第9話 令嬢の影
翌朝、黒川邸の廊下に差し込む光は、どこか冷たかった。庭に咲く薔薇は鮮やかだが、その影は長く伸び、床に濃い線を刻んでいる。湊はその影を踏まぬように歩きながら、心の奥に沈む重みを感じていた。
新聞の一面には再び「黒川令嬢」の文字。記事は婚約の裏に隠された“真実”を匂わせるが、根拠はどれも曖昧だ。しかし影は形を持たずとも人を不安にさせる。湊の心に宿る影もまた、少しずつ濃くなっていった。
◆
書斎で湊は古いアルバムを開いた。幼い頃の写真。ドレスに身を包まされた自分。笑顔を作っているが、瞳の奥は怯えている。ページをめくるごとに、令嬢としての人生が重なっていく。男である自分を隠し続け、演じ続けた年月。その影が今も彼の中に息づいている。
「湊さん?」
背後から声がした。悠真だ。ドアの隙間から覗き込み、そっと中へ入ってきた。彼はアルバムを目にして一瞬ためらったが、すぐに真剣な眼差しを向けた。「……これが、湊さんの過去ですか」
「過去であり、今も続いている役よ」
湊はアルバムを閉じ、机に置いた。指先に小さな震えが走る。悠真は一歩近づき、問いかける。「役じゃなくて、本当の湊さんは?」
その問いは胸を抉った。何度も自分に問うた疑問。答えを出せないまま背負ってきた問い。湊は視線を落とし、低く呟く。「分からない。ただ……令嬢の影は、ずっと私を追いかけてくる」
◆
夜、リビングに三人が集まった。蓮はソファに腰をかけ、グラスの水を揺らす。彼の口から、重い言葉が落ちる。「噂はさらに広がっている。匿名掲示板で“黒川令嬢は偽物”という書き込みが拡散されている」
悠真が顔を上げた。「偽物なんかじゃない!」
湊は首を振った。「影は否定しても消えない。私は……黒川家が作り出した幻影みたいなものだから」
沈黙。蓮は湊をじっと見つめた。「幻影でも、そこに生きているなら現実だ。お前を守るためなら、俺は何でもする」
その言葉に、湊は初めて蓮の瞳を真っ直ぐに見返した。そこには幼い日々から変わらぬ真摯な光があった。悠真は二人の間に流れるものを感じ取り、胸がざわめく。それでも声を張った。「僕も守ります。幻影でも、本物でも、湊さんが湊さんである限り」
◆
その夜、湊は一人で鏡の前に立った。長い髪を解き、メイクを落とし、ドレスを脱ぎ去る。鏡に映るのは、黒川家の令嬢ではなく、一人の青年。だが背後には、なおもドレス姿の“影”が重なっているように見えた。
「……逃げられないのね」
呟きが夜に溶ける。だが、その声の奥には微かな決意もあった。影を抱えたままでも、歩き続けると。蓮と悠真、二人の温もりがある限り、影に呑まれることはないと信じた。
◆
湊は共有ノートを開き、新しい一行を加えた。
『十一、影を否定せず受け入れる』
ペン先が止まり、深い呼吸が漏れる。影は消えない。だが温もりがあれば、影さえ共に歩むことができる。そう信じた瞬間、令嬢の影は、ただの恐怖ではなく、生き延びるための証へと変わり始めていた。
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