無秩序を前に――十二月の決断
2025年12月9日 定例大分県議会
冬の光が射し込むなか、県知事は壇上に立ち、静かに告げた。
「諸君。本日、私は一つの報告をせねばならぬ。県方針『生命燃ゆ』――達成された」
ざわめきが議場を揺らした。研究力への加速、掘削技術の導入、臼杵に燃料備蓄庫と建築枠の確保。外から見れば数字でしかない。しかし、中央崩壊の荒波に漂ってきたこの大分にとって、それは初めて手にした「実のある成果」であった。
議長の合図で各派が発言を求めた。
「確かに臼杵の施設追加は重要だが、これだけで県境を荒らす勢力に備えられるのか」
「研究の実りが表れるには年単位の時間が要る。その間に情勢が崩れれば、意味を失う」
「いや、技術と資源を手に入れたと県民に示すことこそ、混乱を抑止する力となる。小さくとも確実な前進だ」
評価は分かれた。称賛と懸念、期待と疑念――だが共通していたのは「これをどう活かすか」という問いであった。
そのとき慧が挙手し、言葉を挟んだ。
「財務の観点から申します。今回の成果は即時の利益をもたらすものではございません。しかし、技術と燃料備蓄は将来の経済基盤を安定させる第一歩となる。私どもが恐れるべきは、浪費と過大投資であります。量を追えば必ず破綻する。慎ましくとも確実な投資を積み重ねることこそ、大分の財政を守る道と考えます」
和巳も静かに続けた。
「教育や生活の現場を見ておりますと、人々は先行きの不安に怯えております。今回の成果は、その不安を和らげる灯となり得ましょう。燃料備蓄や技術の蓄積は、軍事だけでなく農業や運輸にも活かされ、県民の暮らしを支える基盤となります。たとえ目に見える成果が遅くとも、人々に希望を示すことに意味があるのです」
議場は静まり、議員たちはしばし言葉を失った。数字だけでは測れぬ価値――それを慧は経済の冷静な視点から、和巳は生活者の視点から示したのであった。
やがて知事は再び口を開いた。
「諸君、私は思う。『生命燃ゆ』とは単なる産業振興の策ではない。我らの文化、県民性そのものを示した言葉だ。厳しい自然に耐え、少ない資源を工夫して生き延びてきた大分の民。その精神が、いま新たに形を得たのだ」
議場が静まる。
「我らは福岡のように大兵力を擁する大県ではない。宮崎と同じく、数で押し潰されかねぬ小さな県にすぎぬ。されど、だからこそ――量ではなく質に活路を見出すべきではないか。強固な産業基盤と、深化する研究。それこそが未来を切り拓く鍵である」
そこで知事は宣言した。
「次なる道を提案する。名は『アクションプラン』。研究の枠を広げ、我らの知を一段と高める。技術こそが軍を支え、経済を豊かにし、文化を守る。小県大分が生き残るには、数ではなく質の道を選ばねばならぬ」
静寂が落ちた。議員たちは互いに視線を交わし、資料を繰る手を止め、思案に沈んだ。果たしてこれが荒れ狂う九州の波を越える舵となるのか――議場全体がその問いに包まれていた。
だが、その沈黙を破ったのは急進派の声であった。
「知事! そげん悠長なこと言いよったら、チャンス逃すばい!」
声は鋭く、議場を突き破った。
「福岡ん軍は内輪揉めで弱っちょるっちゅう噂や。今が攻めどきやないんか! 質や研究も大事やろうばってん、領土と資源取らんことにゃ、先はねえど!」
別の議員が机を叩いて立ち上がる。
「そらそうや! 今動かんで、福岡や佐賀が立ち直ったら、逆に押し潰されるっち思わんのか!」
反対の声もすぐに飛んだ。
「なに言いよるんか! 兵も金も足らんのに、攻めてどうするんか! 守るんで手一杯やろうが!」
「福岡に挑んだら、逆に大分が灰になるっち考えんのか! 研究も蓄えも、水の泡になるぞ!」
議場は一気に騒然となった。椅子がきしみ、机を打つ音と怒声が渦を巻く。
「攻めろ」「いや守れ」が入り乱れ、熱気で冬の空気すら霞むほどだった。
議長の槌音が響くも、誰も耳を貸さぬ。
ついに慧が立ち上がり、冷徹な声で告げた。
「諸君、財政は待ってはくれんのや。攻めれば支出は雪崩のごとく膨らむ。収入の裏付けなき戦は、滅びへの道ぞ」
和巳も声を張り上げた。
「県民の暮らしをどう守るんですか! 戦の火は真っ先に弱い者を焼き尽くしますよ!」
議論は激流のごとく止まらず、議場は混乱の
議場は渦を巻く混乱のただなかにあった。
机を叩く音、怒声、互いに詰め寄る姿。冬の陽は傾き始めていたが、議場の熱気はなお強く、
その喧騒を、低く鋭い声が断ち切った。
「――静まれ!」
県知事の声は怒号でも叫びでもなかった。だが、議場の空気を一瞬にして押しとどめる力を帯びていた。槌音よりも重く、その場にいた者の背筋を凍らせた。
知事はゆっくりと立ち上がり、壇上から全員を見渡した。
「諸君。福岡が割れ、北九州が離れた。これは好機かもしれぬ。されど同時に、最大の危機でもある。大国の力が衰えるとき、真っ先に呑み込まれるは、我らのような小県ぞ」
沈黙が広がる。知事の声はさらに低く、だが確かな力を帯びた。
「攻め取るは容易かもしれぬ。だが、取ったものを守る力はあるか? 兵站は? 財は? 民の暮らしは? 諸君が今机を叩いておる間にも、民は畑に立ち、炉を焚き、命をつないでおる。彼らを護る策を欠いた戦は、勝利ではなく愚かなる破滅だ」
慧が頷き、声を添えた。
「その通りでございます。いま必要なのは一歩先を読む冷静さ。浪費の果てに財政が尽きれば、敵を討たずして我らは倒れます」
和巳も立ち上がる。
「暮らしを見てきた私が言いましょう。県民は戦を望んでおりません。彼らが望むのは、子の笑い声が絶えず、明日の糧に怯えぬ日々です。『アクションプラン』は、まさにその基盤を築くための道です」
議場は再び静けさを取り戻しつつあった。急進派の顔にも、次第に険しさが和らいでいく。
知事は最後に言葉を重ねた。
「『生命燃ゆ』は、火花のような一瞬の策ではない。
長い沈黙が落ちた。
やがて一人の議員が立ち上がり、深く一礼した。
「……知事のお言葉、肝に銘じました。拙速な策に走るよりも、いまは土台を固めることこそ肝要でありましょう」
拍手が広がるわけではなかった。だが議場に漂っていた殺気は和らぎ、互いの視線が少しずつ落ち着きを取り戻していった。
こうして「アクションプラン」は議場において正式に議題へと乗り、審議の中心へと据えられることとなったのである。
福岡の分裂は、九州全体の均衡を一気に崩壊へと導いた。
北九州の離脱に続き、福岡市を中心とする博多の商人層もまた、自立の旗を掲げた。だがその旗は、秩序を守るためのものではなかった。権力の空白を埋めようと、旧藩閥の末裔、地下に潜んだ武装組織、商人傭兵団が入り乱れ、博多の町はやがて「博福無法地帯」と呼ばれる荒廃の巷と化した。
大通りには武装車両が徘徊し、港は複数の勢力が奪い合い、民は日の出から日没まで怯えの中に生きた。そこに「法」はなく、ただ銃声と恐怖が支配した。
一方、筑豊は火種の地であった。かつて炭鉱の利権に繁栄したが、その没落とともに不満は鬱積し、やがて独立を叫ぶ勢力と旧有力者との間に戦が始まった。鉱区は砦と化し、町ごとに武装集団が立てこもる。行政は名ばかりとなり、列車も道路も掌握を奪い合う場と化した。筑豊を通ることは死地に
福岡の分裂は、北九州・博多・筑豊にそれぞれ異なる形を取りながら、九州全域の不安定を決定的なものとした。諸県に流れ込む避難民、断たれる交易、暴走する武装集団。九州はもはや、一つの地図の上に収められる安定した共同体ではなくなっていた。
白泉はその報に触れ、筆を取った。
『福岡は裂けた。北九州は己が旗を掲げ、博多は無法と化し、筑豊は戦の煙に覆われちゅう。これ、ただ一県の崩れにあらず。九州そのものの根底が揺らぎゆう兆なり。
思えば、この地は古より「西の門」と呼ばれ、諸勢力の交わりと争いの舞台であった。いま、その門が荒ぶるは、やがて全島に荒波を呼ぶ証ぞ。
わしら大分の議場に集う者ら、遠き混乱を高みの見物に構えちょったら、やがて波は容赦なく押し寄せて来る。質を磨くも、戦を避けるも、時を違えたら皆むなしく消え失せるばあや。
いま九州は嵐のただ中にある。その嵐を前にして、心を定めぬ県など、生き残る道はひとつもないき。』
その筆致は
十二月二十二日、県軍司令部に通達が下された。
陸上自衛隊普通科の編成が見直され、従来の「歩兵大隊八個大隊・支援砲兵中隊付」を改め、純粋に歩兵十個大隊の編制とする方針である。砲を削り、兵を厚くする――それは、火力よりもまず「持ちこたえる歩兵力」を求める選択であった。弾薬も燃料も潤沢ではない。ならば、兵の体と足で持久するしかないという、切実な現実の反映であった。
兵たちの間には賛否が広がった。
「砲が減れば敵に押し込まれる」
「いや、弾がなければ砲はただの鉄屑や」
誰もが不安を抱きながらも、現実に抗う術はなかった。
そして月末の三十日、さらに重い決定が下される。普通科七個師団、徴兵開始――。
余剰兵器の確保を背景とした、実に大規模な動員であった。徴兵令は県内全域に布告され、街角には掲示が貼られ、各地の公民館には臨時の徴兵受付所が設けられた。農家の若者、工場の職工、学生らが一人また一人と列をなし、番号を受け取り、髪を刈られ、制服を支給されていった。
母は涙を隠し、父は黙して肩を叩き、幼き子は意味も知らずに手を振った。
大分は「質」を掲げた。だが、質を支えるには「数」もまた要る。その矛盾を抱えたまま、県軍は新たな歩みを始めたのである。
――かくして十二月は終わった。
福岡の分裂と混迷、筑豊の戦火、博多の無法化。九州全体が揺らぐ只中で、大分は産業と研究の道を選び、同時に軍の強化に踏み出した。
小県の覚悟は、まだ脆く頼りない。だが確かに、一歩は刻まれた。荒れ狂う嵐の中で「生き延びる」というただ一つの意思だけが、大分を支えていた。
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