第15話 仮面の婚礼
翌週の月曜、黒川財閥は唐突に「婚約者披露宴」を告知した。表向きは寄付達成の感謝を伝える場。だが本当の狙いは、こちらの選んだ舞台で、こちらの言葉で、こちらの速度で語ること——罠にされる前に、仮面を自分たちの手で被るための策だった。
準備は慌ただしく進んだ。午前、邸の小さなフィッティングルームで、湊は白いドレスの裾を確かめる。コルセットは最小限に。呼吸が浅くならないよう、仕立て直しのピンが打たれていく。鏡に映るのは、完璧に仕上がっていく“令嬢”。だが視線の奥には、昨日までと違う静けさが宿っていた。
「触れても、いいですか」
背後から声。悠真が、ドレスの背のリボンに指を添える。湊が頷くと、彼は結び目が解けないように静かに整え、呼吸の通り道を確認するだけで手を離した。支配ではなく、確認のための触れ方。鏡越しに合う視線が、短く微笑みに変わる。
「音声は?」
蓮がインカムを手渡す。「片耳だけ。必要なときだけ俺が入る。今日は会場側のWi‑Fiが汚れてる。有線優先、端末はローカル録画も回す」
湊は頷き、薄いベールを持ち上げる。白が光を反射し、部屋の空気がわずかに明るくなった。
◆
会場は都心のホテル。白薔薇とグリーンでしつらえられた大広間には、まっすぐに伸びるバージンロード。左右のテーブルには関係者と報道陣。天井のシャンデリアが雲のように光り、フラッシュが散発的に弾けている。
入場の音楽が始まる。湊と悠真は並んで歩み出た。歩幅を合わせ、視線はまっすぐ。触れない距離で、触れているような一体感を作る。胸の内で湊は繰り返す——これは仮面。けれど、家が選んだ仮面。役ではなく、選択。
壇上に上がる直前、蓮の低い声がインカムに落ちた。「左後方、望遠。右側、動線に不審者。予定どおり“視線の壁”で行け」
湊はわずかに角度を変え、照明の反射で視線の導線を切る。悠真は半歩前に出て、湊の肩の陰にフレームを作った。写真に残るとき、二人の距離が“礼節”として映るように。
◆
司会の挨拶に続いて、スクリーンが暗転する。映し出されたのは、邸の居間で三人が並んでいる映像だった。ソファに座る湊はドレスではなく素のシャツ姿。悠真は湊を見、蓮はカメラを見ている。
『私たちは“家”を持ちました。外に向けての説明は尽くします。けれど、家の中の言葉は、外の都合では選びません』
湊の声が静かに響く。映像は長くない。誰かの告発にも、何かの暴露にも応じない。けれど、逃げてもいない。会場の空気が一度、底に沈む。
その沈黙を割るように、背面スクリーンが一瞬ノイズを吐いた。別映像を差し込もうとする“手”。蓮は袖でタブレットを叩き、系統を切り替える。「ブレーカー、B系統落とせ。プロジェクタは単独線で生かす」
スタッフが走る。ノイズは消え、映像は最後まで流れた。
◆
質疑応答。予定外の男が手を挙げ、マイクを掴む。「黒川令嬢。仮面を被るのは自由だ。だが、会社は“中身”を知る権利があるはずだ。婚約者の素性も、本当の——」
言葉が続く前に、別の方向でざわめき。通路に、昨日見かけた若い女が立っていた。彼女はカメラに向け、紙袋を落とし、ハイヒールをひねってよろめく。計算された“偶然”。湊の腕に伸びる手。——フラッシュ。
「触れてもいいですか」
合言葉が、湊の耳の内側で灯りのようにともる。振り返るより先に、悠真が一歩寄る。彼は女の手を掴まない。湊の肩甲骨の後ろへ自分の手を差し入れ、支点を作って体の向きを変える。距離は保ち、接触は最小。写真に残る“角度”は、二人の礼節のフレームに吸収される。
女は舌打ちを飲み込み、引いた。蓮はすれ違いざま、胸元のスタッフバッジを軽く撫でる。印刷の粗さ、ホルダーの裏に貼られた在庫管理用のシール——偽造の手口が露わになる。
◆
マイクに戻った湊は正面を見据えた。「仮面を嫌う人がいるのは分かっています。でも、私は自分の手で仮面を選びます。会社の説明責任は果たします。けれど、家の内側まで、あなた方の権利が及ぶことはありません」
低いざわめき。挑発と受け取る者もいるだろう。だが湊は続けた。「私はここにいます。嘘で固めた幻ではなく、選んだ言葉と選んだ沈黙で、ここに立っています」
前列の老経営者が、ふと頷いた。遠くの記者が、シャッターを一度だけ切り、カメラを下ろす。空気がわずかに変わった。
◆
披露は短く締められた。退出動線では再び罠が仕込まれていた。非常扉の前に、外部のフリーランサーが密集している。彼らの狙いは、廊下での“乱れ”。蓮は護衛と目配せし、予定にはない回廊を開けさせた。会場スタッフの数名が反発するが、彼は一言だけ残す。「リスク管理はこっちでやる」
薄暗い通路に入ったとき、背後で金属音。非常扉が閉まり、ロックがかかる。前方の角から、肩をすくめた若い男が現れた。手には作り物の週刊誌。「一枚だけでいいからさ、令嬢」
湊は足を止めない。悠真も止まらない。二人の間の距離が保たれ、蓮が男と壁の間に入って緩く圧をかける。身体的な衝突は起きない。視線と足の置き方だけで、道が開く。男は笑って肩をすくめ、道を譲った。仕掛けは未遂のまま霧散した。
◆
夜、邸に戻る。ドレスを外し、呼吸が深くなる。湊はソファに沈み、額に触れた汗をハンカチで拭った。悠真が温かいカモミールを差し出す。「触れても、いいですか」——はい。掌が額に添えられ、体温が静かに落ち着く。
蓮はダイニングでノートPCを開き、今日の映像とログを確認していた。「スクリーン差し込みの発信元、社内のサブドメイン経由。名義は別人だが、権限の貸し借りがある。運転手の名刺の仕入れ先も、グループ子会社の購買とつながる」
「つまり内部」
「ああ。ただし“個人”か“派閥”かはまだ見えない」
湊は共有ノートを開き、万年筆を走らせた。
『十九、仮面は自分で選び、自分で外す』
短い文字に、今日のすべてが詰まっている気がした。仮面を強いられるのではない。選ぶこと、その責任と自由を、自分の手に戻すこと。
「……ありがとう」
湊が言う。誰に向けた言葉か、自分でも分からない。蓮は「気にするな」と肩をすくめ、悠真は「こちらこそ」と微笑んだ。
「まだ終わってない」
蓮の声は静かだ。「次は、こちらから宣言する番だ。外に向けて、家の形を」
湊は顔を上げる。目の奥に、微かな光が宿る。「宣言する。嘘ではなく、選んだ言葉で」
三人はノートの余白を見つめた。そこにはまだ、たっぷりと書く場所が残っている。世界のためではなく、家のために重ねる言葉のための余白が。
静けさの中、雨上がりの匂いが窓の隙間から流れ込んだ。手のひらに残る温度が、今日という一日の意味を静かに刻んでいく。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます