四課事件記録

しきまさせい/マニマニ

門扉

「なんでこんなところに来なきゃいけないんだっけ」

 男の声が小さすぎて運転中に聞き取ることが難しく、三度聞き返す羽目になった。

「この前説明しましたよね」

「覚えてないよ、人の話なんて」

 近崎が舌打ち混じりにちらりと助手席へ視線をやると男は叱られた犬のような顔をしていた。態度の割にはあまりにも傲慢なことを言っていることに本人は気づいているのだろうか。

「無人のはずの物件から物音がするんだと通報が入ったんです」

「そんなの地元の警察に頼めばいいじゃない。なんで僕が呼ばれるの……」

 この物言いで本人は純粋な疑問と連れ出された被害者意識から言っているつもりだから厄介だ。本当に彼は客商売が出来ているのか不安になる。

「地元警察が入っても不可解な事象以外は何も出なかったのでこちらに回ってきました。持ち主は更地にして周囲の土地とまとめてゴルフ場にしたいらしいから困っているそうです」

「金持ちへの忖度だよそんなの」

「金の有無は関係なく、市民が不安だと言うなら動いて然るべきです」

「真面目だね、疲れない?」

「疲れるかどうかとかじゃないんですよこういうのは」

「わかんないなあ、そういうの」

 近崎勇人は大きくため息をついた。彼、阿形ハルは今朝家から拾ってやってからずっと寝ていると思えば、起きたらこの調子だ。阿形は近崎が所属する刑事四課の捜査協力者であるために、残念ながらじゃあ帰れよと素直に言えるものでもない。

 四課には異常に行方不明者目撃報告が集中する場所、奇妙に自殺の多い場所、あまり不可解な状況で発見された死体や、儀式めいた殺人、煙のように掻き消えたとしか思えない行方不明者の捜索など、一般的ではないとされる事件が回ってくる。それらにはどうしても人智を超えているとしか思えない力が働くことがあり、『そういうもの』に精通する協力者の力添えを以て真相究明まで漕ぎ着けるのが仕事だった。

 こう言えば聞こえは良いが、要は『そういうもの』が存在すると信じる人の心に寄り添って納得をしてもらう様々な行為が主要なところだった。近崎にはそれが納得出来ていない。

 現実の犯罪には現実の容疑者が居て、原因さえ分かれば概ね解決することができる。『そういうもの』は厳密な再現性がある訳でもなく、目撃証言とも言い難い噂や世間話の類を分類して内容を抽出し、時には山中街中問わず廃墟や廃屋に足を運んで調査をし、それでも正体が掴めず根本的な解決に辿り着けないことはざらにある。

 正体の掴めない訴えに対して報告書をあげて納得してもらうのは何か悪い夢を見ている心地だった。一刻も早く元の課に戻りたい。この際、異動出来るなら交通課でも構わない。とにかく現実を相手に、現実の誰かの救いになり得る働きをしたかった。その願いは叶うことなく今回もまた霊能者の露払いめいた、仕事にもならない仕事へ従事することになっている。

 再び寝る姿勢に入った阿形を見てまたため息が出そうになる。彼の祖母は四課に長く手を貸した霊能者だった。祟りや霊障を鎮めるような拝み屋であり、信用のおけるコネクションを持っていた。本人が対応出来ない場合でも周囲の同業者へ声をかけて連れてくる、言わばハブのような存在だったという。

 伝聞の形になるのは近崎は四課配属から日が浅く、配属前に前任者が倒れているために資料ベースでの引き継ぎになっているためだった。前任者がどこにいるかは、近崎にも知らされていない。

 当の阿形の祖母も直近で引退しており、家業を引き継いだ孫、阿形ハルと仕事をすることになった。つまり、互いにこの業務には慣れていない者同士でやっていかなくてはならない。阿形は海外にルーツを持つらしく、赤い髪に赤みのある白い肌をしていた。薄青い目は大きく、少し幼い印象すら与えるが覗き込むとそこには年相応の、あるいは年齢を上回る疲労と諦めのようなものが見受けられる。

 色合いの派手さに反して線は細く、子どもの頃から運動に親しんだ近崎に比べると貧弱とも言える体つきをしていた。さらに言えば、当の本人は無気力と言っていいほどエネルギーが低く見える。

 普段は占い師をしているらしく、客商売ならもう少し人の話を聴いたり覚えていたりしてほしいものだが仕事モードじゃない時はどうにもならないらしい。これも仕事であることを思い出してほしいものだが。

「これから行くとこ、奈美ちゃんが行ってから行方不明になったところだよね」

「秋田奈美ですか?」

「そうそう」

「そうですね、彼女が失踪前に訪れていた場所の一つですが、なんでそんなこと知ってるんです? 別に共有してませんよね?」

 言葉に棘があったかもしれないと発言してから思いはするが、これまでの彼の態度を思うと妥当ではあるだろう。おおよそ共有しても覚えていないだろうと口にしなかった情報でもあったためだ。

「あの子ね、ウチのお客さんだったの。無人なのにどうこうよりそっちの方が重要じゃないの」

 流石にムッとしたのか阿形が気色ばんだように言う。

「秋田奈美は今回の廃墟で失踪したわけではないので安易に関連付けはできませんよ」

 そういうもんかあと阿形は不満気にぼやいた。秋田奈美は先月一日にこの屋敷に肝試しと称して数人と探索に来た後、七日後から行方がわからなくなっていた。週明けの大学の講義を数日欠席し、連絡も取れないことを心配した友人らが一人暮らしのアパートを訪れたものの部屋は無人。それを大学を通して家族へ連絡したことから発覚した。よって七日というのは正確な期間ではなく、それより前に部屋を出て消えている可能性もある。これは所轄が違うために今の所近崎に協力が求められることはなさそうだが、屋敷にまつわる直近の出来事として資料を集めはした。しかし阿形が知っているのも不可解だ。

「ただの客なのによくそんなことまで知ってますね」

「うん、常連さんだからね、奈美ちゃん。あの子の彼氏は俺が選んでるに近い」

「常連でも直近の動向まで普通は知らないでしょう。個人的な連絡も取ってたんですか?」

「そういうわけでもないよ。ウチは回数券みたいな、定期購入商品があるんだけど、そうだな……言ってしまえば、支払いが滞ってるの。それで調べてみたら、行方不明だって聞いた。それだけ」

 阿形はこれ以上訊いてくれるなと言わんばかりの様子でふいと顔を背けた。

「近崎さん、今日の所、他になんか変な話ないの?」

「変な話ね……」

「せっかく心霊スポットに行くんだからあるでしょうそういうの」

「言っときますけど、俺ら遊びに行くんじゃないんですよ」

「わかってるよ」

「阿形さんも仕事があるんですからね、ちゃんと要件に合う方紹介してもらわないと」

「わかってるってば、ウチのばあちゃんみたいなこと言わないでよ」

「まったく……まあお耳に入れておいた方が良さそうな話はいくつかありますよ」

 屋敷は十年以上空き家で、前の住人が忽然と姿を消してしまった。当然荷物も残っている。住人が姿を消してから管理者はずっと待っていたがこの度亡くなり、相続した息子が蓋を開けてみたらせっかくの広大な土地に廃墟があった。試しに調べてみれば無人のはずの屋敷から物音がする。しかしどこを探しても原因が見当たらない。息子としてはすぐにでも片付けてしまいたいところだがどうにも気味が悪い。そうして夜間に訪れた際、明らかな人の声がしたために通報、地元警察の手が入ることとなった。

 事の発端は確かにこの通りだが、以前から噂はいくつかある。

 実は新興宗教の施設だったんじゃないか、だとか、過激な修行で死んだ信者の霊が未だに彷徨っているらしい、だとか。ここまではよくある話だが、奇妙なのは「向こう側」へ行ける部屋があるという話だった。具体的に「向こう側」が何を指しているかも不明だが、この廃墟を訪れてから行方不明になる人間は秋田奈美が初めてではない。

「やっぱりそっちの方が大事だね」

 嬉しそうに笑う阿形を横目に近崎はアクセルを踏んだ。

 

 屋敷は奇妙なものだった。遠目で見てももっとその筋で有名になってもおかしくはない目を引く作りをしているのが見て取れる。山道をさらに傍に逸れた砂利道を登っていくと、ひらけた崖の上にそれはあった。一見すると四角い鉄筋コンクリート作りの古い、頑丈な民家のようだが、横から見るとそれは崖の先にへばりつくようにして建っている。一部はほとんど空中と言っても差し支えないだろう。非現実的とも言えるその屋敷は、崩落の危険性から鑑みても取り壊す方が無難だ。

「変な家」

 ボソリと阿形が言う。近崎もこれには同意した。車を降りた阿形は猫背を伸ばし、眠いのか砂が入ったのか、しきりに目を擦りながら屋敷を見上げている。

「行きますよ阿形さん」

 屋敷へ向かおうとするが、阿形はなぜか動こうとしなかった。

「阿形さん?」

 明るいブルーの目を眇めて屋敷を見ている。阿形の方を見ないそれは近崎には見えない別のものを追いかけるように動いていた。

「あんまりさあ、こういうこと言いたくないんだけどね」

「はあ」

「あんまり良くない場所だよ、ここ」

「俺らが行くところは全部そうですよ。行きましょう」

 まあそうだよなあ、と頭を掻きながら阿形はようやく歩き始めた。

 

 屋敷へと向かう道は広い前庭を通っている。かつては芝生が敷かれていたようだがその面影もなくイネ科の雑草が乾燥した音を立てて風に揺れていた。門扉はなく、玄関の周りには花壇のあとが見て取れる。家主の在し頃はそれなりに手入れがされていたんだろう。見る限り、荒れてはいるもののほとんど落書きもなく綺麗だった。鍵を刺してみても手応えがないので、ノブに手をかけたら開いてしまった。住居にしては広い玄関にはまだ靴さえも残っている。室内は分厚くほこりが覆っているものの、かなりの数の足跡が見受けられる。やはり心霊スポットとして肝試しに訪れる者が多いのだろう。靴底が明確なものも見受けられるから、つい最近も誰かが来ていたという事だ。ひとまずは土足で上がり込む。少し広めの廊下には枯れた観葉植物の鉢があった。進んだ先にはトイレ、風呂場、キッチンとリビング。

「ここだけ開かないね」

 廊下の突き当たりにある扉を眺めて阿形が言う。近崎はどうにも手袋もなしに手当たり次第触るのは気が引けておっかなびっくり進んでいた。見ればそのドアはノブが取り外されている。それなりに劣化した家ではあるため、蹴り破ることも出来るだろう。

「開けようと思えば開けられそうですが、手荒な真似をするのは避けたいですね」

「うーん」

 阿形は何か言いたげな様子だが、どうにもうまく言葉にならないようだった。

「なんですか」

「扉の向こうにさ、すごく嫌な感じがするんだよね。目眩みたいな、頭痛みたいな感覚があるんだ。三半規管がガチャガチャになるような……近寄ると強くなってくるんだけど、近崎くんは何もない?」

 じっと扉を見てみる。他の部屋の扉を見る限りドアノブまで揃っており、恐らくこの部屋だけ意図的に外されているであろう点以外に不可解なことは感じられない。

「ないですね、全く」

「そっか……」

 薄青い目は怯えと少しの期待を滲ませて扉を見ていた。近崎は扉には何も感じなかったものの、頭の中に阿形が扉の向こう側に引き寄せられるように入って行くイメージが立ち現れた。こうして気になった人を一人ずつ取り込んでいたら?阿形の言うように行方不明者がここへ訪れていたら?そう考えると何とも落ち着かない気持ちになってくる。

「一旦ここは後にして、他の部屋も見てみましょう」

 不穏な空気を振り払うように提案の形をした宣言をすると、阿形はハッとした顔でそうだねと呟いていた。

 

 階段は後で見に行くとして、ひとまずはリビングに入る。広めのキッチン、ダイニングテーブルと椅子が四脚揃っている。その向こうには革の剥げた大きなソファとローテーブル。立派な作りだがモデルルームのような配置で生活感は薄い。ダイニングテーブルの上には小さな花瓶に萎びてドライフラワーと化した花が生けられていた。

「冷蔵庫とか、見なくていいの?」

 阿形が茶化すように言った。見たところダイニングやキッチンに食物が残っている様子はない。荷物が残ったままだが妙に小綺麗なのは、腐るものが少なかったからではないか。

「見たいなら阿形さんが開ければいいでしょう。俺は開けませんからね」

 えーつまんないとかなんとか言っているが遊びに来たわけではないので仕方ない。必要であれば開けるだろうが、今のところその必要性は感じられない。

 ローテーブルを見やると郵便物が開けられないまま放置されていた。宛名を見るとそこは個人名ではなく事務所と書いてある。消えた住人は事務所を構えるような職業に就いていたのだろうか。

 阿形は結局冷蔵庫を開けたようで「このポン酢泡立ってる!」だとか黒い物体をこちらに見せながら「これなんだと思う? 俺はニンジンだと思ってるんだけど」などと騒いでいる。本当に仕事であることを忘れているのではないかと気が遠くなった。

 リビングは日が差して明るく、異様な空気は感じない。それもまた奇妙だった。片付いた部屋は一定の居心地の悪さを感じさせる。それが曰く付きとなればますます居づらい場所になるはずだが、この家にはどこか懐かしさすら感じさせるものがあった。

「冷蔵庫の中身は全部古くなってたよ。近崎くんの方は何かあった?」

「さあ、前の住人は士業をしていたのかなと思ったくらいです」

「じゃあいいか。二階に行こう」

 阿形は元のやる気のなさを取り戻して廊下へ出る。彼を追って出ると、無気力さは鳴りを潜めて近崎を静止した。態度の変わりようへの苛立ちを込めて抗議しようとしたその時、改めて唇に指を当てて口を閉じるよう求めてきた。

「何か聞こえない?」

 小声で彼が指差す先は天井だった。耳を澄ます。少し丸い、コツコツと鳴る音が聞こえる。革靴でフローリングを歩けばこんな音がするだろう。少なくともこの部屋の真上ではなさそうだ。それはしばらく歩き回ると、どこかの一点で歩くのとは違う、少し乱れた足音になるとやがて消えた。

「僕ら以外に、車、あったっけ」

 彼はその薄青い目を天井から逸らさない。

「後から来たのかもしれませんよ」

「車の音なら分かるでしょう」

「……徒歩で来たのかも」

「自分でもそんな訳ないって分かってるくせに」

 阿形が意地悪く言う。

「じゃあ……幽霊かもしれません」

 苦し紛れに場にそぐわない冗談を言えば薄い唇に馬鹿にしたような笑みを佩いて彼は笑った。

「それね、僕も思ったけど違うんだよね」

「……」

 何を以てして違うと言うのか、言葉は浮かぶのにうまく答えられない。屋敷へ入る前の視線といい、ノブのない部屋の前での発言といい、彼が本当に何か自分にはわからないものを感知していると思うと薄寒くなる心地がした。そうして黙っていると彼はまた叱られた犬のような目をしている。

「二階、見てみましょうか。誰か居たとしても話を聞けばいいだけのことです」

 

 階段は軋みながらも機能しており、埃の上には複数の足跡があった。入り口と同様に大小様々に混在しており、心霊スポットとしての人気ぶりが窺える。その中に奇妙なものを認めた。しゃがみ込んで確認すると、それには足趾がはっきりと見て取れる。

「どうしたの?」

「いえ、何も」

「その体勢で何も、はないと思う」

「裸足の足跡があるんです。降りる方向だけに向いている」

 その足跡は他の足跡に混じり一部消えているがどう見ても登り方向には見受けられない。下りにだけ、足趾や土踏まずのアーチを描いて点在している。

「どうやって登ったんでしょう。登りだけ靴を履いてたんでしょうか」

「……気持ち悪いね」

「ええ」

 行こう、と先を促す阿形の声も少し硬い。やはり人に怯えているようで先行する気はないようだ。とは言え近崎自身も得体の知れない嫌悪感が胸を支配するのを感じていた。こんなところにはいられない。そんな言葉が頭をよぎる。先ほどの居心地の良さとは裏腹に焦燥感すらあるが、その発生源を特定する事は出来なかった。

 

 二階は廊下の先に扉が一つ、左右に二つずつ。右の手前の扉はトイレで、水が枯れて久しいようだ。向かいの扉に手をかける。

「誰もいないよね?」

 阿形は怯えを隠しもせずに言った。こんなところにはいられない。自分に見えないものを見るような彼でもそう感じていると思うと少し気が楽になった。

「誰かいたら、しょっ引けばいいんですよ」

 いささか開き直るように扉を開けると、そこは書斎のようだった。大きな本棚が壁を埋めており、机の上にもいくつか本やノートが置かれている。一般家庭にしては多すぎる。ここまでの蔵書がありながらそれを丸ごと置いていくような出来事とは一体何だろう。あくまでも家主の扱いが行方不明であることが不可解さに拍車をかけていた。近崎は机に置かれたノートを手に取った。ノート自体は一般的なB5版で、学生の時分に近崎もよく使ったメーカーの一般的な罫線幅のものだ。デザインが現在流通しているものとは少々違うことから割合古いものであることがわかる。適当なページを開くと、肝試しや廃墟探索として訪れた人たちのものであろうコメントが残されていた。元々使用されていたページが少なく、残ったページへ落書きをした人を真似て続いていったのだろう。一番最近のコメントはつい先月。その前は一週間ほどしか空いておらず、遡るとコメントは短くて一週間、長くて半年のスパンでコンスタントに書き込まれていた。心霊スポットとしての人気の高さが伺える。内容は、日付と同行した人の名前を添えて自分たちの友情を記念しているものや、屋敷内のある部屋が特に怖いといったもの、「呪う」「死ね」といった分かりやすいワードを羅列した悪戯などが大半を占めているが、一部気になるものがあった。こういったものに悪戯として遺書のような文面を残す人もいることは想像に難くないが、悪戯にしてはその文言が似通っている。

 

 向こう側の世界が私を待っていてくれることが分かりました。今日勇気を出して飛んでみようと思います。

 

 向こう側の世界なら幸せになれるかな。なれるといいな。

 

 もう、疲れた。向こう側の世界に行きたい。こちら側で生きていたくない。

 

 多くの宗教で死後の世界について言及されているが、それらは極楽浄土であったり天国であったり単にこの世との対比であの世と言ったりする。おそらく何らかの原因で自死を選んだ人たちの言葉ではあるのだろうが、「向こう側の世界」とはどうにも一般的な言い回しではない。そのままページを捲り続けるとびっしりと書き込まれたページが現れる。そこには「向こう側の世界」への行き方とそこへ行くことがいかに幸福であるかが事細かに書かれていた。

「気持ちわる……」

 取り憑かれたように均等な筆致のそのノートは正気を取り繕うようでいて異常さを隠しきれていない。ページを捲れどもそのテンションが変わらないことに圧倒されて近崎は思わずうめき声を上げた。

「どうしたの?」

 本棚を眺めていた阿形が近寄ってくる。無言でノートを渡すと触りもしないうちから眉根を寄せた。

「まだ読んでないでしょう、何ですかその顔」

「いや、また不吉なものをと思って」

「まあ、気持ち悪くはありますよ」

 汚いものでも触るようにノートをつまむと、机の上に広げて目を通し始める。不快感を隠しもせずに一通り読み進めると阿形はポツリと漏らした。

「これは良くないね、引っ張られる」

「どういうことです?」

「ちょっと弱ってる時に読んだら行きたくなっちゃうように書かれてる。向こう側の世界とやらに」

 先ほどの遺書めいた文章たちが頭を過ぎる。

「詐欺と一緒だよこんなの」

 阿形は吐き捨てるように言うとノートを乱雑に閉じた。

「阿形さんは何か見つけたんですか?」

 妙に苛立った態度の彼に尋ねると少し間を置いてうなづいた。

「この本に“門“についての記述がある」

「“門“?」

「ただのオカルト趣味だろうとは思ったけど、そのノートを読む限り家主は本気にしたんだろうね。その“門“の向こう側に贄を捧げれば望むものが与えられるそうだよ」

 これに依るとね、と革張りの本の埃を払いながら阿形は言った。分厚いそれは小口が金色に染められた豪奢な装丁で、どこか物々しい雰囲気を醸し出しているようにも見えた。阿形の話ぶりや、扱う手つきのせいかもしれない。

「“門“の作り方と、向こう側にいる贄の受け取り手の呼び出し方も書いてある。こっちは日記らしい。読んだ感じ、ここの家主は宗教セミナーみたいなのをやってたみたい」

 読む?と訊かれるが先ほどの奇妙に整った筆致を思い出して少し背筋が冷えるのを感じた。

「やめときます。ここが何だったかを調べに来たわけじゃない」

 怯えを隠すように口角を上げて答えると不意に阿形の目に怒りが閃いた。

「へえ、目的から逸れることはしないんだ」

「そうです。俺たちの今回の仕事はそれじゃないってだけですよ」

 阿形は秋田奈美の件が気にかかっているんだろう。しかし近崎にとっては別のチームの仕事だ。

「あんだけ市民のためとか言いながらそこで日和るんだ。俺はこういうもの見たら、すぐ対処するようにばあちゃんから言われてきたんだけど、警察はそういう仕事しないわけね」

 嘲りも露わに言う。言わんとしていることは理解できるが仕事の仕方まで言及されると近崎も黙ってはいられない。

「それは噂の決定的な証拠じゃないでしょう。俺たちは証拠を重視します。秋田奈美のことが気になってるんですよね? でもその件は他のチームが調べている。よほどのことがない限り俺が口出すことじゃありません。警察は組織だからです。全員に役割があるんです。わかります?」

 一気に捲し立てて阿形を睨みつけると、今度は彼はあの子犬のような顔をしておらず、憮然とした表情で黙り込んでいた。

「……言い過ぎました、すみません。」

「いいよ、僕の方こそ言い過ぎた」

 ごめんね、とモゴモゴ言いながら阿形は本と日記を棚に戻しに行った。その背中に行きましょう、と声をかけると阿形の後ろ姿が頷いた。

 

 向いの扉を開けると、そこは居室だったようで、空っぽのデスクと座面の革が破れた椅子が置かれていた。そして何より異様なのは床一面を覆い山になっている黒いビニール袋の群れだった。埃に塗れたその表面は屋敷の北に位置するこの部屋に入る弱い光を鈍く反射させている。長い時間が経っているものもあれば、まだ薄く積もる程度に新しいものもあった。手前に置かれた袋はその結び口が緩いものや、口が閉じられていないものもある。それらに気を取られていると生臭いような、しかし香ばしいような臭いが部屋に充満していることに気がついた。学生時代の部活のロッカーの臭いを長らく放置したような臭いだ。

「なんというか、獣臭というか、ヒト臭いよね、この部屋」

 部屋の異様な空気に飲まれそうになりながら搾り出すように阿形が言う。そうですね、と返しながら近崎は原因がこの袋の中身だろうと直感していた。そしてこの袋の中に何か強く事件性のあるもの━━例えば動物や人体の一部━━は恐らくない。腐臭はなく、虫が湧いている気配もない長く放置されてもさして問題のないもの、そして臭いからして、何か人が身に付けるものだ。

「阿形さん、これいくつか開けてみましょう」

「汚いよ」

「廃墟にきれいなものなんてありませんよ」

 文句を漏らしながらも阿形が手近な袋に手をかけるのを横目に近崎は結び口の緩い袋を手に取った。

 中身は衣類だった。サイズはまちまちだが上着から下着、靴や靴下に至るまで一つの袋に一揃いの人間が身につけるものが入っている。性別や年齢は様々だが、明らかな子供服は見当たらなかった。どの袋もうずたかく積まれた表面のものでしかないために、この屋敷の前の住人が遺したものではなく、誰かが後に、ここにわざわざ捨て置いたものであることは想像がつく。

 異様なのはそれらが必ず一袋一人分の衣類一式である点だった。廃棄業者が不法に捨て置くのであればそもそもこんな梱包もせずに雑多に捨てるだろう。まるでプールに泳ぎに来たかのような揃い方をしているのはあまりに不可解だった。

「みんなここで全裸になるのかな」

 阿形が苦し紛れに言うが、近崎には冗談に聞こえなかった。

「この靴、ちょっと触ってみてもらえますか」

 近崎が手に取った一番ドアに近い袋の中にあった靴だった。男性用のようで、おおよそ二十七センチ、幅の広いローファーだ。擦り減った靴底は土で汚れている。

「少し温かい気がするんです」

 阿形はあからさまに嫌な顔をしながら中敷を触った。そしてそのふざけた雰囲気が徐々に神妙な面持ちへと変わっていく。

「……ね?」

「温かいよ。気のせいだと思いたいくらいちょっとだけね」

「じゃあやっぱり、さっきの音は人間だったんですね」

「……廃墟探索に来たんだよ」

「徒歩で?」

「徒歩で」

「廃墟探索に来た人が廃墟で服を脱ぎますか?」

「でも現に脱いでるからここにあるんだよ? どうする? 素っ裸のその人とばったり会ったら。公然猥褻でしょっぴくの?」

「逮捕は流石に……お話は伺いますよ。服を着てもらってからですが」

 事態の異常さへの怯えを隠すように、二人揃って話すのを辞められないでいると俄かに外から音がした。扉が開く音、扉が閉じる音、それからヒタヒタという微かな足音、壁を擦る音、息遣い━━阿形が聞こえる?と目線で問うてくる。うなづくと、阿形はどうする?とごく小さな声で訊ねてきた。足音は二人の居る部屋を通り過ぎると階段を降りているようだ。小さな軋みと共に足音は遠のき、やがて聞こえなくなった。

「全裸で何してたんだと思う?」

「わかりません……想像もつかない」

「僕さあ、あの人にちょっと会いたくないんだよね」

 苦々しい顔で阿形が言う。あの人とは全裸になっていると思しき自分たち以外の訪問者だろう。

「どうしてです? 服を着ていないだけじゃないですか」

 服を着ていないのは間違いなく異常ではあるが、その分何か武器を持っているといった危険性は低い。対応の方法はいくらでもある。その点で近崎は例の人物に遭遇することの恐怖は感じられなかった。阿形は信じられないかもしれないけど、と前置きをして喋り出した。

「なんかあの人、もう向こう側っていうの? この世じゃないところへ片足突っ込んでるような、そんな雰囲気がするんだよね。わかる? これからとんでもないことしでかす人の独特のオーラみたいなさ…」

 そんなオーラがあるなら警察として是非とも感じ取りたいものだが、近崎にはなんのことを言っているのかさっぱりだった。とにかく阿形が遭遇を避けたいのであれば仕方ない。

「じゃあ、その人がさっきまでいた部屋を見ましょうか」

「そうしよう」

 安堵した様子の彼を尻目に廊下を出ると、足元には足趾のある足跡が見受けられた。間違いなく裸足で歩いた人物の跡だった。

 

「さっきの人、ここから出て行ったよね」

 隣の部屋、屋敷の一番南側に位置する部屋だ。中にあるものに怯えているようで阿形はドアに触れようとしない。近崎は不気味には思うものの何も感じないが、阿形には何か感ずるものがあるのだろう。扉を開ける。

 窓は夥しい量の写真で埋め尽くされ、遮られた光が細く入り込んでいた。せっかくの南向きの採光を遮る写真はいずれも笑顔を浮かべた人物を写している。老若男女様々だが、子どもは少ないようだった。窓の前の床にポラロイドカメラとテープが無造作に置いてある。

「これで撮って貼れってことですかね」

「明確にそういう意思があるよね」

 状況確認のような近崎の呟きを阿形が苦笑した。カメラ目線の写真の群れは皆目線がこちらに向いており、白々しい笑顔で写っている。それら全てに注視されているようで居心地が悪い。不気味さは輪をかけて増しており、近崎の脳は無視できない範囲をここにいてはいけないというアラートに占められていた。

「あ、」

 ジリ、と無意識に後退りをすると写真を眺めていた阿形が間抜けな声を上げた。

「なんですか」

「奈美ちゃんだ」

「え?」

 ほら、と指差す際には確かに資料で見かけた若い女性が微笑んでいる。廃墟に来るには妙に小綺麗な白いフリルのブラウスを着ていた。そして近崎はそのブラウスに見覚えがある。

「このブラウス、さっきの部屋にありましたよ」

「……やっぱりこっちの方が大事じゃないか」

 阿形の声は震えている。

「これなら証拠になるよね?」

 縋るような目だった。

「なりますよ」

 姿勢を正して答える。

「写真、持っていきましょう。服の入った袋と一緒に」

 二度三度と阿形がうなづく。改めて秋田奈美の写真を見た。

「秋田奈美は、いつこの写真を撮ったんでしょう。肝試しに来た時に一人の写真なんて撮らないでしょうし、失踪後になるんでしょうか」

「どうだろう、そもそもここで撮った写真じゃないかもしれない。このカメラが動くかどうかもわからないし」

 阿形がカメラを無造作に掴み上げると窓に向けてシャッターを切った。「うわ、動くのかこれ」などとぼやく間にカメラは写真を吐き出す。それをつまみ上げてパタパタと振るうちに徐々に像を結び始めた。

 それは異常な像だった。

 全ての写真の目を残してそこから下はポッカリと黒く丸い空洞が開いている。彼らの笑顔も全て黒く塗りつぶされて一様に同じ黒点にさせられている。

 近崎が呆気に取られて不気味な水玉模様の浮いた写真から目が離せないでいると、阿形は徐にテープを手に取り、写真を窓へと貼り付け始めた。その動作には決まった作業をするように迷いがない。

「何してるんですか」

「ここで撮った写真はここに貼るべきだなと思って」

 思わず狼狽えた声で呼びかけると、阿形は機械的に返答した。感情のない、嫌に平坦な声だ。

「そうしたら向こう側に行く準備ができるでしょ」

「何言ってるんですか?」

 思わず肩を掴む。これまでの阿形の言動と一致しない言動に感じたのは明確な恐怖だった。

「俺たちは調査に来たんですよ、しっかりしてください」

 掴んだ肩を揺らすと阿形はきょとんとした顔をした後、自分の言ったことを遅れて理解したようだった。

「僕、変なこと言ったよね?」

「ええ。引っ張られてるんじゃないですか? 俺はそういうのよく分からないですが」

 阿形は歯に何か挟まったような顔をしているが、「そうかも」と呟く声が先ほどの平坦な、虚ろな声ではないことからまだ正気であることが伺える。少し安堵して貼られた写真を改めて見ると、貼られた写真の背景が全て同じ壁であることに気がついた。そしてその壁は部屋の壁と合致する。

「全部ここで撮られたんですね」

 肌が粟立つのを感じながら言えば、阿形が茶化すように口を開いた。

「じゃあみんなここで写真を撮った後隣の部屋で服を全部脱いだってこと? さっきの人は順番逆じゃない?」

「じゃあ少なくとも上裸の写真を探せば良いと」

「あの人を探すならね」

 少し含みのある阿形の口ぶりに少し苛立つ。

「あの人を探すことは今回の目的じゃないですもんね」

 嫌味っぽくそう言いながらも写真をつぶさに確認しようとすると、窓の逆光が目をくらませる。暗い室内では細部が霞んでしまう。

「この部屋、窓が潰れてるのが嫌だな……。外も見えないし」

「外、見たい? 向かいの部屋なら見えそうだけど」

 しばらく同じように写真を眺めていた阿形が近崎の独り言にまた平坦な声で返した。

「見てみる?」

 阿形が今引っ張られている状態なのか、正気なのかは近崎には見極められなかった。


 廊下を挟んで向こう側の扉を阿形が開く。彼は先の部屋以来、奇妙な無表情をしている。滲んでいた怯えすら見えず、近崎には妙に気味が悪かった。

 部屋の中は白い壁紙が広がるばかりで何もなく、大きな窓からは燦々と陽が差し込んでいる。家具の跡であろう日焼けは見受けられるが、撤去されているために何があったかは分からない。部屋は厚く埃が溜まっており、足跡はほとんど見受けられなかった。肝試しをしようにも何もないが故に見過ごされてきたのだろう。誰もこの部屋のことは気にしない。そうして半ば忘れられたようなその部屋の中を、阿形はやけにしっかりとした足取りで窓へと近づいた。

「見えるよ、あれが“門“だ」

 近崎が部屋を観察しようとしている間に彼がまた平坦な声で言う。窓から見下ろしたバルコニーには、奇妙な門が建っていた。それは木造のようで、日本家屋の門扉のように観音開きの扉がついている。それは今開かれており、その向こうは崖の先、地面のない中空であることがわかる。

 書斎の手記を思い出す。門で区切られた、中空を"向こう側の世界"と称して、そこで何が行われてきたのかを考えると近崎は悍ましさに目を背けそうになった。

「あれ、誰かいる」

 阿形の声に改めて目を向けると、ふらりと人影が姿を現した。

 全裸の人間だった。

 これまで近崎らと行き違いに屋敷の中を彷徨いてたその人物は、恐らく儀式の手順に沿って、もしくは一部間違いながら、服を脱ぎ、写真を撮って、ドアノブのないドアをどうにか開けて門へと向かったのだろう。これからその人物が何をするかは明らかだ。

 発火するように焦燥感が頭を覆う。今から声をかければ止められるかもしれない。

「何してるの?」

「止めるんですよ!」

 窓に手をかけ、開けようとするがサッシが錆びているのかがたつくばかりで上手く開いてくれない。そうして格闘している間にも門の前で平伏していた人物は立ち上がり、門の前に佇んでいる。

「だめだ、だめだだめだ」

 ガタガタとなる窓を開けるのを諦めて叩き始める。何か叩き割るに相応しいものを見つけられないまま、何度か拳を振り上げている間に、その人物は中空へ身を躍らせた。

「あ」

「ああ……」

 阿形の間の抜けた声と近崎の嘆きが重なる。近崎はまだ諦めることが出来なかった。阿形の手を引くとドアへと向かう。

「助からないよ」

「わかりませんよそんなこと、まだ途中に引っかかっているかもしれない」

 夢の中にいるような平坦な声に半ば叫ぶように言い返すと近崎は門扉の元へと走った。

 

 門扉の前に立つと、そこは断崖絶壁に違いなく、ここから落ちれば助からないだろうと直感した。それでも下に何かあるまいかと覗き込もうとすると、阿形に腕を掴まれた。勢いのわりには力が弱く、簡単に振り払えてしまう。

「ダメだよ、その先は良くないよ」

 今度は声に焦りを滲ませていた。

「良くないって何ですか? 人が死ぬより良くないことってありますか?」

 この人は本当になにが起きたのか分かっていないのだろうか。これだから現実を生きていない人は。怒鳴りながら腕を振り払うと阿形の手はそれでも追い縋る。

「僕らの世界にはある。近づきすぎちゃいけないんだよ」

 阿形は真っ青な顔をして、冷や汗さえ滲んでいる。やめよう、やめようと片手で頭を抑えながら半ばうわごとのように繰り返す様に余計に腹が立った。

「そんな道理が通るわけがない」

 縋る阿形を突き飛ばすと近崎は門扉の柱をしっかりと掴んだ。放置された木造にして奇妙に暖かく、脈動するような気すらした。そして門の向こう側の中空へ頭を差し入れる。

 すると丁度門を境に、覗き込んだ部分から生暖かく、粘度の高い空気に飲み込まれた。

 そして下を向いた視界には、

 黒く

 大きな手腕に

 引きちぎられた裸体

 が見えた。

 そしてこちらを見上げる

 瞼のない

 むき出しの

 眼球……。

「え?」

 あまりに非現実的な光景に手の力が抜けそうになり、慌てて柱を握り直す。もう一度目を向けるとそこには森が広がるばかりだった。崖の途中に手をかけられるような場所はなく、どうにか掴まっているような人影ももちろん見当たらない。

 阿形が呆然とする近崎を門の柱から引き剥がした。そのまま泣く子を宥めるような仕草で抱きしめられる。シトラスの香りが鼻を掠めて、今見たものも、ここにいる近崎自身も現実であることをゆっくりと咀嚼して理解した。

 やはり落ちていってしまった。そう思うと同時に遺体は上がらないだろうと直感した。どうにも先ほどの光景が目に焼きついて離れなかった。

 

 感知できない人の死に遭遇したショックは大きく、二人の間に重い沈黙を横たわらせた。

「取り壊した方がいいよ」

 車に戻り、沈黙を破ったのは阿形の聞き取りづらい一言だった。

「しばらくしたらまた同じようなのが建つだろうけど、抑止力にはなるでしょ」

「あの土地はゴルフ場になる。取り壊しは最初から決まってるから、阿形さんが心配するようなことは起きませんよ」

「あんな崖の際までゴルフ場にしないでしょ。変な小屋とか作る人が出てくるだろうから、それもすぐ壊した方がいい」

 助手席に座る阿形は心の底からそう思っているようで、血色の悪い唇を引き結んで窓から屋敷を眺めていた。

「地主さんが心配なら、この辺りの神社や寺にでもお祓いなりお経あげるなり頼めばいい。そのための理由付けが必要なら僕が適当に喋るから」

「仕事してくれるんですね」

 車を出す。日は傾いてヘッドライトが必要だった。

「僕はずっと仕事してるつもりだよ」

「どうだか」

「ひどいなあ……そう言う近崎くんはどうなの?」

「なにが?」

「こんなの俺の仕事じゃないって思ってるでしょ」

「はは、わかりますか」

「そりゃ伊達に占い師やってないよ。今の所に飛ばされたんだ?」

「コールドリーディングはやめて下さい。手元が狂うでしょ」

「事故らないようにね。それでどうなの?」

「……そうですよ、飛ばされました。前の課でミスしたのが大きかったみたいです」

「そっか、かわいそうにね」

 ちっともそんなこと思っていないような声色だった。

「今度占ってあげるよ」

「なにを?」

「近崎くんがいつ異動できるか」

 何ですかそれ、と答えながらふと阿形の手元を見ると本を持っている。小口が金色に染められた、夕方の薄暗い光にも豪奢とわかる装丁。

「あんたそれ、持ってきちゃったんですか?」

 半ば悲鳴のような声で近崎が指摘すると阿形は至極真面目な顔でこう言った。

「こういうものは専門家が持ってないとね」

 近崎にはもう何か言う気力は少しも残っていなかった。

 

 後日、屋敷は無事に取り壊しが決まり、阿形の提案通り地元の神社によってお祓いが執り行われた。元々取り壊しを検討していた地主にとって近崎の調査結果は不可解な点はあれど概ね色良いものであったようで、特に詳しい質問もないまま受け取られた。

 一方で、窓に貼られた写真群と袋詰めされた衣服は四課に押収され、未解決の行方不明事案と照合が行われている。本来であればそれらが終わってから屋敷を取り壊すことが望ましいが、阿形の言に依ればそれも危険であるために既に失われた“門“について現物のない状態で調査をすることとなった。“門“に落ちていった彼らの死亡について明確な証拠が揃うはずもなく、時間経過による死亡宣告を行う他ない現状に近崎は歯噛みすることしかできなかった。秘密裏に多くの人を飲み込んだ、“門“のあまりに密やかな幕切れとなった。

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