燻らす恋
@nyanp1101
出会い
彼女は、教室の中心にいるようでいて、決して騒がしくはなかった。長い黒髪は陽の光を浴びるとわずかに茶色がかり、揺れるたびに柔らかく光を弾く。笑うと目尻に小さなシワが生まれ、そのささやかな陰影が彼女をいっそう魅力的に見せた。
背は高くない。けれど、存在感があり彼女が立っているだけで空気がどこか澄んで、場が明るくなる。
僕は、ただそれを遠くから見つめることしかできなかった。彼女は誰からも愛されていて、僕にとって手の届かない存在だった。
それでも――彼女の笑顔が視界にあるだけで、一日をやり過ごせるように思えた。だがある日、校舎裏の影に立つ彼女の姿を見たとき、その像は揺らいだ。
白い指先に挟まれた煙草。
赤く潤んだ唇に挟まれた煙草の白が際立ち、淡い煙に包まれる横顔は、教室で見せる親しげな姿とは別人のようだった。ふっと吐き出す煙は光を含んで揺れ、夕暮れに溶けていった。――彼女は煙草を燻らせていた。
「見ちゃった?」
不意に声をかけられ、息を呑む。彼女は驚くでもなく、ただ微笑んでこちらを見た。 秘密を共有することを、あたかも選ばせるように。驚きとそしてどうしようもないほどの美しさに息をのんだ。
普段は完璧に整った仮面のような彼女が、その時だけ人間らしく見えた。弱さも、孤独も、そこに滲んでいた。
「一緒に吸う?」
僕はその言葉に戸惑いながらもただ彼女の煙草を燻らすその美しい姿に誘われ、受け取った。
咳き込みながら白い煙を吐き出した。その瞬間、彼女は声を出さずに笑った。今まで見たことのない、温かい笑みだった。
彼女の秘密を偶然知り、彼女に魅せられてしまった僕は彼女と「共犯」となった。
校舎裏は、彼女の秘密を知る僕だけに許された小さな居場所になった。
いつもの放課後の校舎裏。
「やっぱりバレたら怒られるよな」
「先生に?それとも友達?」
彼女は肩をすくめ、軽く笑って煙を吐いた。教室では人気者の彼女が、ここでは肩の力を抜いていた。そのギャップに心を掴まれた。
ある日、部活帰りの生徒が裏庭に現れたとき、二人で慌てて息を止め、煙草を足で踏み消した。
「心臓、止まるかと思った」
「でもちょっと楽しかったでしょ?」
そんなふうに笑い合うのは、他の誰ともできない瞬間だった。
別の日には、帰り道に街灯の下で煙を分け合った。自販機の光の下、煙が冷たい夜風に溶けていく。彼女はふいに言った。
「恋ってさ、結局タイミングだよね」
「好きになるのも、離れるのも、煙と同じ。ふっと出て、ふっと消える」
彼女の言葉は煙に溶けて、夜の空気に消えていった。この時の彼女に恋人がいたのか僕には分からなかった。放課後なんとなく集まってただタバコを吸う。それだけの関係だ。
ただ、街灯の淡い光に照らされた横顔は、どこか遠くを見ていて、吐き出された白い煙が彼女の吐息と重なって宙に漂う。その儚い瞬間に、僕は煙よりも彼女に酔った。
そんな僕と彼女の関係は終わりに近づいていた。夕暮れの校舎裏、卒業式を前にして二人で煙草を分け合うのはこれが最後だろうと、どこかで悟っていた。
煙草に火を付ける。いつものように煙を吐き出す。
「火、借りるね」
彼女は火のついた僕の煙草に自分の咥えた煙草の先端を合わせる。艶麗に彼女は笑った。
僕たちは卒業後、別々の道に進むこととなる。ふいに彼女が呟いた。
「また会ったとき、吸おうよ」
軽い調子に聞こえた。でも、その瞳は冗談を言っているようには見えなかった。胸が詰まり、返す言葉を探す。けれど出てきたのは単純な一言だけだった。
「……うん、約束だ」
煙がふたりの間で揺れて、夕陽に溶けた。その瞬間を、僕はずっと忘れなかった。
僕は、彼女の影を追うように自らの意思で煙草を吸い始めた。火をつけるたび、あのころの空気が蘇った。だが煙の味は、彼女と一緒に吸ったたあの日ほど甘くはなかった。
大学に進学し、やがて社会に出ても、煙草だけは手放せなかった。
締め切りに追われる深夜の机で、コンビニの明かりに照らされた帰り道で、 煙草を吸うときだけは、胸の奥に彼女の影が立ち現れる。まるで煙そのものが、僕と彼女を繋ぐ細い糸のように思えた。
ただ、日常に追われているうちに、 彼女の存在は少しずつ遠ざかっていった。
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