第11話 花嫁の嘘


 翌朝のニュース番組は、雨上がりの街よりも冷たかった。画面のテロップが踊る——『黒川令嬢の正体に新疑惑』『婚約は演出か』。スタジオの笑い声は軽く、言葉は刺のように鋭い。湊はリモコンを静かに置いた。胸の奥にはまだ昨夜の温度が残っているのに、外の世界はその火を消すために風を送り込んでくる。


 蓮がスマホを操作しながら低く言う。「匿名掲示板に“学生時代の同級生”を名乗る人物が書き込みをした。『黒川令嬢は仮面だ』——真偽は不明だが、拡散されている」


 悠真は拳を握った。「どうして、そんな……」


「影を見たがる連中は多い」湊は淡々と言う。だが視線の奥に波が立っていた。「対策会議を。今日は会社に行く」



 昼、役員会議室。重い空気が長卓の上に溜まっている。最年長の役員が手を組み、言葉を選ぶふりをしながら切り込んだ。「黒川家の名誉のためにも、婚約の見直しを提案する。世間が鎮まるまで、いったん距離を置くのが賢明だ」


 湊は椅子から一度も動かずに答えた。「それは“世界のための判断”ね。私が自分のために選べる選択肢は、どこにあるの?」


 ざわめき。蓮が資料を配る。「寄付計画の前倒し、透明化のための第三者委員会、そしてメディア向けのQ&Aを用意した。『私生活に踏み込む質問には答えない』を原則にしつつ、企業としての説明責任を果たす。問題は——」


「感情だ」年長の役員が鼻で笑う。「世間の嫉妬と好奇心に、理屈は通じない」


 湊は目を閉じ、ゆっくりと開いた。「なら、私たちの“家”を守ることを優先する」


 会議室の温度がわずかに下がる。誰も“家”という言葉を財閥のトップの口から聞いたことがなかった。蓮だけが、ほとんど imperceptible に頷いた。



 夕方。邸に戻ると、門の外でフラッシュが閃いた。記者が押し寄せ、マイクが柵の隙間から伸びる。「結婚は茶番ですか!」「令嬢の嘘をいつまで続けるつもりですか!」


 玄関に入った瞬間、静けさが降りた。扉が世界と家を分ける結界になる。湊は靴を脱ぎ、深く息を吐いた。悠真がそっとブランケットを差し出す。合言葉が響く。「触れても、いいですか」


「……いいわ」


 肩に布が掛かるだけで、張り詰めた糸が一本ずつほどけていく。湊は共有ノートを開き、万年筆を取った。


『十三、世界に合わせて壊れない。家の速さで息をする』


 書いた言葉が、今夜の灯になる。



 食卓。温かい湯気が立ち上り、味噌汁の香りが家の輪郭を描く。蓮は箸を置き、まっすぐに湊を見た。「なあ、湊。俺たち三人のことを、外に向けてどう言う?」


「言わない」湊は即答した。「言葉で塗り替えようとするほど、嘘は増える。けれど……」


 そこで視線が揺れ、悠真を見た。「家の中では、隠さない」


 悠真の喉が鳴る。「僕は、隠さないことを、選びたい」


 湊はゆっくりと頷いた。蓮は短く目を伏せ、再び顔を上げる。「なら、俺も従う。俺の役は盾でいい。外からの矢は、まず俺が受ける」


 言葉は不器用で、しかし確かだった。三人の間に、見えない契約が結ばれる音がした。



 夜、雨の名残りが屋根で囁くころ。湊は鏡の前に立ち、令嬢のウィッグを手に取った。糸のように細い髪が、指の間をするりと滑る。長い髪は仮面の一部であり、かつては鎧でもあった。ゆっくりと箱に戻す。


 扉をノックする音。「入っていい?」


「どうぞ」


 入ってきたのは悠真だった。彼は躊躇なく鏡の横に立つ。互いの姿が並んで映る。


「湊さん。……僕は、あなたがどの姿でも、同じように傍にいたい」


 言葉は熱を持ち、鏡の中の二人へ真っ直ぐ届いた。湊は小さく笑う。「それは、花嫁の嘘を赦すってことね」


「嘘にしたくない。『守るための隠し事』と『自分を消す嘘』は違うから」


 沈黙。湊はウィッグから手を離し、引き出しを閉めた。「……じゃあ、約束しましょう」


「約束?」


「外に出るとき、私は世界の都合で“花嫁”になる。けれど家では、私の都合で“湊”に戻る。あなたは——」


「僕は、その境界で迷ったら、毎回たずねる。触れていいか、助けがいるか、そして、どの声で喋りたいか」


 二人の視線が絡み、熱が静かに積もる。触れたい衝動は確かにあった。けれど今夜は、言葉で積み上げる。


「触れても、いいですか」


 湊は目を閉じて、微笑んだ。「……いいわ」


 頬に置かれた手は、昨夜よりも少しだけ長くそこにあった。火は派手に燃え上がらない。だが消える気配がない温度で、家の芯を温めていく。



 廊下に出ると、蓮が背中を預けるように壁にもたれていた。目が合う。いつもの軽口は出ない。代わりに、一歩近づいて短く言う。


「湊。嘘を減らすって決めたなら、俺も付き合う。外では俺が“悪役”を買う。中では、お前が笑え」


 湊は肩で息をして、ゆっくり頷いた。「ありがとう」


 蓮はその言葉に目を細め、視線を悠真に移す。「お前も、守られる側じゃなくて、守る側でいろ」


 悠真は真剣に頷いた。「はい」


 三人は共有ノートの前に立ち、新しいページを開いた。湊がペンをとる。インクの線が白い紙を走り、静かな音だけが部屋を満たす。


『十四、“家の言葉”を最優先にする』


 書き終えてペンを置く。ページの余白は、まだたっぷり残っている。これからも、ここに言葉を増やせる。世界に対してではなく、三人のために。


 花嫁の嘘は、外のための衣装だ。家の内側では、もういらない。

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