第3話 能力は使い方次第

 一限目が終わり、移動教室。廊下の空気はまだ朝の湿り気を残していて、俺たち三人の靴音を曖昧に吸い込んでいた。前を歩く明の肩が無駄に弾んでいる。横で莉子は鞄を抱え直しながら、口の奥で小さな鼻歌を転がしていた。木の床がぎしぎしと鳴るたび、校舎全体が古いオルガンみたいに低い音を返してくる。今日の音色は少しだけ浮ついている。


 教室の前で一拍だけ間を取り、明がドアを押し開ける。ざわめきと白い光が一度に流れ込み、熱気が頬に貼りつく。すでに半分以上の生徒が席に着き、もう半分は机を囲んで笑い合っている。黒板には大きく「能力披露」と書かれ、その下に担任の字で「※安全第一」と添えられていた。緊張をほどくためのジョークに見せかけて、内容は堅実。暴走より笑いよりも、とにかく怪我人を出さないことが第一だ。


 「今日は一大イベントだな」

 明が席に鞄を置きながら言う。

 「ただの授業だろ」

 俺は即座に返す。

 「授業っていうより、ちょっとした学園祭みたいなもんでしょ」

 「年一だったら嬉しいんだがな」


 机の脚が床に擦れ、金属音が走る。前の方では、テンション高めのグループが早くも「誰が一番“おおっ”と言わせるか」で紙片のくじを作り始めていた。黒板の隅、日直の名前の横には、誰が書いたのか「拍手スコア」の欄が増設されている。担任が気づいて消すまでの短命な遊び。


 窓際の席に腰を下ろすと、風が薄いカーテンをほんの少しだけ持ち上げた。春の匂いがした。紙とチョークと洗剤が混ざった教室の匂いが、それに追いつこうとしている。


 やがて担任が教壇に立ち、手を二度叩く。

 「はい、全員着席。今日は恒例の“能力披露”。順番に前に出て、スキルを見せてもらう。点数はつけない。目的は――互いを知ること」


 静けさが一段落として降りる。椅子の足が床を引っ掻く音だけが、しばらく教室の表面を滑っていった。この授業には、二つの意味がある。一つは先ほど出た、互いを知ること。将来的にチームを組むこともある。お互いの能力把握は当然必要だ。

 そして、もう一つは、誰かが犯罪者になった時、そいつの弱点を知っておくこと。いざというときに、「順調な」対処をするために。


 一人目。筋肉質の男子、澤山が教壇に上がる。深呼吸を一つ。次の瞬間、前腕がパン生地みたいに盛り上がり、袖が「ごめん」と言わんばかりに裂けた。破れた布が情けない干物みたいに垂れ、教室の中心で笑いと拍手が同時に弾ける。本人は満面の笑みで力こぶを作った。汗が光る。強い、というだけで景気のいい音が鳴るのは、世の常かもしれない。


 二人目。ショートボブの女子、横島がペットボトルを掲げる。《水流操作》。水面が静かにせり上がり、細い糸になって宙に浮かぶ。ゆっくりとハートの軌跡を描き、最後にぽとりとキャップの上へ落ちる。拍手の質が少し変わった。かわいい、は強い。人はかわいいを信じる。


 三人目。小柄な男子、末野。影が床から剥がれ、耳の長いウサギになった。黒い輪郭なのに、ちゃんと毛並みの存在を想像できるのが不思議だ。ウサギは教壇を跳ね、男子の足元に戻って溶けた。「かわいい!」の声がいくつも重なる。影の動物園は、今日のトレンドの一つになりそうだ。


 四人目。真面目そうな眼鏡、篠原。机上の教科書が宙にふわりと浮かび、ページが自動でめくられていく。《念動》の基礎。地味なのに、前の列の数人がなぜか笑っている。隣のやつが「めくれても見えないなら頭に入らないよな」と呟いたのを俺は聞いた。まあ確かにそうだ。くだらないが、そういうのは嫌いじゃない。


 五人目。やたらテンションの高い女子、名前がぱっと出てこない。えーと、そうだ、市川だ。スキルは《風》。教壇に立つや、髪がドラマのラストシーンみたいになびいた。扇風機より演出がうまい。笑いと口笛。本人はモデルポーズ。窓のカーテンが一緒になって舞い、物理が少しだけ嫉妬した。


 六人目。長身の男子、諏訪間。《音》。指を鳴らすと、教室の一角だけ音が吸い込まれたみたいに静かになる。拍手の中に無音の穴が空き、その穴が移動する。担任が感心して頷いた。無音の移動は、訓練次第で役に立つ。


 七人目。小柄な女子、猫野。《温度》。チョークの先端だけが薄く白い蒸気を上げていく。冬の息みたいに白い。拍手の中に、少しだけ本気の感嘆が混じった。


 ――そして、俺の番が近づく。


 「……いやあ、披露したくねえなあ」

 呟いた声は、自分の喉を通って出た感じがしなかった。胃の中に氷が落ちたような感触。足の裏が床と仲良くなりすぎて、離れづらい。背中に汗。制服のシャツが皮膚に貼り付いて、呼吸のたびにひやっとする。


 明が机に肘をついたまま、目だけで笑う。

 「大志のスキル、俺はすごいと思ってるよ」

 「ありがとな。思ってるだけにしておいたほうがいいぞ」

 「周りの連中がバカにしても、見る目がないだけだから安心して」

 やわらかい声で言うから角がない。聞いていると、何でもないことまで何とかなる気がしてくる。気のせいなんだけど。


 莉子が小声で「深呼吸」とだけ言った。短距離走の前に渡される水みたいに、ありがたい一語だった。俺は肺の奥まで空気を押し込む。


 名簿がめくられ、担任が呼ぶ。

 「次、瀬入」


 足が前に出た。空気が一段硬くなる。三十数人の視線がこちらに寄ってくる。スポットライトなんてないのに、教壇の前は妙に明るく感じられた。ワックスの匂い。黒板の粉。床に落ちている消しカスが、なぜか自分のことみたいに見える。


 「……俺の能力は、《オーダーリターン》です」


 言っただけで、笑いがいくつもはじけた。まだ何もしていない。入り口で転ぶタイプの出し物か。まあ何回か見せてるからな。

 俺は黒板脇のゴミ箱を指差した。紙くず、折れた鉛筆の芯、消しカス、謎のビニール片。雑多なものたちが、そこに“その他”として積もっている。


 「これを、元の場所に戻します」


 指を鳴らす。音は小さかったのに、空気の面が少しだけ凹む。視線がそこに吸い寄せられる。紙くずはプリント回収袋へ、鉛筆の芯は筆箱の山へ、消しカスはチョーク箱の横へ。誰の持ち物か不明な消しゴムは、机の二列目・右から三番目へ帰った。椅子の脚がきゅっと鳴り、持ち主が「あ」と小さく声を上げた。


 数秒で、黒板前は新品みたいに片付いた。整う、というのは可視化されにくい。だからこそ、目の前で起きると妙に面白いのかもしれない。


 ――沈黙。


 そして、爆笑。


 「家政婦『を』見た!」

 「うちにも欲しい!」

 「最強のスキル!」


 机が鳴る。手のひらがぶつかる音が重なる。窓ガラスが薄く震え、カーテンの裾がちろりと揺れた。誰かは椅子から滑り落ちそうになって、別の誰かが袖を掴んで引き上げた。笑いの渦の真ん中に、俺は立っていた。心臓が忙しく働くのに、体温は逆方向へ下がっていく。不思議な時間。面白がられることと、認められることは、同じ駅にある違う改札みたいなものだ。


 笑いの波が二度目に押し寄せ、そして三度目はやや小さく寄せて引いた。今度は俺自身も、少しだけ肩の力を抜いて笑えた。自分が笑いものになる痛みは確かにある。けれど、その場の地面に足をつける助けにもなる。笑われることと、笑うことの境界は案外曖昧で、踏み越えた拍子に少しだけ楽になることがある。


 「静かに」


 その一言で、海が急に風を止めたみたいに、音が消えた。


 振り向くと、教室の後ろの窓際に一人の少女が座っていた。九条ルビー。


 黒髪は朝の光を吸い込み、絹糸の束のように艶やかに揺れている。髪の先が肩に触れるたび、微かな影が肌の上でかすれて消えた。瞳は澄んでいて、氷の中に閉じ込めた青空みたいに見えた。制服の襟は正しく、背筋は弓の弦のようにまっすぐ。周囲のざわめきに揺れない。座っているだけなのに、空気が整う。


 「能力に価値があるかどうかは」

 彼女の声は驚くほど静かで、しかしどこにも引っかからず教室全体へ行き渡った。

 「使い方次第じゃないかしら」


 たったそれだけの言葉で、さっきまでの爆笑が別の音に変わった。拍手と同じ音量でも、意味は変えられる。俺の胸に、小さな印が付く。ハンコみたいに、しっかり、でも痛くはない。


 担任が咳払いをして、次の名前を読み上げる。教室の時間はまた回り出した。けれど俺の耳の奥では、九条の声だけがもう一度、もう一度、薄く響いた。


 教壇を降りて席に戻る途中、明がこっそりウインクを寄越す。あれは「大丈夫」のサインに見えた。莉子は両手を小さく握って、顔の前で一瞬だけ振った。がんばれスタンプの実写版。俺は小さく頷く。頷き方にも練習がいるものだ。


 席に着くと、机の上の筆箱が微妙に斜めで気になった。指先で向きを整える。《オーダーリターン》を使わない細かな整え方も、ちゃんと残しておきたい。何でもかんでも能力でやるのは、たぶん良くない。俺は人間で、便利なボタンじゃないから。


 「ねえ」

 斜め前の席の女子、流山が振り向いた。さっき消しゴムが帰っていった持ち主だ。

 「ありがとうね。これ、返ってきた」

 「どういたしまして」

 それだけの会話で、今日の朝の体温が一つ上がる。こういうのは、ちゃんと残る。笑われるのとは別の場所に、静かに残る。


 壇上では、次の生徒が《光》を披露していた。小さな光球が指の間に生まれ、蛍の群れみたいに漂う。前列からため息が漏れ、後列から「インスタ映え」と小声が飛ぶ。光は写真に写るのが好きだ。俺が勝手にそう思っているだけだが、そう考えると不思議と納得がいく。


 明の番が近づき、彼は立ち上がった。振り返って、わざわざ俺に親指を立てる。「任せろ」というジェスチャー。何を任せればいいのかは謎だが、あの顔を見ると少し安心する。彼はたぶん、どこかで転ぶとしても、派手な音を立てずに転ぶ才能を持っている。見ている側に罪悪感を持たせない、という意味で。


 「いってらっしゃい」

 莉子がぽん、と背中を軽く叩いた。明が教壇に上がる。声は相変わらず春のラジオDJで、最初の一言で空気の硬さをほぐすのがうまい。彼の披露はさらりとしていて、拍手は素直だった。過剰でも不足でもない、ちょうどいい温度の笑いが起きる。ああ、このクラスにおける適温は、たぶんこういう温度だ。


 俺は黒板を見た。大きく書かれた「能力披露」の文字。白いチョークの粉がわずかに落ち、板書の端に積もっている。黒板の角、マグネットの影。どこを見ても“帰るべき場所”がある。俺のスキルはそれを見つけて、ただ帰す。派手ではないが、駅の案内板みたいに役立つ時がきっとある。


 九条は相変わらず窓際で静かに座っていた。黒髪が風をすこしだけ拾って、肩の上で揺れる。彼女の「使い方次第」は、命令じゃなく、提案の形をしていた。命令なら、もう少し硬い音がするはずだ。提案だから、受け取る側の余地がある。俺はその余地の中に、いまは座っていようと思う。すぐに立たなくていい。立つ時は、どう使うかを決められた時でいい。


 チャイムが短く鳴り、すぐに止む。担任が「続ける」と手で合図した。授業はまだ、始まったばかりだ。俺たちの“互いを知る”も、たぶん今日が入口にすぎない。入口の前に落ちていた紙くずは、もうない。俺のスキルがなくても、誰かが拾ったのかもしれない。世界は案外、そうやって回る。


 俺は深呼吸を一つして、前を向いた。次の発表者の声が、まっすぐ届く。耳は自由だ。目も、心も、できれば自由でありたい。便利すぎるとロクなことにならない時もあるけれど、便利を正しく使うのは、きっとロクなことだ。


 だから、使い方次第。

 その言葉をポケットにしまって、俺はチョークの粉みたいに軽く頷いた。

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片付けるだけの簡単なお仕事です(対象:犯罪者) 青山アオ @AoyamaAo

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