第13話 蓮の選択


 翌朝、黒川邸の庭に霧が立ち込めていた。雨は止んだが、地面に残る水が光を反射し、邸全体が揺らめくように見える。湊と悠真は朝食の準備をしていた。トーストの香りとコーヒーの湯気が漂い、短い笑顔が交わされる。昨日の契約が、確かに二人の間に橋を築いていた。


 その光景を廊下の陰から見つめる瞳があった。蓮だ。彼の胸に走る痛みは鋭く、けれど言葉にはできない。守ると誓った湊が、誰かと温もりを分かち合っている。その事実は、長年心の奥に沈めてきた感情を暴き出していた。



 昼過ぎ、蓮は都心のビルにいた。財閥の幹部たちが集まる非公式の会合。部屋には煙草の煙が漂い、低い声が飛び交う。「黒川家の後継は脆い」「婚約者はただの飾りだ」——侮蔑と不安が交じる。


 その場で蓮に視線が集まる。「君が一番近い立場だ。もし本当に秘密があるなら、早めに処理しなければならない」


 蓮は一瞬唇を噛む。守るべきは家か、湊か。答えは簡単ではなかった。だが彼は低く、しかしはっきりと言った。「湊は俺が知る限り、誰よりも誠実だ。幻影ではなく、人として生きている」


 会議室に沈黙が落ちる。やがて誰かが鼻で笑った。「情に流されるのは危険だぞ、高遠君」


 蓮は黙って席を立った。ドアの外に出た瞬間、胸の奥に熱と痛みが入り混じった。自分の言葉が湊を守る盾になるのか、それとも財閥から切り離す刃になるのか、答えはまだなかった。



 夜。邸のリビングで三人が向かい合った。湊はノートを開き、昼の会合について蓮に尋ねた。「何を言われたの?」


 蓮は短く答える。「お前を疑う声が出ている。俺に協力を求められた」


 悠真が息をのむ。「まさか……」


「断った」蓮ははっきりと言った。「俺の選択は、お前を守ることだ。財閥の都合より、お前自身を優先する」


 湊の目が揺れる。幼い頃から共に育った蓮の言葉。その重みは胸の奥深くに届いた。「でも、それは……あなたの立場を危うくする」


「構わない」蓮は強い眼差しで返す。「俺は湊を“令嬢”じゃなく、一人の人間として見ている。だから選んだ」


 沈黙の後、悠真がゆっくり口を開いた。「僕も同じです。湊さんを人として守りたい」


 湊は視線を二人に移し、深く息を吐いた。「……ありがとう」



 その夜更け、湊は共有ノートに新しい一行を加えた。


『十七、選択は恐れずに口にする』


 インクが乾くのを待ちながら、湊は目を閉じた。蓮の選択、悠真の決意、自分の影。すべてを抱えたまま、進むしかない。雨に洗われた庭の闇が、少しだけ明るく見えた。

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