境界に立つ者たち――十一月の苦悩
2025年11月5日 臨時大分県議会
県議会の正庁に、再び議員たちが集められた。議題は一つ――大分県軍の新たな指導者を正式に任命することである。
「諸君、すでに周知の通り、県軍再編を提唱し、議場において説得力ある説明を行った道祐教官長を、正式に陸軍長官へ任ずる動議が提出されている」
議長が木槌を打ち鳴らすと、場内にざわめきが走った。反対意見はほとんどなく、問題は儀礼的な承認手続きに過ぎなかった。
革新派の一人が声を上げる。
「彼の見識と経験はすでに実証済みや。数より筋を、虚飾より現実を――その方針は、この大分を救う道にほかなか!」
保守派も異を唱えず、かえって年配の議員が重々しくうなずいた。
「軍を預けるならば、この男しかおらん。異論はなか」
こうして、道祐は正式に陸軍長官として選出された。彼の就任は、単なる人事を越えて、大分の軍政そのものに新たな骨格を与えるものであった。兵の士気は上がり、軍の再編は加速していった。
1935年11月18日 福岡―長崎九州中立化条約
正午、大分県議会に急報が届いた。
福岡県と長崎県が、佐賀県を交えて不可侵条約を結んだという。名を「九州中立化条約」と称す。
議場に響いた議長の読み上げは、まず福岡と長崎の共同声明であった。
福岡・長崎共同声明(抜粋)
「両県は、相互不可侵を誓い、佐賀県を交えて
本合意は九州北部の平和と安定を確保するものであり、他県においても軍拡を自制する模範となることを望む」
続いて読み上げられたのは、佐賀県の声明であった。
佐賀県声明(抜粋)
「我が県は、小さな県であるがゆえに、隣接する大県の合意に従い、中立化条約の一員となることを喜んで受け入れる。
平和の名の下に武を収めることは、県民の安寧を願う我らにとっても相応しき道である」
……しかし、その文の端々に潜む抑揚は、どこか苦い。
「喜んで受け入れる」という強調は、むしろ苦渋を隠すための仮面であり、 「小さな県」という自称には、自らを卑下するような痛切さが漂っていた。
議場は一瞬沈黙し、やがて堰を切ったように声が飛び交った。
「――結局、佐賀は緩衝地帯にされたんやないか!」
「福岡も長崎も、口では『平和』やが、守りたかは自分らの境界だけやろ!」
「小さな県は切り捨てられる。今日の佐賀は、明日の大分ぞ!」
議員らは口々に叫び、議場は騒然とした。
中堅議員が声を張る。
「宮崎と手を組むしかなか! あそこも我らと同じ“小さな県”や。互いに補い合えば道は開ける!」
すかさず別の議員が
「夢物語ば言うな! 二つ小さな県が寄り添うて何になる! しかも宮崎と組んだら、鹿児島に睨まれるぞ。あそこは薩摩の伝統を掲げ、軍拡に熱心じゃ」
若手が立ち上がる。
「そげなこと言いよったら、結局一人で潰されるだけやろうが! 佐賀を見てみい! 声を上げても届かんのやぞ!」
年配議員が机を叩く。
「鹿児島に狙われたら本末転倒ぞ! 宮崎との同盟は火種を招くわ!」
怒声と反駁が重なり、議場は収拾を失った。
道祐がようやく立ち上がり、低く言い放つ。
「――諸君、佐賀の姿は我らの明日だ。だが宮崎と組むか、孤立して立つか、その選択の重みは軽々しく決められるものではない。
何よりも大切なのは、自らの軍を鍛え、他者に運命を委ねぬことだ」
和巳が続ける。
「……宮崎との協力は可能性を開きます。けれど、鹿児島への警戒も必須です。
結論を急ぐより、いまは県の基盤を築くことこそが第一でしょう」
そして慧が、帳簿を手に静かに立ち上がった。
「軍のことは道祐殿に譲ります。ただ、財務の現実から申し上げたい。
大分県の歳入は中央解体後、かろうじて観光と工業で支えられております。余剰資金は毎月二割に満たず、軍拡を急げば公共事業や交易路の維持に直ちに影響が出る。
宮崎と同盟を結ぶにせよ結ばぬにせよ、その財をどう分担するかは大問題です。鹿児島が動けばなおさらです。数字を見れば、今の我らは“同盟を結ぶにも備えが足りぬ”のです」
慧の声は抑制的であったが、議場に冷や水を浴びせるには十分だった。
賛否を叫んでいた議員たちも一瞬言葉を詰まらせ、しかし議論は収束することなく再び割れていった。
「同盟は必要だ」「いや、財政が持たん」「軍備を優先せねば」「交易を断たれたら意味がない」――。
和巳の慎重論も、道祐の軍備重視も、慧の財政警告も、議場を一つにはまとめられなかった。
その日、大分県議会は一つの方向に収束することなく、佐賀の苦悩を鏡のように映し出しながら、不安をさらに深めることとなった。
秋も深まる11月、白泉は静かに自室でテレビを見つめていた。画面には、福岡と長崎の間で結ばれた九州中立化条約のニュースが流れる。福岡・長崎・佐賀の県境を非武装化し、佐賀を事実上、福岡と長崎の緩衝地帯に置く形だという。表向きは「平和への努力」と称される条約だが、白泉にはその裏にある佐賀の悔しさがにじむのが分かった。
県議会でも議論は紛糾していた。慧は財務と経済の視点から、条約による大分県の立場の変化を指摘する。補給路の確保、軍事的抑止力の維持、地域経済への影響――すべてを総合して、限られた予算の中で最適な投資配分を議論する。道祐は軍事的観点から、三個師団を基盤とした防衛力強化の必要性を説き、和巳は生活と教育への支援を絡めつつ、県民の安全を守る観点を強調する。
テレビ画面を見つめながら、白泉は息をつく。
「そら、福岡と長崎は互いに手ぇ組んで、小さな佐賀ば押し込んだちや。宮崎と手ぇ組むとしても、鹿児島に目ぇつけられるんじゃなかろうか……」
条約によって県の立場が微妙に揺れる中、祈りだけでは守れぬという思いが白泉の胸に重くのしかかる。
「祈るだけで未来は動かせんがや……せやけん、わしが見とらんといかんちや。信仰と行動、両方で支えんと、大分の民は守れん」
秋の光が静かに部屋を照らす。その光の下で、白泉は条約の影響、佐賀や宮崎の立場、福岡・長崎の動き――すべてを胸に刻み、次に何を為すべきかを深く思い巡らせていた。
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