第2話 同居のルール

黒川邸の客間には、まだ新しい畳の香りと、雨上がりの湿った空気が残っていた。湊は長い髪を解き、鏡の前で静かにまとめ直す。ドレスのときの完璧な巻き髪ではない。白いシャツに薄手のカーディガン、柔らかな紺のスラックス。鏡が映すのは“令嬢”ではなく、骨格のどこかに少年の影を残したひとりの人間だった。

 ノックの音。控えめに扉が開き、佐伯悠真が顔を出す。「失礼します」

「入って」

 湊は振り返らない。机の上には、メモと万年筆、携帯のスケジュール。視線だけで真っ直ぐに彼を捉える。

「ルールを三つ言ったはずです」

「ええ。報道対応は事前に共有、私生活に踏み込まない、そして……」

「私に触れない」

 静かな声音が部屋に落ちる。拒絶の刃ではない。自分を守るための、薄いガラスの仕切りのようだった。

 悠真は一拍置いて、小さく息を吸う。「でも、もし困っているときは、触れてもいいですか?」

 湊の指先が止まる。万年筆のキャップを閉める音だけが、乾いた夜気に響いた。

「……判断は私がするわ」

「分かりました。じゃあ、困っていそうだったら、まずは聞きます。触れていいか、って」

 その言い方は不器用で、けれど誠実だった。湊の胸に、ごく微かな温度が灯る。長いあいだ誰からも向けられなかった、確認のための“問い”。

 廊下から靴音。高遠蓮が入ってくる。手にはビニール傘が二本、コンビニの袋がひとつ。

「夜食。おにぎりと温かいお茶。それから、湊が飲めるカフェインレス」

「気が利くわね」

 湊は表情を変えない。だが蓮には分かる。ほんの僅か、目元の張りつめが緩むのを。

 悠真は気まずそうに頭を下げる。「ありがとうございます。……あの、高遠さん」

「蓮でいい。俺は湊の幼なじみで、黒川家の面倒ごと担当」

 冗談めかした口調の奥に、警戒がある。蓮は悠真へ視線を落とし、低く告げた。

「約束は守れ。守れないなら、ここにいられない」

 悠真は真っ直ぐに頷いた。「はい。僕も、守ってもらうためにいるんじゃなくて、守るためにいます」

 蓮の眉がわずかに動いた。即答だった。言葉の選び方も、目の迷いのなさも、嘘の匂いがない。

 同居初日の夜、湊は小さなノートを一冊、テーブルに置いた。黒い表紙に金の細い線で縁取りがある、落ち着いた一冊だ。

「共有ノート。報道、来客、外出、家のこと。必要な連絡はここに書いて。既読は日付とイニシャルで」

「了解です」

 悠真はペンを取り、最初のページに自分の文字で三行を書いた。

 一、嘘を増やさない。二、約束を守る。三、嫌なときは必ず言う。

 湊は目を通し、短く「いいわね」とだけ言った。蓮は横から覗き込み、口の端をわずかに上げる。

「“触れない”は?」

「それは湊さんのルールです。僕のは“聞く”です」

 蓮は湊を見る。湊は視線を逸らし、窓の外の黒い庭へ目を落とした。

「……雨、上がったわ」

「傘、二本あります。回収したい郵便、あったよな?」

「ええ。じゃあ、行きましょう」

 玄関先で一本の傘を分け合う。ぬかるみを避けるように、同じ歩幅で歩く。湊は“触れるな”と言ったばかりなのに、肩先が傘の影でそっと触れ合うたび、離れ方を学ぶように距離を整えた。

「……演技ですよ」

「はい。僕、演技も練習します」

 湊は懐中の鍵を回し、郵便受けを開ける。冷たい金属の感触が、指の傷に触れた。わずかな痛みが走る。

「大丈夫?」

 思わず伸びかけた悠真の手が、途中で止まる。湊が言ったルールを、彼はもう身体で覚え始めていた。

「……大丈夫」

 湊は郵便物を抱え、傘の内側へ戻る。濡れたアスファルトに、並んだ二人分の足跡が連なっていく。帰り道、言葉は少なかった。それでも、沈黙の重さはもう冷たくない。

 夜更け。湊は自室でコルセットを外し、深く息を吐いた。鏡の前に置かれた白い救急箱。開けると、中に新しい絆創膏と消毒綿、そして小さな字でメモが挟まっている。

『使い方が分からなかったら、呼んでください。——Y』

 湊は指先でメモを二つに折り、救急箱にしまう。呼ばない。けれど、しまい方は丁寧だった。

 そうして初日の夜は終わる。ルールは壁ではなく、三人がここで暮らすための、柔らかな手すりになるのだと、誰もがまだ知らないまま。

$1

 同居二日目の朝。庭の皐月が濡れて、若い葉が艶やかに光っている。台所から、出汁の湯気と焼き網の香ばしい匂いが流れてきた。

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