第6話 揺れる結界、並走者

Ⅰ 朝――報道の渦と校門の温度


 翌朝、校門の金具はいつもより冷たかった。昨夜の雨がわずかに残って、朝日を平たく返す。門の外に報道はもういない――というより、学園の“お願い”で中継は講堂以外禁止になった。けれど、残り香は消えない。

 掲示板には「寄附受領と共同研究の協議について」という淡々とした事務の紙が貼られ、隣の紙には「個人への接触は窓口へ」と赤いスタンプの注意。赤の色だけが派手だ。


「おはよう、透花」

 澪が並ぶ。目の下の隈はない。ちゃんと寝た顔。

 莉子は既にテンションが高く、手元の会報“特別増刊 正門編 Ver.1.3”に赤ペンの訂正を加えながら跳ねている。

 颯はペンケースを指で弾いて音を確かめている。金属の細い“ち”の音が一度だけして、止む。


「ニュース、全部“善の顔”だったね」

 澪が溜息を少し混ぜる。「“奨学金で未来を支える天御”ってテロップ……上手い」


「善の顔は、塩の表面」

 私は言う。「振り過ぎると、喉が乾く」


「比喩やめて、うん、やめなくていいわ」

 澪が笑う。笑いの輪郭は薄いけれど、温度はある。


 通り過ぎる上級生が小声で囁く。「臨界点」「筆頭」「共同研究」。

 小さな手のひらサイズの好奇と、噛み砕けない大きさの不安が、空気に一緒に混ざっている。胸の小袋は鳴らない。今は平ら。


「透花さーん! 取材、許可いります?」

 莉子が本気で訊いてくる。「会報の“読者の声”コーナー、感想ラッシュで!」


「許可いる。窓口へ」

 黒江の声が背後から落ちる。「新庄、紙はいいが、個人情報は消すこと。斎宮、今日から校内の移動、二限までは護衛二名が付く。目立たない。嫌なら外すが」


「ううん。ご飯のあとなら大丈夫」


「ご飯の前だ」

 黒江が苦笑だけ、音を残す。「……気をつけて行け」


 始業の鐘は昨日と同じ高さで鳴ったのに、教室に入る足の速さだけが一段違っていた。



Ⅱ 職員会議――檻の柔らかさ


「“共同研究”書類、二通目が届きました」


 午前の休み時間。職員会議室。角の祠に薄い花が供えられている。

 事務方が置いた封筒は、触る前から“柔らかい”。角が丸く、紙の厚みがちょうどよく、添えられたクリップが指に優しい。桂木の文言は、いつも形からして“噛みやすい”。


 御影が眼鏡を押し上げ、「語の選択が巧みね」と呟く。

 黒江は紙の端を持ち上げ、短く読む。「『任意』『尊重』『公共』『未来』『協働』『安心』……全部入ってる」


「檻だが、檻の縁に綿を巻いてある」

 灰島が腕を組む。「囲いの意図を隠していないぶん、直球より厄介だ。善の顔は、力だ」


 学園長は長い沈黙のあとで言う。「臨界点筆頭を“守る”大義と、社会を“護る”大義は衝突しうる。……我々は、斎宮透花の意思を第一に置く。書面は窓口から“引き延ばし”だ。時間をこちらの味方に」


「時間は社会のもの、だと向こうは言った」

 黒江が紙を伏せる。「なら、物語はこっちのものにする」


「どうやって?」

 御影の問いに、黒江は迷いなく答えた。


「斎宮に“日常”をさせる。食べて、学んで、笑う。その姿こそ“公共”だ。広告塔にするのは向こうの専売じゃない」


「会報の莉子ちゃん、採用ね」

 御影の口元だけが笑う。「広報部長に任命」


「ほんとに任命するのやめて」


 笑いが会議室に一度だけひろがり、すぐ引き締まる。

 窓の外、雲の縁が白く崩れて、光が薄く差し込む。紙はまだ破れていない。



Ⅲ 午前の実習――静かな呼吸、見学者の影


 結界素材学の実習室。

 和紙の束、膠のにおい、松煙墨の黒。息を合わせるだけで紙の繊維が波打つことを、昨日みんなで何度も確かめた。今日は復習。

 私は紙の端に指を置き、輪を小さく描く。川を外に敷く。紙は破れない。紙は今日も呼吸する。


 視線の端に、見学者の影。

 扉の小窓の脇に、天御鷹真が立っている。許可証を胸に、真剣な目。

 御影が気づいて小さく会釈する。鷹真も同じ角度で返す。礼法の音が目に見えるようだった。


「透花」

 澪が肩を突く。「集中して」


「してる。唐揚げの塩は、紙の上では振らない」


「それは、ありがとう」


 顕微鏡越しに見る繊維は舟の群れに似て、墨の粒は小さな石の群れに似る。

 私の中の“輪”は、喉の星。川は、舌の裏の白。今日も、変わらない。



Ⅳ 昼――庭の木陰、並走の宣言


 昼休みの庭は、光が柔らかい。

 大銀杏の木陰は、春の終わりに似合わないほど濃い影を落としている。ベンチに腰を下ろし、唐揚げ定食の蓋を開ける。塩を一振り。衣が光る。


「隣、いいか」

 影が落ちた。天御鷹真。

 距離は礼儀の三歩より少し近い。空気が揺れないぎりぎりの位置取り。


「僕は今日から正式に共同研究生だ。名目は“術式比較研究”。肝心な点を一つだけ伝える。監視ではない。並走だ」


「並走」

 私は同じ言葉を返す。

 言葉は便利だ。輪郭を一気に描ける。でも、紙の下の繊維まで描けるわけじゃない。


「超えるつもりで来た」

 鷹真は目を逸らさない。「君の“臨界点”の方式を学び、天御の方式で追い抜く」


「うん。臨界点は、食べる人が強い」


「比喩が雑だ」


「雑じゃない。唐揚げ、食べる?」


 一拍の沈黙。鷹真はわずかに視線を落とし、「いただく」と言ってひとつ摘む。

 私は塩の瓶を差し出す。「塩は持参」


「君の塩か」


「うん。颯の塩」


「謎の連帯感だな」


 並んで食べると、音がよく似る。衣の“シャッ”、肉の“じゅ”。違うのは噛む速度だけ。私は早い。鷹真は遅い。

 遠くで颯と澪と莉子が、こちらを見ている。莉子はすでに筆を走らせている。会報の“未来のライバル現る!?”の見出しが見える速度で書かれている。


「僕は、檻を作りたいわけじゃない」

 鷹真が言う。「蛇口を握りたい。世界の喉が渇いたとき、開けられる場所にいたい。……ただ、それだけだ」


「蛇口、塩を溶かす」


「君の比喩は、いつも腹が減る」


「いいこと」


 会話はそこで切れた。

 切れ味は悪くない。紙は破れない。並走は、今のところ、並走だった。



Ⅴ 午後――裏の影、路地の針


 午後の授業が終わるころ、学園の外では路地に影が濃くなっていた。

 九条直属の隠密は、制服に似た作りの“無地”のコートを着て、ケーブルの影に紛れるのが得意だ。

 彼らの手元で、小さな器具が鳴る。規格書の写しを読み込んだ、“鍵穴”のミニチュア。人一人が転ぶ程度の、微小な裂けを作れる。


「事故でいい。世論の空気だけ傾ければいい」

 声はイヤホンにだけ走る。「“学園の安全管理は脆い”と一度言わせれば、共同研究の正当性が増す」


「了解」


 器具の縁に符の切れ端が貼られる。天御の印は出さない。印は背骨にしまっておく。

 針のような裂け目は、夕方の雑踏の中で人の足元へ走る――はずだった。


「お待ち」


 石畳の先に、紺のスーツの影。

 黒江は学園の外では、よく歩く。視線だけが鋭い。「学園の外での“実験”は、申請が必要だ」


 隠密の一人が肩をすくめる。「実験じゃない。ただの風」


「風には請求書が届く」


 言葉が二度、相手の耳に届くより早く、九条からの新しい指示がイヤホンを叩く。

 撤収。

 針は回収され、陰は路地に戻る。黒江は見送らない。石畳の端を見ている。そこにほんのわずかな、規格の癖が残る。記憶のために、視線で紙に写す。



Ⅵ 夕方――寮、相部屋の呼吸


 寮の部屋。二段ベッドの上は澪、下は私。机は向かい合わせ。窓は半分だけ開けて、風鈴が“ちり”と鳴る。

 首を横に倒すと、目の端に澪のノートの背、颯から借りている塩の瓶、莉子の描いたよく似ていない私の似顔絵。


「共同研究、どうするの?」

 澪が寝転んだまま訊く。


「読む。紙、食べる。破らない。……決めるのは、ご飯のあと」


「はい出た」


「唐揚げ筋、鍛える」


「それはどうでもいい」


 二人で笑うと、部屋の空気が丸くなる。

 胸の小袋は静か。石は眠っている。眠っているときの石は、牛乳みたいに白い。



Ⅶ 夜――石の鈴、裂け目の音


 夜半、窓の向こうで雲が薄く走る。

 からん。胸の石が、三度鳴った。危険じゃない。綻び。

 私は布団から出て、窓を細く開ける。空気は冷たく、遠くの道路でタイヤが小さな音を立てる。

 結界の縁――校舎裏の小さな林のあたり。闇の“濃さ”が、昨日までと違う。面ではなく点。鍵穴の稽古。


「澪」

 小声で呼ぶと、上段のベッドからすぐ返事が降りる。「行く」


 廊下に出ると、既に颯が角から現れた。寝癖は一本、いつもの位置。莉子はスリッパで全力疾走して来て、途中で自分のスリッパを踏み、自爆しそうになったのを澪が肩で止めた。


「結界、端が“点”になってる」

 颯の声は低い。「規格書の癖がある。昼の連中の匂い」


「行く」


 四人で、夜の校舎を駆ける。非常灯の緑が床に薄く伸び、窓の外の暗さに“膜”の光が混じる。


 林の手前。

 そこに、“点”。鍵穴が、空気の厚みを一ミリだけ薄くしている。

 私の鼻の奥が、冷たくなった。


「位置固定」

 澪が札を左右の木に貼る。「透花の左右を“内向き”、敵の足元を“外向き”。すべり止め」


「援護、後衛から」

 颯が低く言い、紙に何かを描く。輪の外周を川に置く練習を、彼は紙の上でやる。実際にやるのは私。


「臨界点さま……ふぁいと……!」

 莉子は祈るより震えている。震えの回数を数える。ひと、ふた、みっ。祈りは回数だ。回数は塩に似て、効く。


 私は半歩前へ。

 胸の石は、眠りからこちらを見ている。喉の星が牛乳の白に濡れ、透明の線が指先まで満ちる。


 “点”に指を伸ばす。

 触れた瞬間、向こう側から、同じ“輪”が触れ返してきた。

 模倣。臨界点の呼吸を写した、外の輪。

 輪と輪が擦れ合うと、紙は破れる。だから、撫でる。輪の縁を川に変え、外の輪だけを残す。


「——紙、破らない」


 声に出すと、手の中の震えが言葉の形で落ちる。

 輪の縁が川になり、外の“鍵穴”はほどけて、砂。

 砂は風に乗り、夜の葉に当たって音もなく散った。


 その一瞬、向こう側にものの影。

 木札の切れ端が、裏から表に向かってこちらを覗いた。印は、薄い。だが、癖がある。

 天御の文の書き方。法務の桂木が好む“最後の助詞”。

 札はすぐ解け、闇に戻る。

 私は息を吐く。鼻の奥が温かくなって、小さく血の味がする。袖で拭う。大事ない。


「透花!」

 澪が駆け寄る。

「大丈夫」

 私は頷く。「すごく小さい“点”。訓練。……“テレビに映る事故”には足りない」


「つまり、今夜は“試し打ち”」

 颯が紙を閉じる。「鍵穴の規格合わせ。外の輪は、昨日より私たちの方式に近い」


「真似されるの、ムカつく……」

 莉子が涙目で唇を尖らせる。「臨界点さまの“紙を破らない”は、やさしさなのに!」


「やさしさは、真似できる。芯は、真似できない」


 胸の石が、からんと静かに鳴いた。

 守りは要らない。けれど、来る。鍵穴の“点”は、増える。輪の数は、増やせる。

 紙は、破らない。破らせない。撫でる。



Ⅷ 帰路――ほぐれる肩、増える選択肢


 帰る道すがら、廊下の非常灯がやけに明るく感じる。

 澪が息を整えながら言う。「透花、共同研究は“保留”で返す。こっちの研究を進めよう。臨界点の“撫で方”の言語化」


「言葉にすると、唐揚げになる」


「ならない」


「じゃあ、塩」


「……どちらでもいい」


 颯が歩きながら手帳に短く書く。“輪→川(撫で)/外輪残し→外力無害化”。

 彼の字は少し斜めで、速いのに乱れない。

 莉子は涙目のまま、でも笑っている。「会報“夜の点・撃退編”出す!」


「窓口へ」

 三人が同時に言い、四人で笑った。



Ⅸ 夜更け――黒江の報告、祠の鈴


 同じ夜、職員会議室。

 黒江が短い報告を置く。「外の路地で“針”。撤収済み。結界の“点”、小規模。癖は天御の文体に近い」


 御影が眉を寄せる。「証拠としては弱い」


「弱いからこそ使われる」

 灰島が言う。「“善の顔”は、足元を濡らさない。靴底だけ汚す」


 学園長は祠の前で一礼し、鈴を一度だけ小さく鳴らした。

「こちらも“善”で行く。善の顔は、正面に立てる。斎宮透花の日常こそが、最大の防壁だ」


「食べさせる、寝させる、笑わせる」

 御影が数える。

 黒江が頷く。「……あと、塩を用意する」


「それは、颯の担当」


 会議は短く、強く、終わった。



Ⅹ ベッドの上――牛乳の白、次の朝の味


 寮の部屋。

 ベッドに戻ると、澪が上から身を乗り出して覗き込む。「具合は?」


「平気。塩、舐めた」


「薬じゃないよ」


「薬」


「……好きにして」


 牛乳を一本、冷蔵庫から取り出す。冷たさが歯の根にしみ、喉を滑って胃に降りる。白は、夜の中で灯りになる。

 胸の石が、最後に一度だけ、からんと鳴った。来ない。今日はもう来ない。

 布団に潜り、目を閉じる。喉の星が静かに丸く、輪が私の内側で小さく畳まれる。

 鍵穴は、閉じた。

 塩は、舌の裏で解けた。


 朝になったら、唐揚げの衣が昨日より少しだけ軽い音を立てる予感がした。

 ご飯を食べて、決める。紙を破らずに。私の均衡で。


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