第5話 恋情の火花

午後の光はやわらかく、雨に洗われた庭の緑は、まるで新しく生まれ変わったみたいに瑞々しかった。居間の窓辺で、湊は上着を脱ぎ、白いシャツの袖を肘まで折って書類に目を滑らせている。端の折り目は几帳面で、メモの余白には短い数字と矢印。仕事の顔だ。けれど、首元の第一ボタンだけは外れていて、その油断の気配を、部屋の空気が嬉しそうに抱きとめていた。


 ノックもせず、そっと戸が開く。「失礼します」悠真が両手にマグを持って入ってきた。湊の前に置かれたほうは淡い蜂蜜色。


「カモミール。眠れないって言ってましたから。砂糖は入れてません。はちみつ少し」


「……悪くないわ」


 湊が口をつける。香りが喉をやさしく撫でて、短い息がほどける。紙の上の数字の列が、少しだけ人間らしい温度を持った。


「ねえ、これ」


 湊は資料を一枚持ち上げる。「寄付の振り分け、児童養護の比率を上げたい。去年は数字のための数字だったから」


「いいと思います」悠真は即答した。「理由、共有ノートに残しましょう。誰かに問われたとき、迷わないように」


 湊の目が細くなる。評価の色だ。「あなた、ノートが好きね」


「話すのが下手でも、文字なら残せるから」


 それは悠真の自己紹介のようだった。湊は無言でティーカップを傾ける。舌の上に、ほのかな甘さが続いた。



 夕食は三人だった。蓮が作った肉じゃがは味がよくしみていて、湊は二度目の「悪くない」を言った。蓮は「褒め言葉に換算すると、五段階で四だな」と笑う。悠真は台所で皿を洗い、湊はふとその背に視線を置いた。肩甲骨の動き、泡に濡れた指、流しに落ちる水音。どれも平凡な生活の断片で、湊はそれを知らずに好きになりかけている、と気づいて目を逸らした。


 食後、談話室。テレビは音だけ小さく流れ、机の上には共有ノート。湊は万年筆で今日の出来事を箇条書きにし、最後の行で迷った末に一語だけ書き足す。


『感謝。』


 横から覗き込んだ悠真が、微かに笑う。「言葉にするの、難しいですね」


「……難しいから、練習するの」


 そのとき、家の固定電話が鳴った。蓮が即座に取る。数秒で声色が変わる。「記者。今夜の婚約コメントを追加で欲しいそうだ」


「断って」湊は即座に言った。喉の奥の緊張が、ふっと戻る。「今は家」


 受話器が置かれる音。蓮は湊の横顔を確かめ、それ以上は踏み込まない。悠真はためらい、言葉を選んだ。


「……家、なんですね。ここ」


 湊は短く頷く。ほんの一瞬だけ、目が柔らかく、子どものようになった。



 夜更け。廊下に足音がふたつ。湊と悠真は、同じタイミングで台所を目指していた。湊はマグを持ち、悠真は氷を二つ入れた水を手にしている。


「冷蔵庫、強すぎるわ。ハーブが凍える」


「設定、弱くしてみますね」


 湊が笑った。ほんの一瞬、肩から力が抜ける。それだけで、世界の重心が静かに移動する。シンクにマグを置くと、指先の絆創膏が濡れた。湊が顔をしかめる。


「待ってください。触れていいですか」


 問いは、ルールを守るための合言葉になっていた。湊は短く考え、頷く。悠真はタオルを取り、濡れた指をそっと包む。余計な力は入れない。温度だけを渡す。


「痛みますか」


「……もう、しない」


 嘘ではなかった。触れ方が、痛みを遠ざけた。タオルがゆっくり外れ、絆創膏が新しいものに換わるまで、二人は一言も喋らなかった。沈黙は、拒絶のためではなく、寄り添うためにあった。



 縁側に出ると、雲の切れ間から月が顔を出していた。池の水面に光が路を作る。湊は欄干に肘を置き、夜気を肺に満たす。悠真は少し離れて立ち、同じ景色を見た。


「湊さん」


「何」


「僕は、あなたに嘘を増やさせたくない。あなたが“令嬢”の声で喋るたび、少し苦しくなる」


 湊は笑ったつもりだったが、うまく笑えなかった。「仕事よ」


「分かってます。だから、せめて家では……あなたの声でいてほしい」


 その願いは、湊の胸の中心にまっすぐ落ちた。誰にも頼らずに立つことが正しいと教えられてきた。けれど“頼ってほしい”という申し出は、思っていたよりも軽く、温かかった。


「考えておくわ」


「はい」


 短い返事。なのに夜は、一段と明るくなったように見えた。



 部屋に戻る前、湊は共有ノートを開き、新しい項目を足した。


『六、家では素の声を選ぶ』


 ペン先が止まる。もう一行、迷ってから付け加える。


『七、触れるときは、必ずたずねる』


 書き終えて顔を上げると、扉の向こうに気配。覗いた悠真と目が合い、二人は同時に小さく会釈をした。夜のルールは、壁ではなく橋になりつつある。



 その頃、蓮は書斎で古いアルバムを開いていた。幼い湊が、庭の片隅で泥だらけになって笑っている写真。ページの端が少し擦り切れている。蓮は指でそっと撫で、静かに閉じた。


「守る方法は、強くなることだけじゃないのか」


 独り言は夜へ吸い込まれた。彼の胸にもまた、火が灯りつつある。それが恋であると名指すには、もう少しだけ時間が必要だった。



 就寝前、居間の照明が落ちる。窓に映る三人分の影が重なり、離れて、また寄る。世界は相変わらず複雑で、外の風は冷たい。けれど今夜、家の中には確かな温度があった。


 湊はベッドに横たわり、目を閉じる。胸の奥で小さな火花が散る音がした。恋情の火花。まだ火事ではない。けれど、もう暗闇だけではいられない熱だ。

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