第6話 財閥の流言

翌朝、黒川邸の門前に記者の影がちらついた。塀越しにレンズが光り、シャッター音が風の切れ目に紛れて響く。婚約発表からわずか数日。既にメディアは「黒川財閥の令嬢と平凡青年の結婚」という見出しで紙面を埋めていた。


「……思ったより早いわね」


 玄関ホールの窓から外を覗き、湊は低くつぶやいた。髪は緩く結ばれ、まだ寝間着のまま。いつもの仮面を被らぬその姿は、家族の前でしか見せない顔だった。


 蓮がスマートフォンを操作し、淡々と告げる。「ゴシップ記事が出た。『政略結婚の裏にスキャンダル』だと。匿名の関係者が、湊が“秘密を抱えている”って書いてる」


 悠真の手が強く握られる。目を見開き、湊へ振り返る。「そんな……!」


「落ち着いて」湊は短く制した。「黒川の名に噂はつきもの。今に始まったことじゃない」


 だが胸の奥は騒いでいた。秘密が暴かれる恐怖よりも、この家の中で芽生えた温度が壊されるのではないかという不安のほうが大きかった。



 昼下がり、役員会議室。重厚な木の扉が閉ざされ、十数名の役員が並ぶ。湊は令嬢の衣装を纏い、背筋を伸ばして席に着いた。声は一段高く、仮面を纏った姿。


「今回の婚約について、社外から過剰な注目が集まっております。ですが黒川財閥は安定を第一に──」


「安定?」年長の役員が鼻を鳴らす。「世間は“令嬢”に隠し事があると騒いでいる。このままでは取引先の信用も揺らぐ」


「虚偽です」


 湊の答えは冷ややかで鋭い。だが内心では、微かに声が震えた。机の下で握りしめた拳に、爪が食い込む。蓮が隣で一枚の資料を差し出した。


「こちらは最新の寄付計画です。児童福祉への比率を増やす案。これを公表すれば、企業イメージの回復に繋がります」


 役員たちがざわめく。社会貢献は財閥にとって強力な盾。話題が逸れるのを狙ったのだ。湊は一瞬だけ蓮に目を向ける。短い視線の交換。言葉以上の信頼が流れる。



 その頃、邸内の居間では悠真がテレビを見つめていた。ワイドショーの画面に、大きな文字が踊る。


『黒川令嬢に偽りの影!?』『婚約者は人形か、生贄か』


 スタジオのコメンテーターが軽口を叩き、笑いが起こる。悠真の胸が灼けるように熱くなった。立ち上がり、拳を握る。


「……こんなの、許せない」


 そこへ帰宅した湊が現れた。化粧を落とし、仮面を外した顔。疲労と緊張が滲むが、瞳はまだ凛としている。


「許すとか許さないとかじゃない。これは戦いじゃなく、舞台」


 その言葉は冷徹に聞こえるが、ほんの少しだけ震えていた。悠真は迷わず近づき、共有ノートを開いた。新しいページに大きく文字を書く。


『八、嘘には嘘で返さない』


 湊が目を見開く。「それは──」


「世間がどんなに騒いでも、僕らが嘘を増やしたら終わりです。守りたいのは、ここで暮らす三人の関係だから」


 その声は真っ直ぐで、弱さを含んでいた。湊の胸の奥に、熱が差し込む。長年、誰もそこに光を当てなかった場所に。



 夜。蓮が戻ってきて、夕食後の食卓に新聞を広げる。記事には「黒川財閥内部に動揺」と大きく見出しが躍っている。写真には湊と悠真の婚約会見の場面。蓮は短く吐き捨てる。「記者は裏を取ってない。だが、このままでは雪だるま式だ」


 沈黙。やがて湊が顔を上げた。「私たちで話すしかない。黒川家としてじゃなく、一人の人間として」


 その言葉に蓮と悠真が同時に頷く。緊張は重いが、どこかで確かに希望に似た光が芽生えていた。三人の絆は、流言の波に晒されながらも、逆に強く編み直されていくのだった。

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