第8話 手のひらの温度


 舞台を降りた瞬間、背後で大きな扉が閉まり、喧噪が一気に遠ざかった。湊は長く息を吐く。ドレスの裾が重く、肩に載せた緊張がようやく降ろされた気がした。足元が少しふらついたのを、悠真が慌てて支える。


「触れてもいいですか」


 合言葉のような問い。湊は一瞬だけ彼を見つめ、頷いた。腕にかかる温もりは、舞台の光よりも確かだった。


「大丈夫ですか?」


「……ええ。少し疲れただけ」


 湊の声はいつもの仮面を脱ぎ、低く柔らかかった。蓮が舞台袖から近づき、冷たい水のボトルを差し出す。「飲め。顔色が悪い」


 湊は受け取り、一口含む。冷たいはずの水が、喉を通ったときには温かさに変わっていた。



 控室に移ると、三人は無言のままソファに腰を下ろした。大きな時計の針が静かに進む音だけが響く。外の会場ではまだパーティーが続いているが、ここは別世界のようだった。


 沈黙を破ったのは悠真だった。「僕……勝手に前に出てしまいました。あれでよかったんでしょうか」


 蓮が肩をすくめる。「少なくとも拍手は取った。お前の言葉に嘘はなかった。それが一番効いたんだ」


 湊はノートを開き、ゆっくりと万年筆を走らせる。『九、真実は隠さず、形を選んで示す』


 そしてノートを閉じ、悠真に視線を向ける。「あなたの言葉で救われたのは、私」


 その告白に、悠真は目を丸くし、やがて安堵と喜びが入り混じった笑顔を浮かべた。



 邸に戻ったのは夜更けだった。玄関の灯りが三人を迎える。豪奢な会場から一転、家の中は柔らかな静けさに満ちていた。湊は靴を脱ぎながら「今日はもう、令嬢は休ませて」と呟いた。声色は素に戻り、幼い頃のままの音に近い。


 食堂のテーブルに簡単な夜食が並ぶ。蓮が用意したおにぎりと味噌汁。湊は箸を取り、ゆっくりと口に運んだ。米の甘みが広がり、肩の緊張がほどけていく。


「……おいしい」


 短い言葉。だが、今夜のそれは本当に心からのものだった。蓮は「当然だ」と短く返し、悠真は嬉しそうに頷いた。



 食後、居間で湊はソファに身を沈めた。瞼が重く、頭が自然と傾ぐ。悠真がそっと隣に座り、ブランケットを肩に掛けた。その布越しに手が触れそうになる。けれど彼はまた問いかけた。「触れていいですか」


 湊は目を閉じたまま、小さく「……いいわ」と答える。悠真の掌が肩に置かれる。温度がじんわりと広がり、心臓の鼓動まで静かに整っていく。


「湊さん、今日すごく頑張ってました。僕は、その隣に立てて嬉しかったです」


「……馬鹿ね。あなたがいたから頑張れたのよ」


 囁くような声。蓮は窓際で新聞を畳み、二人を見ていた。彼の胸にもまた、熱いものが広がる。けれど言葉にはせず、静かに窓の外を見上げた。月が薄雲の間から顔を覗かせていた。



 夜更け。湊は自室に戻る前に、共有ノートを再び開いた。新しい一行が書き足される。


『十、温もりを恐れない』


 書き終えたペン先が小さく震える。彼は深く息を吐き、ノートを閉じた。扉を開けると、廊下の向こうに悠真と蓮の影が並んで立っていた。三人は言葉を交わさず、ただ目を合わせ、静かに頷き合った。


 その瞬間、孤独で凍っていた心に、確かな温度が灯った。手のひらの温度は、嘘の舞台を越えて生き延びるための、最も確かな武器だった。

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