第4話 妖石と財閥

Ⅰ 朝の教室 ― 号外とざわめきと塩鮭


 始業ベルの十五分前。

 東側の窓を朝日が薄く撫で、教室の埃が金粉みたいに浮遊していた。椅子の音、紙の擦れる音、誰かの笑い、消しゴムの匂い。日常の音が層になって積み重なる。


「斎宮さん、昨日ほんとに“操り手”だったの?」

「結界、ほら、綻びたって……どんな感じだった?」

「鼻血すごかったって聞いたけど、大丈夫?」


 教卓に近い席に座った瞬間、三方向から声が飛び込んできた。見知らぬ男子が身を乗り出し、後ろの列の女子が椅子ごと近づいてくる。色の違う感情――好奇心、尊敬、嫉妬、怖れ――が、わずかな温度差をもって私の腕に触れる。


「……鮭のおにぎり、塩多めで美味しかった」


「話が急にお米に飛ぶ!」


 桜井澪が苦笑して間に入る。高い位置のポニーテールが小さく揺れた。「怖くはなかったの? ちゃんと寝られた?」


「ご飯食べて、寝た。牛乳も飲んだ」


「健康優良児みたいな返答やめて」


 教室の後ろのドアが、バンッ、と景気よく開いた。

 新庄莉子が、両腕いっぱいに紙束を抱えて雪崩れ込んでくる。表紙には墨で描いた私っぽい誰か。目が丸くて、笑っている。


「号外! 臨界点ファンクラブ会報・号外『斎宮透花 夜の守護』! 昨夜の“操り手戦”完全レポ、澪先輩監修の結界図、颯くんの核スケッチ(断片)を収録!」


「断片って言うな」

 黒鉄颯が机から顔だけ上げ、すぐまた視線をノートに落とす。ペン先が走る音は、雨が硝子に当たる音に似ていた。


「配布無料、再配布歓迎、転売禁止――」


「いや禁止って言いながら配ってるのは偉い」


「会員証は後日発行! 入会特典は“唐揚げの塩ベスト配分早見表”!」


「そんなの作ったの?」


「作った!」


 紙が空中を飛び、机の上に、小さな新聞が花びらのように散る。隅の席で、噂話の輪が新しく生まれる。


「ねえ、ほんとに一人で三体?」「いや四体って聞いた」「式神も吸ったらしいよ」「月城先輩が負けたとか」「負けてはない」「どっちでもすごくない?」


 聞こえる。けど、胸の小袋は静かだった。小袋の結び目を指先で撫でると、糸がほぐれず、しっかりした手応えを返す。祖父のやり方。結び目の向きを合わせるだけで、心臓の鼓動の数が一つ減る。


「透花」


 澪の声が近い。「今日、授業“妖石経済学”だって。御影先生が『ちゃんと現実を知ろう』って」


「うん。現実、食べる」


「食べるのは唐揚げ」


「唐揚げの現実」


「だいたい合ってるのがなんか悔しい」


 颯が小瓶を机の下から出して、無言で渡してくる。輪島の塩。瓶の口がわずかに白く曇っていて、昨日の食堂の湯気の名残がいる気がした。


「ありがとう」


「昼まで返さなくていい。午後、素材学あるだろ。塩の粒径の話、実演で使う」


「粒径」


「大事」


 騒ぎの真ん中で、始業のチャイムが鳴る。御影先生が教室に入ると、空気が薄く張り詰め、笑い声が一回り小さくなった。先生は眼鏡の奥で目を細め、教壇に置いたスライドの一枚目を指で軽く叩く。そこには太字で“妖石経済学・概論”。



Ⅱ 授業 ― 妖石の値段、蛇口の形


「今日は“妖石が社会をどう動かすか”を数字で見る」


 御影先生の声は抑揚が少ないのに、黒板の線が生き物みたいに動いていく。

 スライドには、学園内の換金フロー。持ち込み→鑑定→格付け(E〜SSS)→換金→備蓄/市場供給。

 矢印はそこで終わらない。薄いグレーで、もう一つの矢印が描かれる。“非公式ルート”。裏市場、私設鑑定、地方の商会、財閥直轄倉。


「妖石は“灯り”“結界維持”“医療”“研究”、そして“武器”。――用途が増えるほど価格は跳ね上がる」


 黒板に価格カーブが描かれる。

 E級は生活レベル。D級で町単位の需要に繋がり、C級で研究機関が買う。B級は“都市機能”に直結し、ここで一段、価格の桁が変わる。A級は“応相談”。S級以上は“備蓄専用”。教室の空気が一段重くなった。


「この階段の途中に“財閥”が座っている。彼らは備蓄と供給を担う。表向きは“公共性”の顔、裏では“価格”と“蛇口”を握る。善悪で切れる話ではなく、“構造”。ここ重要」


 教室の端で誰かが息を呑む。私の斜め前の男子が、手を挙げた。


「先生、財閥が悪いって話じゃないんですよね」


「災害時に大量の石を即座に放出できるのは財閥の倉だ。命を救う。“悪い”と切ると現実を見誤る。ただし“蛇口を握ること”が、いつでも正しいとは限らない」


 スライドが切り替わり、過去のニュース記事の見出しが並ぶ。

 ――“三○年前、妖石不足で地方都市の結界弱体化”“買い占め疑惑”“備蓄放出の遅れで停電拡大”。

 数字は冷たい。けれど、人の声が裏に重なって見える。暗がりの病室、泣きじゃくる子ども、温かい飯に伸びる手。


「もうひとつ。“噂”は市場を動かす。『斎宮透花の核は安全』という噂が走れば、どうなる?」


 澪が手を挙げる。「彼女の石だけにプレミアが乗る。安定性の買い。結果、周辺価格の歪み、買い占め、模倣、偽物、闇ルートの活性化」


「正解」

 御影先生は頷いた。「だから学園の換金所を通す。個人売買は禁止。――斎宮、聞こえてる?」


「うん。窓口。唐揚げ代」


「そこに着地するな」


 笑いが散って、先生の口元がほんの少しだけ緩んだ。だが、目は笑わない。次のスライドには、連続講義・来週:鑑定実習とあった。けれど、御影はそこで首を振り、眼鏡を押し上げる。


「前倒し。今から鑑定所へ行く。昨夜の核を提出してもらう」


 空気が一度止まって、すぐ走り出した。ざわめき、椅子の音、紙の束。

 胸の小袋が、短くひとつ、からんと鳴る。私は立ち上がった。



Ⅲ 鑑定所 ― 石が鳴らすのは貨幣か、祈りか


 中央棟の地下は、上の階より冷たく澄んでいる。石畳の廊下、灯りの膜、壁に埋め込まれた古い札。

 鑑定所の扉は厚く、金属の蝶番が深い音を出す。中は広間。壁一面に透明な箱。小瓶の中で、石たちが眠っている。


 中央の黒い天板の台に、白髪の男が座っていた。蔵王。学園の鑑定主任。

 指は短く太いが、動きは水のように滑らかだ。彼が視線だけで合図すると、周りにいた若い鑑定士たちが一歩下がった。


「斎宮透花殿。昨夜の核を」


 掌に置いた冷たさを、そのまま台に移す。鳥、犬、そして――操り手。

 蔵王のまぶたが、三つ目でわずかに震えた。

 触れた瞬間、空気が変わる。金属のスプーンで氷の表面を撫でたときに立つ、あの細い音が、喉の奥にささやく。


「…………」


 言葉が遅れてやってくる。蔵王は細いピンセットで石を回し、光にかざす。

 内部の濁り――本来なら外へ染み出すべき毒が、輪の中で閉じられていた。外側は川のように滑らかで、触れれば指先の温度に合わせてわずかに呼吸する。


「濁りを……輪に閉じ込めている。外へ漏れない。扱いやすい。だが、扱いやすさは――」


「危険」

 御影先生が低く言う。

 灰島は腕を組み、目を細める。「市場が彼女の核だけに依存する」


「価格は?」

 私は訊いた。「唐揚げ、何人前?」


 蔵王は一度目を閉じ、それから静かに答える。


「――万。万単位。国家予算に換算できる。市場に出せば、戦争が動く」


 若い鑑定士が思わず一歩下がり、小瓶が棚の中でちり、と鳴った。

 御影は顔を強張らせ、灰島が短く「備蓄」とだけ呟く。黒江は無言で、私を見る。その目は、昨日より少し疲れている。


「天御財閥から使いが来ている」

 黒江が言った。鑑定所の空気が、さらに数度下がる。


 胸の石が、薄く鳴った。からん。

 私は三つの石のうち、操り手だけを薄布に包んで胸に戻す。他の二つ――鳥と犬は、学園の保管台帳に預ける。

 蔵王が頷く。「……食べなさい。まずは食べることだ。食べて、眠る。臨界点は、飢えに弱い」


「うん。唐揚げ」


「野菜も」


「うん」


 記録のための印字音が、かさこそと長い尻尾を引く。

 私たちが扉を出るとき、蔵王が小さく呼び止めた。背中越しに聞こえた声は、祈りに近かった。


「――不滅核には触れるな。君の祖父の石だ。あれは……守り手であり、同時に、祟りだ」


「触らない。お守り」


「それでいい」


 扉が閉まり、蝶番の音が喉の奥に残った。



Ⅳ 理事会 ― 蛇口を握る手の数


 同時刻、都心。

 雲を間近に見る高さの塔。最上階の会議室は、黒檀の長卓と、床の厚い灰の絨毯、壁の木質に埋め込まれた小さな祠。鈴は鳴らないのに、風の音がする。


 天御織江――当主代行。

 首筋まで流れる黒髪、指の白さが冷たい。

 その両側に、十三の椅子。理事たちが埋める。

• 甲賀(執行役員)……短い言葉。現場、交渉、金の匂いが似合う。

• 氷室(顧問陰陽師)……白髪、氷の瞳。禁忌の番人。

• 鳴海(財務)……数字で世界を見る。眼鏡の奥が絶えず計算している。

• 西園寺(流通)……港湾・空港・トラック物流。地図の上で指を走らせる癖。

• 九条(警備)……私兵部門統括。軍靴の音を連れてくる男。

• 有栖川(広報)……文化人。言葉の刃をマスコミに預ける。

• 真壁(技術)……妖石精製・術工学。指先が常に黒い。

• 桂木(法務)……法解釈で戦う。声は穏やかだが、内容は毒。

• 宗方(海外)……外資と外交の窓口。香水が薄く香る。

• 柊(学術)……大学・研究機関の支配者。人を“データ”と呼びがち。

• 篠宮(医療)……病院網。白衣の襟が似合う。

• 天御鷹真(次世代)……織江の甥。学園に籍。若さと焦燥と自負。

• (議席補)大鳥(監査)……沈黙の観測者。


 会議室の空気が、低く波打つ。資料がめくられ、金のクリップが小さく鳴る。


「――臨界点の少女、斎宮透花。昨夜、操り手の核を石にした。しかも安全核」

 鳴海が早口で数字を置く。「C級換算で安定係数×1.8、B級で×2.4、A級相当で未知数。市場に流せば歪む。歪みは利益だ」


「囲え」

 九条が短く言う。「護衛の名で囲い、移動を制限する」


「広告塔に」

 有栖川が笑い、指先で空中に見えないフレームを作る。「『臨界点は社会の希望』。可愛い制服の写真、寄附の会見、SNSの波。好感度は盾になる」


「研究に回すべきだ」

 柊は眼鏡の位置を直し、喉を鳴らす。「核の閉鎖機構を解明すれば、精製工程に革命が起きる。人類の利益のために」


「禁忌だ」

 氷室の声は氷の縁。「不滅核に触れれば、祟りが出る。“安全”を欲しがる手ほど、死にやすい」


「法は我らの味方だ」

 桂木が穏やかに笑う。「『災害備蓄の公共性』を掲げ、学園に協力要請を出せばよい。拒めば“公共に背く”絵が描ける」


「流通は用意できる」

 西園寺が地図を広げる。「港湾、空港、陸路。蛇口を閉めたり開けたりするのは、いつもの作業」


「医療の需要は高い」

 篠宮が白衣の襟を整える。「安全核は臨床現場での事故率を大きく下げる。患者のためにも、うちに回すべきだ」


「海外は?」

 織江の視線が宗方に滑る。

「欧州の連盟が“臨界点”の噂を掴んだ。使者を送る準備。米の財団も奨学金の名で接触を試みるだろう」


 意見が、机の上でぶつかって踊った。

 そのとき、若い声が静かに割り込む。


「僕が――学園に戻る。臨界点の監視と連絡係を務める」


 鷹真の声。

 織江が横目で見た。甥の立ち姿は美しく、どこか未完成だ。氷室が数珠を転がし、九条が眉をひそめる。鳴海は計算する。柊はデータに変換する。


「“監視”では角が立ちます」桂木が言う。「“共同研究”の名目にしましょう」


「“奨学生”の枠で喰わせ、“共同研究”で囲い、護衛で縛る」

 有栖川が三拍子を小気味よく指で刻む。「心地よい檻の完成」


「檻と言うな」

 甲賀が低く唸る。「保護だ」


「言い換えは自由」

 有栖川は肩をすくめる。「見る側の物語を選ぶだけ」


 織江は視線で卓上の全員を順番になぞった。

 祠の鈴が、誰も触れていないのに、かすかに鳴る。

 彼女は、涼しい声で、結論だけを言った。


「――結論。斎宮透花を喰わせ、囲い、蛇口を天御に繋げる。

 明朝、正門へ公式訪問。寄附、奨学金、共同研究、護衛提案。善の顔で行くわ」


 誰も逆らわない。

 会議室の窓の外で、雲の影がひとつ、都市のビルの壁を撫でていった。



Ⅴ 昼の食堂 ― 塩の粒と噂の粒


 学園の食堂はいつも通り賑やかだった。いや、いつもより一段階、噂の粒が濃い。厨房の揚げ場で油が歌い、大鍋がぼこぼこ息をする。


「唐揚げ定食×2、ご飯大盛り×2、味噌汁×2。塩、貸して」


「はいよ、臨界点ちゃん」

 カウンターのおばちゃんは笑顔で、皿を次々と並べる。「今日は胡瓜の浅漬け、多めにしとく」


「うれしい」


 席に着き、颯から受け取った瓶の口をひねる。粒径は均一、少し大粒。指先でつまんで、唐揚げに雪を落とす。衣が微かに艶を増し、揚げ油の甘い香りが立つ。

 一口。衣が“シャッ”。肉が“じゅ”。塩が“きゅ”。


「美味しい」


「はい今の“名言”、会報増刊号に――」

「莉子、いったん食べる」


「はぁい!」


 窓側の席で、別のテーブルの会話が耳に入る。


「天御、来るらしいよ」「寄附って名目で」「誰が来るの?」「当主代行の織江様」「マジ、テレビ映すやつだ」「斎宮さん、スカウトされるんじゃ」

「スカウトって、就職?」「編入じゃないの? 財閥の学園へ」

「やだやだ、透花さんはこっちの人!」


 澪が箸を止め、私を見る。「……どうしたい?」


「ご飯食べてから、決める」


「うん、だと思った」


 颯が紙ナプキンに小さな図を書いた。核の輪と川、膜の縁。横に“規格書”と書いて枠で囲う。


「向こうは“規格書”を持ってる。鍵穴を設計できる術者を抱え、蛇口を握る。だから、こちらは“断る権利”の規格を作る。学園の制度で君を守る」


「制度、食べられる?」


「比喩が強引」


「でも、食べ物じゃないものを“食べる”の、わりと正しいと思う」


 澪が笑って頷いた。「透花の言葉は時々合ってる。……野菜も食べなさい」


「うん」


 胡瓜の浅漬けは冷たく、塩が穏やかだ。唐揚げの塩とは違う顔。塩にも人格がある。



Ⅵ 放課後 ― 護衛、寮、そして薄い影


 放課後、黒江が教室に現れた。スーツの皺は相変わらずなく、ネクタイの藍が少しだけ濃い。


「斎宮。今日から寮の同室管理に切り替える。澪と同室、颯は隣、莉子は向かい。護衛は見えるところと見えないところ、両方いる。面倒だが、我慢してくれ」


「うん。ご飯のあとなら、なんでもだいたい我慢できる」


「便利だな、君の哲学」


 廊下の端で、見慣れない制服の影が一瞬揺れた。立ち止まって見ると、もういなかった。気のせいのようでいて、気のせいじゃない。胸の石は鳴らない。今は来ない。


 寮の部屋に入ると、澪の布団が既に敷かれていた。枕元に小さな護符袋。窓辺に押しピンで留められた風鈴が、風もないのに“ちり”と鳴る。


「今夜は、交代で起きてる」

 澪が言う。「と言っても、本当に起きてる必要はないと思う。ただ、気持ちの問題」


「気持ちの唐揚げ」


「それは存在しない」


 笑いながら、机の上に今日のプリントを広げる。妖石の価格カーブ、備蓄のグラフ、ニュースの切り抜き。

 野菜の色鉛筆が、プリントの端に置きっぱなしになっているのが可愛かった。



Ⅶ 夜 ― 学園の屋上、風の塩


 夜になっても、屋上の風は昼と同じ方向から吹いた。

 牛乳を一本飲み、紙パックを折ってポケットに入れる。空に雲が薄く広がり、結界の膜がかすかな光を撫で付けている。


 扉が開いて、颯と莉子が出てきた。少し遅れて澪。

 四人で手すりに並ぶと、都市の明かりが遠くに散って見えた。あのうちのいくつかは、妖石の灯りだ。人が眠り、機械が息をする。


「透花、明日、天御が来る」

 澪が切り出す。「寄附と奨学金、それから“共同研究”。善の顔で」


「断れる?」

 私が訊くと、颯は頷いた。


「法的には“任意”。ただ、世論を作るのが向こうは上手い。断れば『学園は公共に背を向けた』という物語を拡散する。だから、断るなら物語で勝つ必要がある」


「物語、好き。食べられる」


「……やっぱりそうなるのか」


 莉子が拳を握る。「臨界点さまは“喰う側”! 喰われちゃダメ! 唐揚げも奪わせない!」


「奪わせない。唐揚げ筋、鍛える」


「唐揚げ筋!」


 笑い合って、それから、しばし黙る。

 風の塩味は、遠い海の味に似ていた。実際の海はここからずっと遠い。けれど、塩はいつでも、ここにある。


 胸の小袋が、からんと鳴る。守りは要らない。でも、鍵穴は増える。明日の正門、その先に、蛇口。

 私は深呼吸をして、言った。


「ご飯食べてから、決める」


「うん」

 三人の声が重なった。



Ⅷ 夜更け ― 理事会の余熱、車列の冷たい光


 夜更け。

 都心の塔では、まだ灯りが消えないフロアがある。ガラスに人影。祠の鈴が、微かに鳴って、止む。

 織江は窓に背を向け、メモに短く指示を書いた。甲賀は既に電話で幾つもの名を呼び、有栖川は明朝用の文案を三種類用意する。“寄附”“奨学金”“共同研究”。見出しは柔らかく、写真は柔らかく、笑顔は柔らかく。


 鳴海はチャートを見て指を鳴らす。

 西園寺はトラックの動線を一本、明朝のために空ける。

 九条は私兵の動きを“護衛”の名目で調整する。

桂木は文書の文言を整える。“公共”“災害”“備蓄”“善”。

 氷室は数珠を撫で、目を閉じ、祠に一礼する。

 鷹真は夜風に髪を揺らしながら、学園の空を見上げる。そこに自分の“未来”がぶら下がっていると信じたまま。


 遠くで、車列のエンジン音が整えられる。黒い塗装は夜を飲み込み、ヘッドライトは夜を切り裂くために眠っている。



Ⅸ 明け方 ― 蛇口の音、牛乳の白


 明け方、鳥より早く、遠い道路の上で音が走った。

 私はカーテンの隙間を指で広げ、空の底を少しだけ覗く。寮の廊下の非常灯が緑に光り、校門の前の道路に、まだ小さな、しかし濃い影が流れていく。


 澪が布団の中で小さく寝返りを打つ。睫毛がひとつ震え、すぐ静かになる。

 私は起き上がって、机の上のノートを開く。颯の描いた輪と川、膜の縁。御影先生の価格カーブ。蔵王の震える指。黒江の疲れた目。

 指で“輪”をなぞる。紙は破れない。私の呼吸は内側に畳む。鍵穴は、閉じる。


 牛乳を一本飲む。白が喉を落ちていく音は、世界の音が一度、小さくなる音に似ている。

 胸の石が、からんと鳴る。返事。

 ご飯を食べてから、決める。紙を破らず、塩をひとつまみ。私の均衡で、決める。


 窓の外、門の向こうで、蛇口のような音がした。金属が回り始める前の、ほんの短い予兆。

 朝は来る。

 私は制服の襟を直し、胸の小袋の紐を確かめる。結び目は固い。祖父の癖は、今日も、ほどけない。


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