第12話 二人の契約


 秋雨が降りしきる週明け、黒川邸の庭は水面のように波紋を広げていた。葉の上を伝う雨粒が滴り落ちる音が、邸内の静けさを逆に際立たせる。湊は居間の机に共有ノートを置き、万年筆を整えるように指先を滑らせていた。昨夜加えた第十四条——『“家の言葉”を最優先にする』——その下に白い余白がまだ広がっている。


 悠真がコーヒーを二つ持って入ってきた。香りが部屋を満たす。「おはようございます。今日も雨ですね」


「雨は嫌いじゃない。音が、影を誤魔化してくれるから」


 湊はそう言って微かに笑った。けれど目の奥は揺れていた。悠真はその揺れを見逃さず、ノートの余白に手を伸ばした。「ここに、約束を書いてもいいですか」


 湊が頷く。悠真はペンを取り、力強く一行を記した。


『十五、互いに逃げ道を残す』


 湊が目を細める。「……どういう意味?」


「もしどちらかが苦しくなったら、無理に縛らない。契約は、檻じゃなくて橋にするために」


 その言葉に、湊の胸がじんと温まった。長年、契約は義務であり鎖でしかなかった。だが今、初めて“守るための契約”が結ばれようとしている。



 午後、蓮が帰宅した。スーツのポケットから新聞を取り出し、テーブルに広げる。見出しには『黒川令嬢と平凡青年、秘密の同居生活』。記事の隅に、望遠レンズで撮られたらしい写真があった。邸の門の影から、傘を分け合う湊と悠真の姿。


 悠真の顔が青ざめる。「どうして……」


「屋敷の外に“目”がいる」蓮は低く言った。「記者だけじゃない。財閥内部から情報が漏れている可能性がある」


 湊は記事を睨む。「“花嫁の嘘”が暴かれるのは時間の問題ね」


「暴かれる前に、こちらで形を決めるべきだ」蓮が真剣に告げる。「世間に先を越されるな」


 湊は沈黙した。外ではなく、家の言葉を優先する——その約束を昨夜立てたばかり。だが、世界は待ってくれない。



 夜、三人は談話室に集まった。窓の外で雨脚が強まる。ランプの光が机を照らし、ノートが開かれる。湊が深呼吸をして、口を開いた。


「契約を結び直しましょう。外に見せる“婚約”ではなく、家の中での契約」


 悠真がうなずく。「どんな契約ですか」


「互いを守るための三つ」湊は指を折る。「一、嘘で塗り固めない。二、選択は必ず相談して決める。三……」


 そこで言葉を止め、悠真を見た。「三つ目は、あなたが決めて」


 悠真は迷いながらも、まっすぐ答えた。「三、どんな姿でも、互いを見失わない」


 その瞬間、蓮がノートを回し、静かに書き記した。『十六、三人で結んだ契約を優先する』


 ペンの音が止んだとき、部屋にはただ雨音だけが残った。だが胸の奥に、確かな灯が生まれていた。世界に揺さぶられても、この家の契約があれば壊れないと信じられる温度が。



 深夜、湊は一人で庭に出た。雨は小降りになり、石畳に残る水が月を映す。濡れた空気が肺に沁みる。ふと背後から足音。振り返ると悠真が傘を差して立っていた。


「……濡れるわよ」


「いいです。契約の最初の夜ですから」


 二人は並んで雨を見つめた。傘の下で、悠真の声が震える。「僕は、この契約を一生守りたい」


 湊は小さく笑った。「重いわね」


「重くても、渡したいんです」


 その言葉に、湊の胸に新しい火がともった。雨に濡れる庭は冷たいのに、手のひらの奥から温度が広がる。二人の影が一つに重なり、夜は静かに深まっていった。

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