第14話 財閥の罠


 週の半ば、黒川グループは臨時の「説明会」を開くと発表した。名目は社会貢献事業の説明だが、内部にいる者ほどそれが別の意図——婚約を巡る火消しと、場合によっては“切り捨て”——を含むことを知っていた。


 朝、邸の門の向こうで黒いワゴンが停まる。運転手が窓を叩いた。「本日から担当が変わります」


 蓮の視線が鋭くなる。「聞いてない」


 運転手は丁寧に名刺を差し出す。だが、左薬指の小さな傷と名刺の角の擦れが、蓮には妙に見えた。彼は笑って受け取り、かすかに頷くだけで車を通さなかった。「今日は別の車で行く」


 邸の裏口から、三人は小さめのセダンに乗り込んだ。出発してすぐ、蓮はダッシュボードを開ける。ティッシュ箱の底に、小型の発信機が貼り付いていた。


「……やっぱり」


 湊は息を飲む。「内部から?」


「恐らくは。説明会の場で“偶然”が起きる段取りだ。人と車の動線を全部押さえられている」


 悠真の喉が鳴る。「偶然、とは?」


「スキャンダルの作り方はいくつもある。たとえば——」蓮は短く目を閉じ、言葉を選ぶ。「湊と誰かを、密会のように切り取る。あるいは“花嫁”の衣装の乱れを、わざと」


 湊の指が膝の上で固く組まれた。呼吸を整え、低く言う。「対処する。嘘で返さない。——でも、家は守る」



 説明会の会場はホテルの大広間。壇上には企業ロゴ、スクリーンには寄付先の一覧。報道陣の列の後方に、見慣れない若い女が立っていた。目が合った一瞬、彼女の視線が湊の周囲の動線をなぞる。プロの動きだ。


 第一部が終わり、休憩のざわめき。スタッフ用通路へ誘導され、湊が曲がり角を抜けた瞬間、誰かの肩がぶつかってきた。紙袋が落ち、ハイヒールがわざとらしくよろめく。


「すみません、湊さ——」


 名を呼んだ女の手が湊の腕に絡む。次の瞬間、通路の奥でフラッシュが弾けた。


「触れてもいいですか」


 その言葉が、湊の耳の奥に稲妻のように走る。反射で振り返ると——そこに悠真がいた。彼は女の手を“掴まない”。代わりに、湊の肩の後ろに自分の手を差し入れて支点を作り、するりと二人の距離を解いた。触れ方のルールを守ったまま、写真に残る角度を徹底的に避ける動き。


「大丈夫ですか」


 湊は頷く。女は小さく舌打ちをし、紙袋を拾って去った。蓮がすぐに追い、通路の先でさりげなくスタッフバッジをはぎ取る。印刷は粗い——偽造だ。



 第二部。壇上の質疑応答。予定にない男性がマイクを握った。「黒川令嬢に伺う。あなたの“婚約者”は、会社にとってどんなメリットがあるのか」


 会場がざわめく。蓮は壇下で視線のラインを読み、別の男がスマホを高く掲げているのを見つけた。画面には先ほどの通路の写真——湊の腕に女の手が絡む“瞬間”だけが切り取られている。


 湊はマイクを握り、会場を見渡した。「彼は、会社のためにここにいるのではありません。私が生きていくために必要だから、隣にいます」


 ざわめきが一拍遅れて広がる。挑発と受け取る者もいるだろう。だが湊は続けた。「私たちは“家”を持ちました。外へ向ける説明は尽くします。しかし、家の中の言葉は、外の都合では変えません」


 その時、背後のスクリーンが一瞬ノイズを走らせ、別の映像に切り替わりかけた。誰かがリモートで乗っ取りを試みている。蓮は即座に端末を操作し、映像系統を切り替える。同時にスタッフへ短く指示を飛ばす。「会場Wi-Fiを遮断。有線のみ」



 説明会後、ホテルの裏手。ごみ捨て場近くの通路に、先ほどの若い女がいた。蓮が近づくと、彼女は肩をすくめる。「仕事だよ、スポンサーはそっちの——」


「名を出せ」


 女は笑った。「出せるわけないだろ。……でも、教えてやる。今日は“決定打”の予定だった。腕に触れた写真、スクリーンの差し込み、出入りの車の位置。全部、あんたらの中にいる誰かが渡したシナリオだ」


 蓮の表情に、氷のような静けさが落ちた。「もう帰れ」


 女は肩をすくめ、闇に消える。蓮は拳を握りしめた。内部に“罠”を仕掛ける手は、想像より近いところにある。



 夜。邸に戻った三人は、居間で向かい合った。湊はブランケットに包まれ、深く息を吐く。悠真がマグを差し出し、合言葉が落ちる。「触れても、いいですか」


「……いいわ」


 肩に手が置かれた瞬間、室内の空気が柔らかく変わる。湊はノートを開き、ゆっくりと記した。


『十八、罠には“家の方法”で応える』


 そして顔を上げる。「嘘は使わない。けれど、黙って殴られもしない。——明日、こちらから“家”の形を発表しましょう」


 蓮と悠真が同時に頷く。闇は深い。だが、灯は消えていない。罠は舞台の一部に過ぎない。三人はその舞台の上で、もう“役”だけを演じるつもりはなかった。

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