彼女
誰からも好かれるように振る舞うことは、いつしか義務のようになっていた。
弱さを見せてはいけない。
完璧でなければならない。
そう自分を追い込んで、夜になると押し潰されそうになった。煙草を手にしたのは、そんなある日の衝動だった。家に帰って、鏡の前で髪をほどくと、急に現実が色あせる。笑顔は置き去りにされ、残るのは静かな自分だけ。
その虚ろな隙間に、一本の煙草を差し入れたのは偶然だった。父が置き忘れた箱の、底に残っていた最後の一本。
窓を開けて火を点けた瞬間、胸の奥でざわついていたものが、煙となって外へ逃げていく気がした。初めての煙は苦くて、思わず咳き込んだ。けれど、目にしみるその痛みが、逆に心地よかった。まるで「強がっている自分」を肯定してくれるみたいに。
翌日、また一本。そうして「秘密」は少しずつ日常に溶け込んでいった。
彼に見られたとき、胸は大きく跳ねた。
秘密を知られる恐怖と、奇妙な安堵。彼は何も言わず、ただ黙って立っていた。その沈黙に救われた。
「一緒に吸う?」と差し出した瞬間、孤独の影が少し薄れた気がした。彼が受け取ってくれた時は妙に嬉しかった。
共犯の日々は宝物だった。
雨に濡れた校舎の陰で笑い合い、試験前に小さな弱音をこぼし、夏の風に煙を漂わせる。彼といるときだけは、仮面を外していられた。卒業式が近づいたころ、私は煙を吐き出しながら言った。
「また会ったとき、吸おうか」
軽い約束のように聞こえただろうか。本当は――つなぎ止めたかった。
卒業後、私は新しい街に移り住んだ。友人をつくり、穏やかな日々を過ごしていた。だが夜になると机に置かれた煙草に手が伸びた。煙を吐くたび、校舎裏での沈黙や、彼と交わした笑顔が甦る。それは安堵であり、同時に苦い未練だった。大学のサークル仲間や友人と過ごすにぎやかな時間の中でも、心のどこかには「彼に見せた弱さ」を共有できる相手はいなかった。私にとって煙草は、過去と現在をつなぐ秘密の証のようになっていた。
たまたま地元に帰ったある日、偶然街で彼を姿を見かけた。
彼が笑っていた。隣には女の子がいて、彼女もまた笑っていた。二人の間に流れる温度は、どんな空気よりも親密で、やわらかかった。その笑顔はあまりに自然で、触れることを許さないほど遠かった。
私は思わず足を止め、物陰に身を隠した。
胸の奥がひりつき、肺に残っていた煙がせり上がってくるような息苦しさを覚えた。あんなに近くにいたはずの人が、もう触れられないほど遠くにいることを知った瞬間だった。――あぁ、私の居場所はもうそこにはない。
その瞬間、煙草はただの執着になった。火をつけることが、かえって彼の不在を際立たせる。依存を断ち切るように、私は箱とライターをまとめて捨てた。
吸わない時間は最初こそ手持ち無沙汰だったが、やがて呼吸が軽くなるのを感じ始めた。そして私にも新しい恋人ができた。隣を歩いてくれる誰かがいることで、煙に頼らずに済む自分を確かめようとした。煙草をやめた私の胸の奥には、まだ火の消え残った灰のように、彼の面影が燻り続けていた。それは口に出すこともできず、誰にも打ち明けられない小さな痛みだった。
社会人になり、穏やかで誠実な男性と出会ったとき、私は自分の心を素直に任せることを決めた。
彼には安心感があり、未来を託せる気がした。
それは理性が選んだ幸福で、胸の奥で燻っていたあの記憶とは別の世界のものだった。
結婚式の日。
白いドレスに包まれ、指輪をはめた瞬間、ふと校舎裏のの記憶が蘇る。
煙草の熱、彼の息遣い。
その熱は、今も心の奥で小さく燻り続けている。
もし、あの時の彼にもう一度会ったら――。
胸の奥で熱を感じながら、私は微笑むしかないのだ。
“好きになるのも、離れるのも、煙と同じ。ふっと出て、ふっと消える――”
私はあの日の思い出を胸の奥で燻らせていた。
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