第3話 秘密の気配

「何をしてるの?」

 キッチンの入口で湊が立ち止まる。エプロン姿の悠真が振り返り、照れくさそうに笑った。

「お味噌汁と焼き鮭だけです。得意ってほどじゃないけど、朝は温かいほうがいいかなって」

 湊は無言で近づき、鍋の蓋を少しだけずらす。昆布と鰹の出汁。湯気の奥に、やわらかな匂いが立ち上る。

「……悪くないわ」

 それは最高の賛辞だった。悠真は「よかった」と小さく笑い、味噌を溶き入れる。

 食卓。蓮も新聞を手に座った。配膳を手伝おうとした湊の指に、白い絆創膏が貼られているのを、悠真は見逃さなかった。

「痛くないですか」

「大したことじゃない」

 湊は箸を取り、焼き鮭の端を静かに割く。唇に触れた塩気が、まるで遠い記憶を呼び戻すようだった。母のこと。台所に立つ背中。湯気の中の柔らかな気配。

 蓮が新聞をたたみ、静かに言う。「今日の午後、役員の臨時ミーティングが入った」

「行くわ」

「代理でもいい」

「私が行く」

 短い応酬。蓮はそれ以上は言わず、代わりに味噌汁をすくい上げた。「うまい」

「よかったです」

 悠真の答えは素直だ。三人の間に、ほんのわずかながら、同じ朝の温度が流れた。

 午前中、共有ノートに予定を書き込む。湊はペンを走らせ、午後のミーティングと資料のチェックを記す。字は整っていて、余白の取り方まで正確だった。

「このノート、いいですね」

「形にしておけば、迷わないから」

 湊はそう言って、ペン先を止めた。「それから……昨日の“確認してから触れる”って話、覚えていて」

「はい」

 悠真は一瞬考え、言い換える。「つまり、あなたの“いやだ”を、ちゃんと聞き取りたいってことです」

 湊は視線を上げる。まっすぐな返答。息が少しだけ、楽になる。

 昼過ぎ。外出の準備を整えた湊は、出がけに救急箱を開け、新しい絆創膏を取り出した。包帯を替える手つきは慣れている。だが、指先がうまく回らない箇所がひとつだけあった。

 ノックの音。「入っていい?」

 扉の向こうの声は穏やかだ。湊は短く考え、言う。「入って」

 悠真は部屋に入り、手に小さな鏡を持っていた。「見えにくいところは、鏡で映せば自分でもできます」

 湊は受け取り、何も言わずに頷く。結局、彼は手を貸さなかった。けれど、差し出された鏡は、触れずに寄り添うための方法を教えてくれた。

「ありがとう」

「どういたしまして」

 それだけの会話。けれど、扉が閉まる直前、湊は振り返って言った。「帰りは夕方。夕食は……何でもいいわ」

「じゃあ、“何でもいい”の中で一番やさしいやつにします」

 扉の向こうで、悠真が小さく笑う気配がした。

 社屋の会議室。湊は“令嬢”の装いで席に着く。議題は投資案件と寄付の振り分け。彼の声音は、普段よりわずかに高い。長年身につけた、もう一つの声。

 会議が終わる直前、内線が鳴った。蓮からだ。『送りの車、手配した。今日は裏口から』

『了解』

 短いやり取り。電話を切った瞬間、湊の声は一瞬だけ、元の低さに戻った。近くにいた秘書が小さく首を傾げる。気づいたのは、その一秒だけに流れた“素”の気配だ。

 夕方、家。玄関に灯りがともる。キッチンには、ほうれん草の白和えと、鶏の生姜煮の匂い。湊は思わず足を止める。

「おかえりなさい」

 エプロン姿の悠真が、照明の下で笑っていた。「今日は“やさしいやつ”、二つ作りました」

 湊は椅子に腰を下ろし、白和えを一口。胡麻の香りと豆腐の甘みが広がる。座ったまま、肩から疲れがほどける。

「……本当にやさしい味ね」

「よかった」

 蓮が遅れて入ってきて、二人の向かいに座る。箸を動かしながら言った。「明日から、外に出るときは俺か護衛をつける」

「過保護ね」

「お前が自分に厳しすぎるから、外ぐらいは誰かが柔らかくしてやらないと」

 からかい半分の言葉に、湊は目を細める。悠真は味噌汁を湯飲みによそい、二人の前に置いた。

「飲みやすい温度にしてあります」

 湊は湯気の向こうで、ふっと笑った。その笑みは短く、けれど確かだった。

 夜。共有ノートの最後のページに、湊は一行だけ書き加える。

『四、ありがとうは言葉にする』

 その下に、Yのイニシャルが小さく並んだ。蓮は黙って親指を立てる。秘密は、暴かれるよりも前に、受け止められる場所へ少しずつ形を変え始めていた。


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