第12話 裂け目の前で

Ⅰ 掲示板と噂の温度


 朝の掲示板に新しい紙が一枚、貼られていた。

 “公開共同研究 第三回:裂け目の前で(祠水印・編集折半・個人遮断・導線記録)”。

 角は丸く、紙は厚い。指で撫でると繊維が柔らかく返事をした。破れにくい紙だ。


「いよいよ大規模かな」「財閥の人、今日も来るよね」「“裂け目”って本当に再現できるの?」

 登校中の廊下で、声が紙飛行機みたいに飛び交う。噂の温度は、昨日より二度だけ高い。


 私は食堂で唐揚げ定食を受け取る。おばちゃんが目だけで「がんばってね」と言う。塩を一振り、もう一振り。衣が光る。

 牛乳をひと口。「大盛りがあれば大丈夫」と言うと、澪が呆れた顔で笑った。


「大盛りでどうにかなるなら苦労はないよ」

「なる。寝るのと食べるのは、だいたい勝つ」

「だいたい、ね」

 颯は新聞の見出しの動詞だけを抜いてノートに縦に並べる。“迫る/備える/封じる/揺れる”。

 莉子は会報の下書きに「裂け目ってなに?」の見出しを書き足し、丸文字で“紙を破らないってこういうこと”の欄を増やした。


「今日の導線、祠水印ラインを一割増やした。踏めば記録が残る」

 颯が淡々と告げる。「外からの“工事”は止めたけど、“内からの点”はまだ細いのが生きてる。気配で分かる程度」


「窓口の列、朝から長いね」

 澪が窓の外を見やる。外の移動販売車にも、内の補食窓口にも、同じように人の列。

 善は腹に届き、善は台所に置ける。二つを敵にしないのが、ここ数日の私たちのやり方だった。


 胸の小袋を指で軽く叩く。からん。石は眠い。守るより、見せる日だ。



Ⅱ 祠室の警告――神域の縁


 午前の予備ミーティングの前、私たちは地下の祠室に寄った。石の匂いと、乾いた灯の温度。

 蔵王は灯明を一つ調整し、目盛りのついた水皿を私たちに見せる。細い針が半目盛り上で揺れて、そこで落ち着く。


「裂け目は、“妖”でも“祟り”でもない。今日のは、神域の縁に近い」

 蔵王の声は低い。「これまでの“乱流の怪異化”は人為だったが、向こうが息を返し始めている」


「こっちの“見せ方”に、向こうが反応?」

 澪が目を細める。

「光が増えれば影が濃くなる。透明性は灯りだ。——善は通行証にもなる。向こうにとっても、だ」

 颯は頷き、メモに“向こうの呼吸/過度な可視化のリスク/祠水印の増幅”と書いた。


「どうする?」

 莉子が祈祷札の束を胸に抱えながら尋ねる。

「食べる、寝る、撫でる」

 私は言う。「向こうに吠えない。紙を破らないで、縫うだけ」


 蔵王は小さく微笑んだ。「それで十分だ。不滅核には触るな。撫では、間を保つ」


 胸の石が、からんと短く返事をした。



Ⅲ 理事会の新たな動き――“温度”の所有


 同じころ、都心の塔。

 黒檀の長卓、光は柔らかく落ち、祠はない。天御織江が議長席に座り、鳴海はグラフを広げ、西園寺は物流図に矢印を足し、有栖川は言葉の砂糖を皿に盛る。九条は沈黙したまま映像を繰り返す。


「市場は今、学園×財閥の共闘で沸いている」

 鳴海が言う。「投資家心理は好調。安全核指数の先物まで話が出てる。——温度がある」


「物流は“裂け目対策”名目で組み替える。蛇口は腹へ。工事は祠の監査で止まったが、台所は止めない」

 西園寺は地図に赤いラインを引いた。


「広報は“共闘の象徴=臨界点”を押す。孤立させるのではなく、善の包囲網で輪を作る。温度を所有する」

 有栖川は薄く笑う。「善で囲む輪は、紙を破らない。——観客の目には、ね」


 九条は映像の再生を止め、静かに言う。「神域が反応し始めている。向こうの縁に触るな」

 織江はほんの少しだけ首を傾げた。「触らない。見せるだけよ。善で。所有は温度のほうで行う」


 祠の鈴は、この部屋にはない。



Ⅳ 公開セッション開幕――裂け目の再現モデル


 講堂。床の祠水印ラインは昨日より濃く、角の刻印が増えている。踏めば記録になる。

 正面の実験テーブルには、拡張された水路模型。合流部のさらに下流に、薄い**“紙”の膜が張られた透明の仕切りがある。裂け目の再現モデルだ。

 仕切りの表面には肉眼で見えない細かい祠紋が刻まれ、カメラには水印**として映る。剝がせない、切り抜けない。


「——始めます。裂け目の前で」

 澪の第一声。観客席には学園生徒、他校の見学者、一般市民、記者。そして天御の席には有栖川と西園寺、代理の法務、鷹真。

 配信コメントは最初から滝のようだ。


〈裂け目再現ってマジ?〉

〈床のラインかっけー〉

〈祠水印えらい〉

〈臨界点ちゃんがんば〉

〈鷹真くんの数値解説待機〉


 颯がスクリーンを指し棒でなぞる。「危険領域=裂け目の窓。輪×川の交差角を小さく、撫での滞留時間を均一に、外圧は段階で。窓を狭めます」


 私は胸の石を軽く叩く。からん。眠い。守るより、縫う準備だ。



Ⅴ 実験――紙の前の呼吸


 基礎のデモは滞りなく進む。輪で臍を作り、撫でて薄め、川で外に合わせる。砂は教科書の曲線を描く。

 次に、裂け目前の乱流。補助がレバーを二段階、三段階と落とす。合流点の肩が立ち、仕切りの紙の前で水は荒い呼吸を見せる。

 私は内に輪、鷹真は外に川。息の同拍で置く。数式がスクリーンに走り、減衰の係数が緩やかに下がる。

 紙は破れない。まだ、破れない。


「ここから、裂け目の疑似反応に移ります」

 澪の声の温度が一段上がる。「祠の印と水印を連動させた微細刺激を与え、紙の前に縫い目を“見せる”」


 颯が端末に触れ、透明の仕切りの表面に薄い光が走った。水印のパターンが、肉眼でも辛うじて分かる程度に浮かぶ。


 ——その瞬間。

 模型の紙が、自然発光した。こちらの刺激とは違う、向こうからの返事の光。

 空気が軽く、揺れる。配信の画面が一瞬ピントを失い、コメント欄が騒ぐ。


〈今の演出?〉

〈画面が呼吸した〉

〈鳥肌〉

〈祠やば〉


「本物が、応答している」

 祠室からのインカムで、蔵王の声が飛ぶ。「向こうの縁がこちらの見せ方に合わせに来ている。——紙を破るな」


 胸の石がからん。低い。来る。

 私は喉の星をひとつ。輪を小さく、二重に。撫でで肩を落とす準備。

 隣の鷹真が息を合わせ、外流の数式を一段緩めた。外圧は急がない。段階。



Ⅵ 顕現――手の形をした風


 暖簾が風でめくれるみたいに、紙の表面が内側からふくらむ。

 水ではない。空気の密度が変わる。ガラスに寄せた掌の熱みたいなものが、透明の仕切りのこちら側に、手の形で現れる。

 観客席に短い悲鳴。カメラはぶれない。祠水印が四隅で脈打っている。


「——輪」

 私が内側に、臍をやわらかく作る。硬い輪は押し返すから、使わない。柔らかい臍で、抱く。

「——川」

 鷹真が外に合わせる川を敷く。式は、寄り添う数に。蛇口で外圧を調える。


 息が、ぴたり。

 手の形が、ゆっくりと薄くなる。撫でで肩が落ち、数で縁が冷える。

 紙は破れない。縫い目だけが、光で見える。


「——もう半拍、撫でを浅く」

 鷹真が短く言い、私は頷く。

 星をもうひとつ。輪の縁を薄く、撫での滞留を均一に。鷹真は減衰係数を0.62→0.60へ。

 手の形は、温度だけを残して消えた。

 拍手。歓声。コメント欄が爆発する。


〈やばい〉

〈今の本物だろ〉

〈臨界点×鷹真=黄金ペア〉

〈“紙を破らない”ってこういうことか〉


 澪は震えない声で締める。「**今の反応は、こちらからは“縫い目を見せる”まで。向こうからの“手”は、抱いて、冷まして、返す。紙は破らない」


 私は胸の石を押さえる。からん。浅くなる。来ない。収まった。



Ⅶ 裏の手――第二の裂け目


 同じ時間、講堂から少し離れた旧体育館の屋根。

 九条の直轄の影が二つ。手袋の白が夜目に浮き、薄い呪符が風に翻る。

「祠水印の外側に、小さい裂け目を作る。——監視の反応を見るだけだ」

「善の顔に干渉は残すな」

「分かっている」


 屋根の端で、目に見えない針が紙の裏へ触れる。

 しかし、触れただけで、紙の繊維が跳ね返す。印が噛まない。癖の違い。

 影が僅かに舌打ちする。「学園製の樹脂、内側に水印を入れている。——鍵屋の癖が噛めない」


「次だ。別の窓を探す」

 影は呪符を残さず、風に紛れて消えた。



Ⅷ 質疑――言葉の針を撫でる


 講堂は拍手が落ち着き、質疑。

「——神域の縁に触れることの倫理は?」

「学園が窓口で管理し、公開と遮断を明確に分ける。撫では共有できるが、核は共有しない」

 御影先生の声は訓練された水の流れみたいに滑らかで、黒江は壇上の端で“個人への接触は窓口へ”の札を示す。


「臨界点の感覚を数値化できないのか?」

 鷹真が即答する。「全部はできない。寄り添う数だけにする。鍵穴にしない、蛇口にする」

 私は笑って、「塩は舌で覚えるの」と添えた。会場に小さい笑いが走る。

 言葉の針は、撫でると丸くなる。



Ⅸ 休憩――飴と棘の同時流入


 休憩に入ると、外のネットに切り抜きが並ぶ。

 『神域に干渉? 学園は境界を弄んでいないか』『“撫でで返す”とは何か、数値はどこまで?』

 すかさず有栖川のチームが、柔らかい文章で“灯をつなぐ教室”第二弾を投下する。写真は私が笑って唐揚げの話をしているカット。

 飴と棘。温度は保たれ、口の中は忙しい。


 黒江は「誤誘導注意」を粛々と送る。祠水印のアラートは鳴らない。切り抜きは要約だからだ。

 颯は「切り抜き耐性」のスライドに“神域ワードの説明テンプレ”を足し、澪は次パートの台本に“言葉の撫で”を一行だけ増やす。

 莉子は『裂け目ってなに?』特集の図に、紙のイラストを描き込んだ。破らない針の向きが矢印で示されている。



Ⅹ 後半――縫い目の温度管理


 後半は“縫い目の温度”の話だ。

 颯が言う。「冷やしすぎると縁が脆くなる。温めすぎると膨らむ。撫での滞留は均一、外圧は段階、交差角は小さく」

 私は手元を見せる。輪の手は柔らかく、撫での軌跡は浅く、川の肩は低く。

 鷹真は「寄り添う数」のグラフを示す。式は道具で、物語ではない。物語は日常に還すもの。

 観客席の空気は落ち着いて、でも眠くはならない。ちょうどいい。



Ⅺ 放課後――列は敵じゃない


 セッションが終わると、外の移動販売車に列。善は腹へ届く。

 学園内の補食窓口にも列。善は内に置ける。

 昨日の上級生が、小さく会釈してパンと唐揚げを受け取った。胸ポケットの銀のペンは今日はない。代わりに申請書の控え。

「窓口、ありがとう」

「どういたしまして。塩、いる?」

 彼は笑わないけれど、目の硬さが薄い。寝られた顔だ。



Ⅻ 報道――二つの帯


 夜のニュースは二つの帯で流れた。

『学園と財閥、神域の裂け目を封じる』『公開研究の透明性』『臨界点と後継の共闘』

 そしてもう一つ——『神域への干渉は危険か』『境界倫理の専門家に聞く』『感覚頼み? 数値の限界?』

 画面は甘い飴と細い棘を同時に口へ運び、視聴者は自分の舌で温度を決めるしかない。

 私は唐揚げをひとつ、塩を控えめに。牛乳の白が喉を落ちる。


「ご飯食べたら、またやれる」

 私がそう言うと、澪は笑って「うん」と答え、颯は「睡眠の数は正義」とノートに落とした。

 莉子は“裂け目の前で特別号”の余白に、小さな“窓口へ”スタンプを三つ増やす。



ⅩⅢ 塔の陰――九条の違和


 都心の塔の屋上。風はほとんどない。

 九条は一人で夜景を見下ろし、目を閉じてから開く。

 撫でと数がぴたりと合うと、安全核の希少性は薄まる。市場の言葉では価値の平準化。

 しかし現場の言葉では、灯りが増える。

 彼はわずかに眉を寄せた。「次を見る」

 それが善か悪かを、ここで決めるつもりはない。ただ、次を見る。それが彼の仕事だった。



ⅩⅣ 夜半――祠の鈴と二つの列


 寮に戻る前に、私は祠の鈴を撫でた。鳴らない。良い。

 胸の石はからんと短く鳴き、眠い音を返す。

 校門の外には夜間支援の列、内には窓口の列。二つの列は、どちらも空腹で、どちらも善を求めている。

 列は敵じゃない。窓口を広くして、紙の繊維を太くする。破らせない。


「透花、明日の朝は?」

 澪が問う。

「牛乳。唐揚げ。それから、紙の縁を撫でる」



ⅩⅤ 屋上――半歩の距離、息の合図


 屋上に出ると、天御鷹真がいた。距離は半歩近い。近すぎないから、ぴたりと並べる。

「今日の“手”、本物だった」

「うん。向こうの息。撫でで抱いて、数で冷ました」

 彼はうなずく。「倫理の質疑、増える。僕は数で境界を曖昧にしたくない。道具のままでいい」

「塩は、道具でも物語でもあるよ」

「……君の比喩はいつも腹が減る」

「唐揚げ、いる?」

「遠慮する」

 彼は丁寧に礼をした。「並走。孤立はさせない」

 私も礼を返す。息が合えば、手は勝手に同じ方向へ動く。



ⅩⅥ 深夜――小さな針、小さな灯


 深夜、廊下の非常灯が一度だけ瞬いた。

 階段の踊り場に、細い針の気配。上級生ではない。もっと小さい。一年生だ。

 私は声をかけた。「紙、破らないと、眠れるよ」

 小さな影はびくりとして、ポケットから小さな申請書を取り出した。「……窓口で、いい?」

「うん。寝るの宿題、出してね」

 影はこくりと頷き、足音をできるだけ小さくして去った。善は、通行証だ。



ⅩⅦ 朝へ——角の丸い紙


 夜明け。窓の外は粉を溶かした牛乳みたいな色。

 掲示板の紙は角が丸いまま、剝がれずに貼り付いている。

 私は指で縁を撫で、唐揚げに塩を二振りし、牛乳を飲む。

 胸の石がからん。来い、ではない。行こう。

 裂け目の前で、今日も紙を破らない。撫でと数で、縫うだけだ。


 ──雪が止み、空の紙がゆっくりと閉じていく。

 北条祠を包んでいた靄は完全に消え、空気の層が澄んでいくのが分かった。

 透花は深く息を吐いた。胸の石が、眠るようにからんと鳴る。


 「……これで、ひとつ」

 頬に触れる冷気が柔らかくて、眠気より先に安心があった。


 帰りの列車の中、鷹真はデータを整理しながら小声で言った。

 「臨界点。君の“撫で”が、ほんとうに祠を眠らせた」

 「撫でるだけだよ。破らない。そう教えられたもん」

 透花は笑い、車窓に指で円を描く。夜明け前の光が薄く揺れた。


 ──そして、数日後。

 学園へ戻ると、講堂はざわめきに包まれていた。

 全国の陰陽師会議、天御財閥、報道、SNS――あらゆる場所で「臨界点筆頭」「神域干渉」「斎宮透花」の名が踊っている。

 静寂の中で越えた“臨界点”は、社会のど真ん中で波紋になっていた。


 ……その日から、透花の日常は少しだけ忙しくなった。

 授業の合間に取材の申し込み。布の提供申請。祭事参加要請。

 どこへ行っても「臨界点筆頭」「斎宮透花」の文字。


 彼女がまだその意味を知らないまま、次の裂け目が動き出していた。


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