系?」莉子が眉を寄せる。
「確定じゃないけどな。空間そのものをいじるタイプだと厄介だ」俺は息を整える。
“異能”は便利と脅威を一緒に連れてくる。この金庫荒らしもそうだし、俺もその一人だ。一つ違うのは、俺は白鷺学園の寮に住み、異能を制御する訓練を受け、生活のルールに無理やり馴染ませ、将来的にはなんらかの社会貢献をするよう教育されているということ。異能持ちは、自国にとっての財産で、他国にとっての脅威だ。帰化による引き抜きや、国内でのテロ扇動など、いまや世界中で行われている。
ニュースが途切れ、バスの到着を告げる電子音が続いた。乗り降りする人の靴音、カードをかざすぴっと鳴る音、運転手の「足もとご注意ください」のアナウンス。日常は音の層でできている。層の一枚が破れると、不安が顔を出す。破れないうちは、誰も気づかない。
バス停の角、コンビニの見えるところに、派手に飾り付けられた什器がある。ドリンクの新商品POP、チューインガムの段ボール箱、傘立て。
校門が近づいてくる。白い壁、鉄の門扉、左右に植わった低木が同じ高さで刈り込まれている。毎朝見ているのに、今日は少しだけ違って見えた。多分、ニュースのせいだ。それと、昨日の実習の筋肉痛のせいだ。
門の手前で、明が急に振り返る。
「そういえば今日の小テスト、俺が解けなかったら先生に土下座してもらおっかな」
「謝るのはお前だ」
「連帯責任で、大志も土下座してあげなよ」
「明が解けないわけないだろ。俺が解けなかったらお前ら謝罪に付き合ってくれるのか」
「……」
「……」
「なぜ黙る」
脳内に、廊下で三人並んで正座している光景が現れる。通った生徒がちらっと見る。先生が通り過ぎながら「足しびれるよ」とだけ言う。誰も事情を知らない。昼休みには噂だけが巨大化して、「新しい部活の体験会」になっている。『正座研究会』。部員三名。顧問なし。活動内容は“耐える”。——最短で廃部だ。
門をくぐると、運動場から笛の音が一回だけ聞こえた。まだ誰も走っていない朝のグラウンドは、これから起きる汗と息切れを予告する匂いがする。砂が熱をためる準備をしている。
昇降口に向かう廊下で、俺たちの足音がタイルに跳ね返る。ロッカーの金属が、ところどころ凹んでいる。誰かの去年の「うっかり」が今も残っている。
「そういえばさ、今日の家庭科、エプロン持ってきた?」莉子が急に思い出したように言う。
「持ってきたよ。去年のやつ」
「俺、バリスタタイプのしかなかった。腰から下の正義」
「上半身がわいせつだから隠して」
「それもそうだね」
「えっ?裸エプロン想定なの?」
昇降口を抜けると、廊下の掲示板に『落し物』の張り紙。色とりどりのボールペン、片方の手袋、なぜか片足分のスリッパ。スリッパの片足、どこへ消えるのかは永遠の謎だ。俺は《オーダーリターン》で解決できるかどうか一瞬考えて、やめた。持ち主の「最初の場所」が今こことは限らない。俺の能力は「ものと場所の関係」に正直すぎる。正直はときどき不便だ。
教室の前で立ち止まる。開け放した窓から、さわやかな風がノートの端をめくっていくのが見えた。黒板はまだ昨夜の残骸のまま。隅に書かれた小さな落書きが、消し忘れなのか意図的なのか判別不能で生き延びている。
「よし、生き延びよう」明がこぶしを握る。
「授業と小テストと……先生の小話にも」莉子が列挙する。
「あと俺の眠気」俺が付け加える。
「そこメイン」二人が同時に言って、笑った。
笑いは波紋を作って、机と椅子のあいだを一回転してから薄くなった。俺は半拍遅れて笑う。裏拍。でもリズムの中にはいる。こういう朝のテンポが、俺にとっての安心材料だ。ニュースの重さも、時間割の残酷さも、パン屋の匂いとこいつらで片側だけ軽くなる。人間は片側だけでも軽くなると、案外ちゃんと前に進める。
教室の奥で誰かが窓を閉め、別の誰かが開ける。黒板消しをパンパンと叩く音が一度。粉が少し光る。担任の先生がまだ来ていないのに、席がだいたい埋まっていくのは、毎朝繰り返される奇跡だ。誰も「奇跡」とは呼ばないけど、そういうものこそがいつも世界を回している。
席に鞄を置き、椅子を引く。そのきしむ音が、なんだか今日は少しだけ上機嫌だった。ノートを取り出して最初のページを開く。ペン先を紙に当てる直前、俺は一度だけ深呼吸をする。吸う。吐く。呼吸はすべての動作の最小単位だ。余計なものを出して、必要なものを入れる。順番を守れば、だいたいうまくいく。
ドアが開いて、担任が入ってくる。出席を取る声が点呼のリズムで教室を温める。俺の名前の少し前、明の名前が呼ばれて「はい」と返る。その声は相変わらずやわらかくて、意味はだいたいまともじゃない——ことが多いが、今は真面目な返事だ。返事が真面目だと、朝はうまく回り出す。
窓際の席で、風にめくられたページが勝手に一枚戻った。俺はそっと押さえて、今日の一行目を書き始める。
——生き延びよう。とりあえず一限目まで。
書いたそばから、文字が少しだけ心拍に似る。リズムは整ってきた。俺の中で、何かの歯車が「今日用」に噛み直される。たぶんその正体は、パン屋の匂いと、くだらない会話と、ニュースの冷たさと、校門の白。いろいろ混ぜた結果の、俺の朝。
チャイムが一度だけ試しに鳴り、すぐ止んだ。全員が顔を上げる。誰かのペン先が「カチ」と鳴った。もう一度、鳴る。今度は本番。時間が動き出す合図。
俺はペンを握り直した。眠気はまだいる。だけど、眠気にも仕事はある。余計な焦りを抑えること。今日も仕事しろ。そう心の中で指示を出して、ついでに自分にも指示を出す。
——前を見ろ。
ゆっくりと、最初の文字を紙に置いた。
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