第5話 正門に立つ財閥

Ⅰ 朝—正門のざわめき、牛乳の白


 始業よりずっと早く、校門の前に人の壁が生まれていた。

 黒塗りの車列はまだ来ていないのに、カメラの三脚が並び、ケーブルが蛇の背骨みたいにアスファルトを這っている。マイクのスポンジが朝露を吸い、リポーターの笑顔は早くも本番の光沢をしていた。


「寄附式だって!」「テレビ来てんじゃん」「当主代行が直々にってマジ?」

「斎宮さん、映るかな」「唐揚げって言わないでね」「言うに決まってる」


 囁きは波打って、校章の入った門柱に当たって砕け、また寄せた。


 私は牛乳を飲みながら歩く。紙パックの角を指で折り、白い流れを喉に落とす。胃の底が温かくなり、胸の小袋がからんと短く鳴いた。――守りは要らない。いまは“見に行く”だけ。


「透花、待って!」

 澪が追いつき、小走りの足音が二つ、三つ重なる。颯と莉子だ。莉子は“会報・特別増刊・取材対応完全対策号(手書き)”を脇に抱え、颯はポケットに細いシルバーの万年筆を差している。


「人、多い」

 私は言う。

「今日は“人”の怪異が出る日だから」

 颯が無表情で返した。「石は鳴らないのに空気が騒ぐ。物語の発生点だ」


 校門へ伸びる道の先で、先発の報道陣がざっと動いた。空気の向きが変わる。

 黒い光沢。低いエンジン音。車列がゆっくりと角を曲がって現れた。窓は暗く、タイヤは音を立てない。前後に小型の防護車。沿道の空気が数度だけ静かになって、すぐ騒がしさを取り戻す。


 澪が私の袖を小さく引く。「深呼吸。紙、破らない」

「うん。唐揚げも崩さない」


 牛乳パックを潰し、ポケットに押し込む。胸の小袋の結び目は固く、祖父の癖は今日もほどけない。



Ⅱ 公式訪問団—善の顔、蛇口の音


 一台目の後部座席が開いた。

 天御織江。黒いスーツは濡れた墨みたいな色で、襟の白が夜明けの白に似ていた。歩幅は小さく、速度は一定。笑みは薄く、目は温度を持たない。

 横に甲賀。短い言葉の男。

 半歩後ろに九条。軍靴を履いていないのに軍靴の音がする。

 少し離れて有栖川。光を集める笑顔。

 もう一台から、若い影が降りる。天御鷹真。制服を基にした礼装。背筋は美しいが、肩のあたりにまだ年齢が残っている。

 さらに視察名目で、鳴海(財務)と西園寺(流通)、桂木(法務)が二列目に座し、降りてこそいないが、窓越しに“顔”を見せた。

 カメラの絞りが一斉に閉まり、シャッターが雨粒になって落ちる。


「本日は——」

 有栖川のトーンは柔らかい。「学園様の長年の教育・防災貢献に感謝し、寄附と奨学金、そして共同研究のご提案にまいりました」


 校門の内側から学園側が現れる。学園長の穏やかな背、御影の眼鏡の光、灰島の作務衣の襟、そして黒江。黒江は、織江の歩幅に合わせるように、半歩分だけ前に立つ。


「ようこそ」

 学園長の声は落ち着いていた。「ご厚意に感謝申し上げます。——ただし、生徒個人へのスカウト行為は校則により禁じられています。式典は校舎内の講堂で」


 有栖川は笑みを崩さず、織江が半歩だけ前に出た。

「規約は尊重いたします。私たちが願うのは“公共の備え”。臨界点の力を、社会の安定のために——」


「臨界特修は教育課程です」

 黒江の声が硬い。「備えの議論は制度で。個人ではない」


「もちろん」

 織江は頷く。完璧な角度で。「個人を尊重した上で、奨学生制度の枠をご用意しました。意志があれば、門は開いている」


 “門は開いている”。

 蛇口の比喩を、また別の言葉で言った。

 胸の石がからんと鳴る。私はひとつ瞬きをし、澪の指が私の袖をもう一度だけ引いた。



Ⅲ 群衆—物語の舞台設営


 報道エリアのラインの外、学生たちが口々に囁く。


「善い話っぽく来るなぁ」「断ったら悪者みたいになるやつ」「寄附って、いくら?」

「斎宮さん、来るかな」「来たら多分——」「唐揚げ言うよね」


 私は前に出る。

 踏み出した一歩が、舗装の表面温度を指先に伝える。吐く息はまだ白くない。

 織江の目が、静かに私を捉える。カメラが向きを変え、マイクが伸び、空気がわずかに甘くなる——香水ではなく、演出の甘さ。


「斎宮透花さん」

 有栖川が“呼ぶ声”の高さで言う。「突然ですが、お時間をいただけますか」


「うん」

 私は頷いた。「時間はある。ご飯の前だから」


 ざわめきが笑いに変わり、笑いがすぐに収束する。有栖川の頬に、ほんの一瞬、本心の笑みが走って、すぐ仕事の笑みに戻る。


「斎宮さん」

 織江が直接、口を開いた。

「あなたの力は、灯りを守り、結界を保ち、病室に安心を届ける。社会があなたを必要としている。——奨学生として、共に“未来の蛇口”を整えない?」


 蛇口。

 私の頭のどこかで、唐揚げの油がコポコポと歌い、輪島の塩が指先から落ちる映像が重なる。蛇口は水。水は塩を溶かす。

 私は首を傾げた。


「唐揚げ、ある?」


 ざわめき。

 遠くで、誰かが吹き出す。近くで、誰かが息を呑む。カメラのレンズの奥で、誰かが「最高」と呟く。

 有栖川が即座に拾う。「ええ、もちろん。学内食堂の改善にも寄附を——」


「塩は持参」

 颯が半歩出てぼそりと言い、莉子が「臨界点さまの塩は正義!」と拳を握る。

 澪は深呼吸。「透花、真面目に。言いたいこと、あるでしょ」


 私は胸の小袋を指でとんと叩く。石は鳴らない。来ない。

 喉の奥の星が、牛乳の白で丸くなっている。言葉は、輪と川のあいだに置く。


「——紙、破らない。私の紙、学園の紙、社会の紙。破らないやり方、学んでる。ご飯の前に、決めない」


 織江の睫毛が、ほんのわずか揺れた。

 黒江が息を吐く音が、すぐ横で小さく、しかし確かに聴こえた。御影の眼鏡に薄い光が走り、灰島は目を細める。


「決めるのは、あなた」

 織江はごく当たり前の声で返す。「門は開いている。今日でなくてもいい。——ただ、時間は、社会のもの」


 “ただ”。

 言葉の粒に、石粉みたいなざらつきが混ざる。鳴海が車内で書類をめくる音が、ガラス越しに薄く響いた気がした。桂木の法務文言が、まだ口にされないのに空気の端で待機している。



Ⅳ 揺らぎ—九条の影、見えない針


 群衆の端で、視界の角が黒く欠けた。

 九条の部下だ。制服も名札も完璧、立ち位置も完璧。——なのに呼吸が合っていない。

 胸の石がからんと鳴る。守りはいらない。でも、ほつれが一つ。


 地面の陰から、針みたいなモノが立ち上がった。目に見えないほど細い。カメラの足の影と、ケーブルの蛇の背骨のあいだ。微小怪異。

 演出に乗じるにはちょうどいい強度。誰かの足首に触れれば、転ぶ。ニュースの画面に、学園側の無様が映る。——物語は、針一本で転ぶ。


 私は半歩、位置をずらした。

 右の掌を、空の針に向ける。透明の線。喉の星をひとつ、舌の裏で転がす。

 針は、私の掌の川に触れて、輪の内側で見えない砂になった。

 小さな石が、掌にころんと落ちるほどでもない。粉は風に混じり、朝日に消えた。


 九条と目が合う。

 軍靴の音を履いていない男は、笑わない目で一度だけ頷いた。それは“見た”の合図であり、“今日はやめる”の合図でもあった。


 織江は一歩もこちらに視線を寄せない。善の顔は、不測の揺らぎを避ける。

 有栖川がカメラに向けて言葉を整える。「学園様のご判断を尊重いたします。寄附と奨学金、共同研究は継続協議で」



Ⅴ 対面—鷹真の挨拶、線香の匂い


 式辞が締まり、礼が交わされ、空気がいったん解ける。

 人の壁から、若い影が抜け出す。鷹真。

 彼は一礼し、私の前に立った。距離は三歩。風が袖を少しだけ膨らませ、線香の匂いがほんの短く揺れる。家の匂いだ。


「初めまして。天御鷹真。……臨界点、斎宮透花」

 名前を確認する声に、感情は乗っていない。練習された礼法の高さで音が鳴る。

「学園に戻る。共同研究の名目で。君に学ぶつもりはない。——並走する」


「並走」

 私は同じ言葉を返す。「唐揚げ、食べる?」


 鷹真の顔に、金属の細い傷みたいな影が走って、すぐ消えた。

「……食べる」


「塩は持参」


「……分かった」


 それで会話は終わった。

 けれど、終わり方がよかった。唐揚げは物語を壊さない。紙を破らない。



Ⅵ 退き際—善の顔の撤収、蛇口の余韻


 織江は取材陣に短く笑顔を向け、「今日はご挨拶まで」と締めた。

 有栖川が連続するフレーズを流し、甲賀が警備ラインを整理し、九条が“見えない軍靴”を鳴らして人の壁を滑らかに押し戻す。

 鳴海の黒いレンズが一度だけこちらに向き、西園寺の指がポケットの中で地図を畳む仕草をした。桂木は車内で文言の末尾を変える。“要請”から“照会”へ。今日は押さない。


 車列が回頭し、ゆっくりと門の外へ消える。

 報道のマイクが、学園側に向く。「学園としてのコメントは?」

 黒江は正確な角度で会釈し、「教育機関の立場から、個人の意思と校則に基づき対応します」とだけ言った。御影は一言も発さず、灰島は人の流れの端で“溜まり”を見張っていた。


 ざわめきが、人の体温に戻っていく。

 私は息を吐く。喉の星が牛乳で角を丸くし、胸の石がからんと返事をした。



Ⅶ 講堂—寄附式の影、拍手の温度


 予定どおりの寄附式は講堂で行われた。

 壇上の箱にリボン、横に立つ学園旗と小さな祠。形式は整っていて、言葉は滑らかで、拍手は規定の温度だった。

 寄附自体は善だ。善の顔は、人を助ける。私はそれを否定しない。蛇口は、喉が渇いた人のためにある。


 でも——蛇口を誰が握るか。

 それは、唐揚げの塩を誰が振るか、というくらい大事だ。塩が多ければ喉が渇くし、少なければ味が死ぬ。私は、私の塩を知っている。


 式のあと、廊下で小さな握手がいくつも生まれ、名刺が白い魚みたいに手の中を泳いだ。

 私は受け取らない。窓口を通す。黒江がそう言い、私もそう覚えた。



Ⅷ 昼—食堂の唐揚げ、塩の合図


 食堂はいつもどおり——いや、いつもより人が多かった。

 臨時メニューの黒板には白いチョークで“臨界点ランチ(試作)”の文字。唐揚げ二種、白米二山、具だくさん味噌汁、胡瓜の浅漬け、卵焼き、牛乳。

 私はトレイを受け取り、颯から塩の瓶を受け取り、いつもの一振りをした。


「美味しい」


「はい、会報“特別増刊・正門編”に追記」

 莉子がすごい速度でペンを走らせる。

 澪は笑って、でも眉の端に疲れを置いた。「朝、緊張したね」


「うん。針一本。粉にした」


「……見えてた?」


「うん。九条、見てた」


 颯が頷く。「“善の顔”の下に刃がある。今日はこちらが物語で負けなかった。唐揚げの塩、いい比喩だった」


「比喩じゃない。ご飯」


「はいはい」


 笑いが、喉の奥の緊張をほどく。

 窓の外で、雲が走り、結界の膜が柔らかく光る。紙は破れない。



Ⅸ 放課後—共同研究、規格書、小さな約束


 午後の特修は短く切り上げられ、職員室脇で黒江が紙束を持って待っていた。

 共同研究の文案。桂木の文言はベタベタに柔らかく、“任意”“尊重”“公共”“未来”。——柔らかいほど、噛むとき鋭い。


「斎宮。読む必要はない。断る権利は制度で保証する。だが、“読む”ことは食べることだ。君は食うのが得意だろう」


「うん。食べる。紙、破らない」

 紙の端に指を置く。繊維の川が脈打つ。輪の外へ漏らさない。

「——あと、これは別件」

 黒江が薄い封筒を出した。蔵王の字。

『不滅核の扱い。備忘』とだけ、表にある。私は胸の小袋を押さえ、頷く。


「守る。祟らせない」


「それでいい」



Ⅹ 屋上—夕風、次の鐘


 夕方。

 屋上の風は塩味が薄く、空の青が一段濃い。唐揚げの油は胃のなかで静かに眠り、牛乳の白は喉の奥に薄い膜を残している。


「透花、どうするの?」

 澪が聞く。質問は短い。中身は長い。

「ご飯食べて、寝て、起きて、決める」

「だと思った」


 颯は手帳を閉じた。「“規格書”の読み込みは僕がやる。君は呼吸だけ見てて。紙は破らない」


「うん」


 莉子が空に拳を突き上げる。「臨界点さま、勝つ! ご飯も勝つ! 唐揚げ筋も勝つ!」


「唐揚げ筋」

 私も拳を小さく上げる。

 胸の石がからんと鳴る。来ない。今日はもう来ない。——けれど、来る。

 次は、門の内側で。共同研究の名目で。蛇口は、こちらにもある。

 紙は破らない。輪と川。塩と油。鍵穴は、閉じるためにある。


 西の空で、結界の膜が夕日を薄く延ばした。

 鐘が一つ、遠くで鳴った。始まりの合図にも、終わりの合図にも聞こえる、いい音だった。


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