第4話 夜半の試探

真夜中。黒川邸の廊下は、深い静けさに沈んでいた。磨き上げられた床に月の光が淡く差し込み、影が長く伸びている。

 湊は寝室の扉を開け、廊下に一歩出た。胸の奥が妙にざわつく。眠れない夜は珍しくないが、今夜は特に心が落ち着かなかった。窓の外の庭には雨露が残り、しずくが葉先から落ちる音が、静寂に小さなリズムを刻んでいた。

 と、その先に人影。悠真だった。パジャマ姿で手にコップを持ち、台所から戻る途中らしい。薄暗い光の中で、その表情はどこか柔らかい。

「……眠れないんですか?」

 不意に交わった声に、湊は立ち止まる。「あなたも?」

「はい。慣れない場所だから」

 並んで歩く二人の間に、淡い光が挟まる。無言のまま数歩進んだところで、悠真が意を決したように口を開いた。

「湊さん……本当に、大丈夫ですか」

「何が?」

「婚約とか、財閥とか、全部……。僕なんかがここにいて、迷惑じゃないかって」

 湊は足を止める。細い影が床に揺れる。冷ややかな表情を装うが、その瞳は揺れていた。数秒の沈黙。夜気が胸を刺す。

「迷惑なら、最初から呼んでいない」

 それは突き放す言葉のはずだった。けれど悠真は、逆に安心したように微笑んだ。「なら、よかった」

 短い会話。だが心の距離はわずかに近づく。湊の胸に、知らず小さな安堵が広がった。

 二人はそのまま中庭の縁側に出た。月明かりが池に映り込み、波紋がきらめく。悠真は手すりにコップを置き、夜風を吸い込む。

「ここ、静かでいいですね。都会の家なのに、こんなに音が少ない」

「表に出せないからよ。黒川家はいつも、静かに息を潜めている」

 湊の言葉には、長い孤独の影が差していた。悠真は隣で横顔を見つめる。強く見えるその姿が、実は脆く揺らいでいるのだと感じ取った。

「……僕は、話を聞くくらいしかできないけど」

 その声に湊は視線を向けた。真剣で、不器用で、けれど誠実な瞳。思わず胸が揺れる。こんな夜に、他人へ心を預けることを考えてしまう自分が怖かった。

「聞くだけなら、害はないわね」

 小さくそう答える。悠真の顔に、安心の色が差した。夜風が頬を撫で、二人の距離をさらに縮める。ほんの数センチ。だが、その一歩を越えれば、ルールは崩れる。湊は目を閉じ、呼吸を整えた。

 その頃、廊下の角にはもう一人の影があった。蓮だ。腕を組み、二人のやり取りを静かに見つめている。月光に照らされた横顔は複雑で、羨望と苛立ちが交じり合う。

「……試してみる価値はありそうだな」

 小さくつぶやき、蓮は闇に身を溶かした。彼の胸にもまた、湊への思いが眠らずに疼いていた。だが彼はまだ、その感情を“恋”と呼ぶ勇気を持っていなかった。

 夜の静けさが再び戻る。縁側に残された二人は、同じ月を見上げながら、それぞれの心に新しい輪郭を描いていた。

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