人形-1

 また金縛りだ。身体を動かそうにも指先すら動かせない。室内の温度が下がっているようで鳥肌が立つ。

「なぜ」

 しわがれた男の声が響いた。動かないはずの体がびくりと揺れる。何度もこの男の声にしつこく詰られ、要求を飲んで来た。コレクションの全ても手放した。あの子がいれば他のものは要らない。男の言う通りだったから。どんなに金が掛かったものも手放した。それでこの男には認めてもらえるはずだった。晴れて俺があの子の『所有者』だ。そうなるはずだったのに。まだ、まだ何かあるのだろうか。

「なぜ子を捧げない?」

 男はそう言った。なんのことかさっぱり分からない。混乱する頭をどうにかしようと唯一動く目で周囲を見回す。あの子は行儀良く机に座っている。寝る前はそんなところに置いていなかった。どうしてそんなところに? 紫色の伏せた目がこちらを向いている。外から差し込む街頭の光に照らされて綺麗にカールした睫毛の影を落としていた。彼女に見られている。そう考えると突然猛烈な恥ずかしさを感じた。わけもわからない男の声に硬直して、ただ混乱しているだけの男なんてみっともないに決まっている。こんなんじゃ彼女に相応しい男とは思ってもらえない。

「子を捧げなさい」

 男の声がした。男はどこにいるんだ?ぐるぐると目を回すとどうやら枕元にいるようだった。そこに人は立てないのに。

「女を孕ませ、子を産ませなさい。その子を彼女へ捧げなさい」

「む、むり、で、す」

 思わず声に出た。声を出せることには気付かなかった。これまで女性と関係を持ったこともなく、立体造形の数々を愛せても生身の肉体へ触れたい欲求は少しもなかった。子どもが欲しいと思ったことも一度もない。

「お前は彼女を母にしてやれないのか?」

 何の話だ? ドールが母親になれるわけがない。そうだ、人形は人形であって、人間ではない。だから愛してきたのだ。なんであの子だけを特別扱いしなきゃいけないんだ?大体どうして俺はこんな霊障じみたものの言うことを聞いてコレクションを手放したりしたんだろう。霊障に追い詰められておかしくなっていたんだ。起きたらすぐにお祓いに行こう。

「お前は彼女を母にしてやれないんだな?」

「お、前の、言うこと、は、もう、聞、かない」

 動きづらい口元を無理やり動かすと、枕元から手が伸びてくる。爪の長い、大きな手だ。逃れようにも体は少しも動かすことができない。上手く悲鳴を上げることもできないまま喉元へ手がかかる。爪が肌に食い込むのも無視して、それは締め上げた。

 


 その日は繁忙期真っ只中で、ゴミ出しのタイミングを何回か逃していた。この暑さでは外にゴミ袋を置いておくわけにもいかない。仕方なく室内に置いてはいたが、それなりの容量のそれは生活の邪魔になってしまう。ひとまずベランダに置いて、次の収集日には必ず出そう。帰宅した彼女はそう考えていた。

 燃えるごみの入ったビニール袋を掴むと微かだが嫌な臭いがした。洗濯物も干すベランダにこんな臭いがするものを置くのは抵抗があるが次の収集日までの辛抱だ。そうして窓を開けると、異様な臭いが鼻をついた。

「え?」

 知らない臭いではない。冷凍しそびれた魚がそのまま冷蔵庫で悪くなった時のそれに似ている。しかしこんなに強く臭うことはほとんどない。カラスがゴミ捨て場を荒らしたのかな?いや、ゴミ捨て場はベランダの反対側だ。部屋に入るまでこんな臭いはしなかった。では何だろう?ベランダに出てみると臭いは一層強くなった。どうやら隣の部屋からするようだ。隣人がベランダにごみを溜め込んで、日中の殺人的な日差しででビニールが溶けてしまったとか?迷惑な話だ。何にせよ、何が原因か確かめて管理会社から話をつけてもらおう。彼女は室外機に足をかけ、ベランダの仕切りの向こう側を覗いてみた。

 ブン、と耳元に羽音がする。少し怯んだが気を取り直して視線をやると、ベランダには物干し竿に布巾が留められている以外は何もなかった。ブン、とまた羽音が聞こえる。

「ひっ」

 窓を見た彼女は絶句した。僅かに開けられた網戸には無数の蝿が止まっている。その中の何匹かが彼女の近くへと寄ってきているのだった。臭いは間違いなくその窓から発せられていた。つまり、この部屋の中には……。考えたくないが、ベランダを照らす街灯の光を頼りにその部屋の奥へ目を凝らした。人一人分と思しき塊が黒く横たわっているのが見てとれた。

 

「遺体は羽原隆行はばらたかゆき、三十二歳。発見者は隣人の女性。腐敗臭に気付いて通報したそうです」

「かわいそうに、お隣さんが事故物件になっちゃったね」

 阿形あがたは興味のない様子で氷の浮いたアイスティにガムシロップを入れている。すでに三つ、空のポーションが机に転がっていた。彼の手が目にかかった赤毛を退けても、アイスブルーの眼はこちらを見ることはない。

「まあ、お気の毒ではありますね」

 その様子をじっと見ながら近崎ちかさきは言葉を返した。彼が人の目を見て話すことはないのだろうかと微かな憤りを感じるが、あまりに日常茶飯事であるために諦めることにした。

「で、どうしてそんな普通の変死で放置の結果が僕が駆り出されるような事態になるわけ?」

 カチャカチャと音を立てながらマドラーで掻き回しながら阿形は言う。ここは阿形の自宅で、グラスもマドラーも彼のものであるから、雑に扱っていることを咎めても仕方がない。

「それが縊死いしの原因が見当たらないようで……。自殺の可能性も否めませんが紐状のものを使用した形跡もなく、指の痕があります。他殺と考えると死亡推定時刻に部屋を出入りした人物が見当たらないんです」

 阿形は手を止めると食い気味に尋ねた。

「なんで容疑者が居ないって言えるの? 変なところから入ってきたとかじゃないの? 普通に他殺っぽいじゃん」

 落ち着こう。彼は捜査においては門外漢なのだから、そう考えても仕方ないじゃないか。近崎はそう考えて大きく深呼吸をした。

「元の担当課が綿密に捜査した結果なので軽々しくそういうことを言うのはやめて貰えませんかね」

 出てきた言葉には隠しきれない険があったが致し方ない。

「はいはいごめんね」

「分かったら資料見て貰えますか?」

 封筒に入ったフォルダを渡す。阿形はその分厚さを見ると嫌そうに顔を顰めた。

 近崎ちかさき 勇人ゆうとは刑事で、阿形あがた ハルは近崎が所属する刑事四課の捜査協力者だ。よって、どんなに阿形が社会人にあるまじき態度をとったとしても、お前には頼まないと率直に言えるものでもない。

 四課には異常に行方不明者目撃報告が集中する場所、奇妙に自殺の多い場所、あまり不可解な状況で発見された死体や、儀式めいた殺人、煙のように掻き消えたとしか思えない行方不明者の捜索など、一般的ではないとされる事件が回ってくる。それらにはどうしても人智を超えているとしか思えない力が働くことがあり、『そういうもの』に精通する協力者の力添えを以て真相究明まで漕ぎ着けるのが仕事だった。阿形がその協力者であり、近崎は直近の異動で仕方なく彼と仕事をしている。

 普段は占い師をしている彼はどことなくだらしない部分があり、規律の中を心地よいと感じて生きてきた近崎にとって、それは常に苛立ちの種だった。

「このドールの話は何?」

 資料の一部を指して阿形が言う。

「報告の通りですよ。死亡する数日前からオークションサイト上でこの鳥海とりうみ氏という方とやり取りをして、取引が確定していたようですが、発送が大幅に遅れていると鳥海氏からサイト側に連絡があったそうです。運営が本人に連絡したものの、返答はなし。その頃には死んでいたようです」

 ふうん、と資料から目を離さずに阿形が言った。

「何で羽原さんはこのドールを手放そうと思ったんだろうね」

 黒い髪に、華やかな顔立ちをした球体関節人形が写っている。肌や瞳の色はサイトをプリントアウトしただけの白黒写真では分からない。

「オークションの投稿文に理由が書いてあるかもしれません。確か資料にもあった気がします」

 どこだろう、と阿形がページを捲る。

「これです」

 近崎が指した当該ページには投稿文が抜粋されていた。


 ずば抜けて美しい方です。

 ぜひ相応しい方にお譲りさせていただきたいと思います。

 

「あとはこの人形の大きさとか細かいデータですね」

「これじゃ何にも分かんないよねえ」

 あからさまに落胆した声だ。

「気になりますか?」

「まあここまで聞いたらねえ」

「……今回の捜査にも協力していただけるなら、オークションサイトの羽原氏のアカウントを見に行ってもいいですよ」

 どうします? と訊けば阿形は大きくため息をついた。

「やりますよ、やればいいんでしょ!」


 羽原は元々立体造形物に興味があったようで、ドールの他にフィギュア等も多く所有していたようだ。過去形になるのはフィギュア用と思われる展示用のケースはあるものの当のフィギュアがなかったためだ。オークションサイトの履歴を見れば、数多く競り落としているのだが。鳥海へ譲る予定だった例の人形も同じオークションサイトで競り落としたものであった。

「近崎くんがPC触ってるとPCが小さく見えるね」

 阿形が不意に口を開いたと思えばこれである。モニターにオークションサイトを映しながら二人で眺めており、それなりに情報があったものと考えていたところにそんなことを言われてしまっては気が削げる。近崎はげんなりした顔を隠すことが出来なかった。

「今、ここまで見て出てくるコメントがそれかよって思ったでしょ」

「誰でもそう思うでしょう」

 阿形はにやにやと笑っている。

「人形の件は死ぬ気がなかったことの証左でしかないですよ。もうちょっと他のことを調べましょう」

「何言ってるの、このドールこそが怪しいんだからこれを調べなきゃ!」

 呆れを隠しもせずに言う近崎に阿形は嬉しそうに答えた。近崎には何が嬉しいのかさっぱり分からなかった。

 どうやら阿形には近崎が見えないものも見えているらしいとは思っていたが、写真でも同様のことが言えるらしい。曰く、『こんなに禍々しいものもなかなか見かけない』らしい。近崎にはただ美しいものなんだろうとしか思えなかった。

「では真面目にやりましょう」

「僕はいつも真面目だよ」

「ご冗談を」

 しかし、と近崎は考えた。数多く購入し、競り落としたはずのドールやフィギュアは羽原が死んだ部屋にはどこにもなかった。

「手放したんじゃない? 出品履歴も見てみようよ」

 阿形の言う通り、どうやら羽原は、例の人形を手に入れてからしばらくした後、手元の他の人形やフィギュアを出品しているようだった。まるであの人形以外全てを手放そうとするように。

「阿形さんはコレクターの心理って分かります?」

「まあ分からなくはないよ」

「どうして他のものを全部手放したんでしょう?」

「さあ……ずっと欲しかったものを手に入れて満足したか、『その子』が嫉妬していると思った、とか?」

「でも結局、羽原氏はこの人形も手放しているんですよね」

「そこが分からないよね」

 出品ページを眺めてみたが、説明はほぼ定型文になっているために特に理由を窺い知ることは出来なかった。

「前の持ち主に話を聞いてみようよ。僕はドールは詳しくないけど、すごく綺麗じゃない? こんな綺麗なものを手放すのは何か理由があるはずだよ」

「そうですね。羽原氏は例の人形もこのサイトで競り落としていますし、会話の履歴から以前の出品者を確認してみましょう」

「本当は実物も見たいんだけどね」

 阿形が期待を込めた目でこちらを見ている。

「確認しておきます」

 近崎は力無く答え、PCを閉じた。

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