二章十六話 神不在の国にて
「────」
カオルが、アダムの言葉に押し黙る。
現実を受け止めきれていないのか、その心の内に違う感情が巡っているのかは、ココアには分からない。
ただ、
「──彼らは、わたしたちに危害を加えてくることはありませんか?」
「──見たところ、害意すらも奪われている。私たちが暗躍することに対して、疑問を感じることすらないだろう」
アダムは、街を歩く人々を一瞥しながら答える。その視線は冷静で、分析的で、感情を極力排したものだった。
「──安心していいのか、分かりませんね」
ココアは小さく息を吐き、そう零した。視線を巡らせる先には、通りを行き交う人々の姿がある。足を止め、屋台の商品を受け取り、淡々と礼を言い、また歩き出す。どれもが、かつてならば「当たり前の日常」として受け流していた光景だ。
だが今は違う。彼らの動き一つ一つが、ひどく整いすぎて見えた。感情による揺らぎがなく、迷いも、苛立ちも、楽しさもない。ただ、与えられた役割をなぞるように、静かに生きている。
先程まで胸を締め付けていた、あの原始的な恐怖は、もうない。代わりに、ココアの胸の内を満たしているのは、言葉にするのが難しい感覚だった。
──哀れみ。そして、底の知れない不安。
もし、ここで誰かが倒れても。もし、何かが壊れても。彼らはそれを「異常」として認識することすらないのではないか。
助けを求める声に、心を動かされることもない。悲しみに眉を寄せることも、怒りに声を荒げることもない。
その事実が、恐怖よりもじわじわと、ココアの心を侵食していった。
──この国は、静かだ。
「──すまない」
不意に落とされた声が、ココアの思考を断ち切った。静かながらも、はっきりとした重みを帯びた声だった。
振り返るまでもなく、それがアウルのものだと分かる。彼はいつもそうだ。問題が起きれば、誰よりも先に、自分の内側へと視線を向ける。
「──アウルさん?」
ココアが名を呼ぶと、アウルはわずかに視線を伏せたまま、続けた。
「これは僕の責任だ。もう少し考えて国を選ぶべきだった」
淡々とした口調だったが、その言葉には、明確な自責が滲んでいた。判断を下した立場として、この状況を招いたことを、自分の過失として受け止めているのだろう。
「そんなことは……」
思わず、ココアは否定の言葉を探す。誰も予測できなかった異常だ。アウル一人が背負うものではない。そう言いたかった。
だが、その言葉が形になるよりも早く、
「──そうだな」
短く、区切るような声が割って入った。
「──アダムさん」
ココアが振り返る。そこにいたアダムは、いつもの快活さを抑え、真っ直ぐにアウルを見ていた。
冗談も、取り繕いもない。事実だけを、事実として告げようとする目だった。
アウルの自責を止めようと、必死に言葉を選んでいたココアの背後から、アダムの、容赦のない言葉が、静かに放たれようとしていた。
「いつものお前ならしなかったはずだ。聡明なお前ならな」
アダムの声は静かだった。強さも、苛立ちもない。ただ事実を並べるような、落ち着いた響き。
「──どうしてそんな言い方をするんですか。誰かが悪いという話をするなら、最終的に決定を下したのはわたしです。アウルさんが悪いなんてことは……」
ココアの声は、思わず強くなる。感情が先に立ち、言葉が追いつかない。
責任という言葉を向けられるたび、アウルがさらに自分を責めてしまう気がしてならなかった。それだけは、どうしても避けたかった。
「少女が悪いということこそないだろう。君はまだ子供で、アウルとは背負うべき責が違う」
アダムは、即座に否定する。その声音には断定があったが、冷たさはない。
立場の違い。経験の差。それを淡々と示すその言葉は、誰かを貶めるためのものではなく、現実を正しく切り分けるためのものだった。
「──っ」
ココアは息を詰める。
アダムの言葉は、あまりにも正しかった。アウルを庇いたい気持ちも、自分が決断したという事実も、すべて飲み込んだ上で、なお揺るがない理屈だった。
否定できない。
反論もできない。
アダムは、アウルを責めているわけではない。ただ、彼が背負う立場と責任を、誰よりも理解しているからこそ、その名を挙げて、現実を示しただけなのだ。
そのことが分かってしまったからこそ、ココアは言葉を失った。
「──だが」
途切れたまま宙に残っていたココアの思考を拾い上げるように、アダムが一度、静かに息を吸った。
「研究とはいつでも、失敗を成功に導くためのものだ。──アウル、お前はこの事態を成功に変えられるか?」
その問いかけに、ココアははっと息を呑む。つい先ほどまでの冷静で厳密な声音とは違う。そこにあったのは、試すようでいて、信じきっている者にしか向けない、穏やかな響きだった。
叱責ではない。
叱咤でもない。
「できるだろう」と知っているからこそ投げられる問いだった。
「──当然」
短く、迷いのない返答。アウルはそう言って、不敵に口元を緩める。
それは虚勢ではなく、自信でもなく、長い年月の中で積み重ねてきた思考と選択の、その先にある表情だった。
「アウルさん……」
思わず零れたココアの声には、驚きと安堵が混じっていた。先ほどまでの自責の色は、そこにはもうない。
「心配してくれてありがとう、ココアちゃん。でも大丈夫だよ。これが回りくどい言い方をするのは昔からなんだ」
そう言って、アウルは肩の力を抜くように微笑む。その声音はいつも通り穏やかで、知性と優しさに満ちていた。
「──わざとだったんですか?」
遅れて気づいたココアは、じっとりとした視線をアダムへと向けた。睨むというよりも、不満と呆れが入り混じった眼差しだった。
「いやはや、かっこよかったぞ少女。無理な反論をしないあたり、無能な味方ではないとわかったからな」
悪びれる様子もなく、むしろ上機嫌そうにそう言い放つアダム。評価しているのは確かだが、その伝え方が致命的に配慮に欠けている。
「─────」
ココアは、その言い草に完全に言葉を失った。反論しようにも、どこから突っ込めばいいのか分からず、ただ口を開いたまま固まってしまう。
褒められている、のだろう。
たぶん。
しかし、素直に受け取れる要素がどこにも見当たらない。
「おいアダム、あまりココアちゃんに嫌な言い方をするな。この子はお前と違って……」
さすがに見かねたのか、アウルが静かだがはっきりと制止に入る。
「あーはいはい、お前の説教はまた後で聞く」
だが、アダムは軽く手を振り、その言葉を途中で切り捨てる。真面目に取り合う気は、どうやら最初からないらしい。
その様子に、ココアはようやく我に返り、じわじわと別の感情が込み上げてくる。怒りとも呆れともつかない、しかし確実に「この人はこういう人だ」という納得。
頭が良くて、判断が早くて、信頼できる。
でも、性格は、だいぶどうかしている。
ココアは、そんな結論に至りながら、深くため息をついた。
「って、そんなことはどうでもいいんですよ! 大事なことはこれからどうするかです!」
ココアは、はっと我に返ったように声を張り上げた。空気が妙な方向に流れかけていたことに、今さらながら気づいたのだ。冗談めいたやり取りや感情の行き違いに引きずられている場合ではない。
この国は異常で、そして――長居していい場所ではない。
「そうだね……どうしようか」
アウルは、ココアの言葉を受けて静かに頷き、憂いを帯びたまま瞳を伏せた。普段の彼なら、即座にいくつかの選択肢を並べていただろう。だが今は、そのどれもが決定打に欠けている。
思考を巡らせながら、アウルはわずかに身を寄せる。
「──アダム、例の個体の位置は分からないのか」
声を落とし、周囲に聞こえないよう、ひそひそと囁く。
「わからん。それがわかっていたら最初からお前に頼ってない」
「はっ倒すぞ」
「まあまあ……」
やや喧嘩腰になりかけたアダムとアウルの間に、カオルが慌てて割って入った。場を和ませようとするような、しかしどこか慎重な声色だった。
「えっと、あんまり役に立ってない俺が言うのも違うかもしれないんですけど……」
一拍置いて、カオルは言葉を選ぶ。自分がこの場で最も事情に疎いことを、きちんと自覚しているからこその前置きだった。
それでも、何も言わずに黙っている方が、もっと無責任だと思ったのだろう。
「その、アダムさんの探してる彼は、ココアちゃんと接触してるんだよね?」
静かな問いかけに、ココアはぱっと顔を上げる。
「はい!」
反射的とも言えるほど、元気のいい返事だった。
「彼──アランは、アダムさんにそっくりでした!」
言いながら、ココアは無意識に声を落とし、小さくひそひそと囁く。あの顔を思い出すだけで、背筋に冷たいものが走る。
「って言ってたよね。それで気になったんだけど、そのアランって人が、またココアちゃんを狙ってくるとかはないのかなって」
カオルの視線が、ココアに向けられる。
「──少年、それはおそらく可能性としては低い」
アダムは即答した。だが、その声音はどこか慎重で、確信よりも計算の色が濃い。
「どうしてですか……?」
カオルは首を傾げる。否定ではなく、純粋な疑問だった。
「何故なら、アランは少女に手の内をある程度知られている。交戦したということは、戦い方を知られるということ。殺し損ねた相手に再び会いに来る可能性は低いと……思う」
理屈としては、正しい。効率を重んじる存在なら、警戒された標的を再び追う意味は薄い。
それでも、アダムは言葉の最後を曖昧に濁した。
「言いきれないのはどうしてですか?」
ココアが、すぐに食い下がる。彼女の視線はまっすぐで、アダムの言葉の揺れを正確に捉えていた。
「──あれと俺では、知識は同じでも思考の回路が違う。考えを把握しきることは難しい」
淡々とした口調。だが、その内側には、嫌というほどの実感が滲んでいる。
同じものを見て、同じ情報を持っていても、辿り着く結論が違う存在。
だからこそ、予測が立たない。
ココアは、無意識に指先を強く握り込んだ。胸の奥がひやりと冷える感覚は拭えなかった。
「──でも、行き先は決めないといけないだろ? どうするんだ、アダム」
「──そうだな……」
応じて、アダムは口を閉ざした。視線を伏せ、白衣の裾を風に任せたまま動かない。その沈黙が、思考に沈んでいることを雄弁に物語っている。
ココアはその様子を黙って見守った。選択は、いつだって取り返しのつかない何かを孕んでいた。
「──ああ、決めた」
アダムは、視線をわずかに宙へ逃がし、淡々とした声音でそう告げる。
「──どちらにされますか?」
問い返したのはココアだった。声音は柔らかいが、その奥では警戒が張りつめている。
「とりあえず、この国の内情を探る」
アダムの答えは簡潔だった。その言葉が落ちた瞬間、ココアの胸の奥で、小さな違和感が静かに形を持つ。
「内情、ですか?」
思わず、ココアは瞳を見開いていた。
ココアはアダムを見つめたまま、言葉を飲み込む。この判断が正しいのか、それとも、また一つ、取り返しのつかない分岐なのか。その答えは、まだ見えなかった。
「ああ。よって、最初に私たちが取るべき行動は一つだ」
アダムはそう言って、ためらいなく腕を持ち上げた。白く、形の整った指先が示す先――それは、曇天を押し分けるようにして街の中心にそびえ立つ、一つの城だった。灰色の空を背にしたその輪郭は、重く、冷たく、まるでこの国そのものを象徴しているかのように見える。
ココアはその城を見上げる。石壁は高く、尖塔は雲に届きそうなほどだが、威厳よりも先に胸に落ちてきたのは、言いようのない圧迫感だった。近づけば近づくほど、何かを削ぎ落とされていく――そんな予感が、喉の奥にひっかかる。
「──この国の根幹を知る。そのために、騎士団に探りを入れる」
淡々と告げられた言葉に、ココアは小さく息を詰めた。
城と騎士団。
国の中心に据えられた、もっとも揺らぎにくいはずの場所。
だからこそ、そこを探るという選択は正しく、同時に最も危険だった。ココアは視線を落とし、胸の奥でざわめく違和感にそっと耳を澄ませる。
──この曇り空が晴れることは、きっとない。そんな確信だけが、静かに積もっていった。
黒猫とご主人様の異世界物語 @miyarineko
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