第10話 雨夜の告白


 その日の夕方、空は鉛色に沈み、やがて大粒の雨が屋根を叩き始めた。黒川邸の窓ガラスを伝う水滴が、外の世界との境界を曖昧にする。雷鳴が遠くで低く鳴り、屋敷全体が静かに震えていた。


 湊は縁側に座り、雨の帳を見つめていた。令嬢としての微笑みも、財閥の顔も、今は纏っていない。薄いシャツに羽織だけを纏った姿は、まるで雨に濡れた影のようだった。


 そこへ悠真が現れた。傘を持っていたが、すでに肩は濡れている。彼は迷いながらも、湊の隣に腰を下ろした。


「……雨、好きなんですか?」


 湊は視線を動かさずに答えた。「嫌いじゃない。音が、心を覆い隠してくれるから」


 雨脚がさらに強くなる。二人の間に言葉が落ち着かない沈黙を作った。やがて悠真が深く息を吸い、勇気を振り絞ったように口を開いた。


「湊さん。僕は……あなたの秘密を知りたいわけじゃありません」


 湊がわずかに振り向く。瞳に雨の光が反射する。


「知りたいのは、あなたの気持ちです。財閥の顔でも、令嬢の仮面でもなくて、本当の声を聞きたい」


 その言葉は雷鳴よりも強く、湊の胸を震わせた。長年押し殺してきた声が、喉の奥で疼く。怖い。けれど、今夜だけは雨が隠してくれる。そう思った瞬間、湊は小さく囁いた。


「私は……男よ」


 雨音がすべてを飲み込む。悠真は驚きに息を止め、しかし逃げなかった。真っ直ぐに湊を見つめ、静かに首を振った。「それが、あなたなんですよね」


「幻影なのよ。黒川が作った“令嬢”の影を生きているだけ」


「幻影でも構いません。僕が見ているのは、湊さんの目と声です。嘘じゃない」


 胸の奥で熱が弾けた。湊は初めて、目に涙を宿した。雨と混じり、頬を伝う。悠真の手が伸びる。だが彼は、触れる前に問いかけた。「触れてもいいですか」


 湊は頷いた。次の瞬間、掌が頬に触れる。温度が伝わり、影に閉ざされていた心に光が差す。雨の冷たさを越えて、確かな火が胸に灯った。


「ありがとう……」


 その一言は、今までのどの演技よりも素直で、弱く、そして強かった。悠真はただ「こちらこそ」と返し、二人はしばし黙って雨の音を聞いた。



 その頃、廊下の奥で蓮が立ち尽くしていた。雨にかき消されるほど小さな声で呟く。「……やっぱり、俺には遅すぎたか」


 窓越しに二人の影を見つめる。胸の奥に刺さる痛みは、長年隠してきた感情の形だった。だが彼は唇を噛み、背を向けた。守ると誓った以上、今さら引き裂くことはできない。



 夜、湊は共有ノートを開き、震える手で新しい一行を記した。


『十二、嘘よりも真実を選ぶ』


 ペン先が止まる。紙の上に落ちた一滴の水は、涙か雨粒か、自分でも分からなかった。

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