彼女②

喫煙室を出て、扉が閉まる音を背中で聞いた瞬間、私は立ち止まった。

 そのまま歩き続けたら、何事もなかったみたいな顔で会場に戻れたのに、どうしても足が前に出なかった。

 ――やっぱり、来なきゃよかったかな。

 そう思ったのに、胸の奥はじんわりと熱かった。

 彼は、私の指輪を見た。

 気づいてほしくなかったくせに、気づかれたくないなら外せばよかったのに――私はわざと見えるようにしていた。

 でも、嘘はつきたくなかった。

 私はいま、幸せだ。夫は優しいし、日々の暮らしにも不満はない。

 それでも。

 十年前、交わした小さな約束だけはずっと胸に残っていた。

 「また会えたら、一緒にタバコ吸おうね」――あれは、私にとっては初めての“未来を願った約束”だった。


 本当は今日、あの扉を開ける前に一度だけ深呼吸をした。

 言えなかった言葉がある。

 でもそれは、言っちゃいけない言葉。

 言葉にしたら、全部壊れてしまうから。

 せめて、約束だけは守れた。

 それだけでいい。……いや、よくないけど、そう思うことにする。


 深く息を吸って、私は会場の明るい音の方へ歩き出した。

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