第3話 結界の綻び
Ⅰ 特修の朝
朝の渡り廊下は、昨日よりも少しだけ人の気配が濃かった。
桜は花弁を減らしているのに、見る人が増えるぶん、景色が賑やかになる。ガラス窓の向こうで、剪定の終わった枝にうっすらと新芽の緑。春の終わりかけの匂いが、石畳の目地からひやりと立ちのぼっていた。
「透花、おはよう」
桜井澪が、ノートを二冊抱えて追いついてくる。髪は高めの位置で結び直され、結び目に薄い紺の紐。首元の小さな護符は、今日は桜色の紙だ。
「おはよう、澪。今日の紙、かわいい」
「色が違うと気持ちが上がるでしょ。……今日は結界実習らしいよ。御影先生のとこ」
「結界、紙、破らない」
「そう、それ。紙は破らない。覚えたね」
言いながら、澪はちらりと私の胸ポケットを見た。小袋の紐は硬く結び直してある。昨夜、結び目の向きを祖父のやり方に倣って変えた。紐の繊維が指に馴染む感触は、昔の記憶に近い。
「透花さーんっ!」
木琴みたいな甲高い声が、廊下の向こうで跳ねた。新庄莉子が小走りで迫ってくる。
名札の横に、今日もまたシールが増えていた。“臨界点FC会報 No.0 創刊準備号・本日配布”と、手書きなのにやけに堂々としたフォント。
「会報つくった! 透花さんの“名言”特集! 第一号は『紙は破らない。唐揚げも崩さない』!」
「名言……?」
「名言」
「……うん」
私が頷くと、莉子は満足げに腕を組んだ。そこへ、廊下の端から黒鉄颯が現れる。つやのない黒髪、無駄のない足取り、手には細いノートとステンレスの定規。
「朝から賑やかだな」
「颯、塩ある?」
「まだ持ってる。輪島のやつ。昼に渡す」
「うん。今日も塩」
「……授業の話をしようか」
颯が呆れ半分に笑って、首をひと振りした。前方、曲がり角の影から、黒いスーツの男が姿を現す。黒江晴臣。藍色のネクタイは皺ひとつない。彼の背後には、眼鏡の御影と、作務衣の灰島が並んでいた。
「臨界特修の初日だ」
黒江の声は、昨日より少しだけ柔らいでいる。「三名体制で見る。無理はさせない。……行こう」
私たちは頷いて、教室棟の端にある広間――特修教室へ向かった。
⸻
Ⅱ 結界実習:紙を破らず
広間の床には、すでに白い線が幾つも引かれていた。円、方形、ねじり紐の連続模様。線はチョークではなく、薄い粉を擦り込んだような艶。よく見ると、線の縁が微かに呼吸している。
御影先生が前に立つ。眼鏡の奥の瞳は、相変わらずよく走る。
「一年通常課程は“護身結界・半径一メートル”から始めるけれど、特修は別。――斎宮、まずあなたの“呼吸”を見たい」
「うん」
「ただし、“紙は破らない”。構えは軽く、指の角度は緩く、呼吸は細く」
「細く」
御影先生が白札を一枚、私に渡す。手触りの良い和紙。角が立っている。
胸の石が、からん、と短く鳴った。私は息を半分まで吸って、そこで止める。指先に空気の冷たさが集まる。
札の白が、喉の奥の星と同じ明度で揺れた。
――ふわり。
半呼吸ぶんの結界が、私の周囲に柔らかく立ち上がった。透明な膜が床を撫で、机の脚に触れて、ほどける。御影先生が頷き、灰島が目を細める。観覧に並んだ一年の生徒たちから、小さな安堵の息が漏れた。
「いい。今のは“室内用”。――では、臨界点の呼吸でやってみなさい」
御影先生の声が、少しだけ低くなる。
私は首を傾げ、「臨界点」と確認するみたいに胸の小袋に触れた。祖父の石が、温度のない温度で返事をする。
息を吸う。さっきより深く、けれど、急がない。星が喉に灯る。指先が透明の線で満たされる。
札の白が、ふっと、空に跳ねた。
――どん。
床が低く鳴って、窓ガラスがわずかにしなる。目には見えない天蓋が、校舎全体にかぶさったような気配。外の風の音が遠くなり、廊下の足音が膜に吸い込まれて小さくなる。
「待て、広がり過ぎ――」
灰島の声が鋭く跳ね、御影が手を伸ばす。黒江も一歩踏み出し、私を見る。
私は「うん」と頷き、吸った息をそのまま“置く”みたいに胸に戻した。
膜は、花びらが散るみたいに静かに解け、白線の上だけに残って、やがて消えた。
しばらく、誰も声を出さなかった。
最初に息を吐いたのは、御影先生だ。
「……“紙を破らずに”ここまで行くのは、どうやっても教わるものじゃないのよね」
「生まれつき、だろうな」
灰島が腕を組む。「だが、今のでもう十分分かった。臨界点の呼吸は、外側ではなく内側に“畳む”方向に働く。紙の繊維が切れない理由だ」
黒江は私と目を合わせ、ほんの少しだけ口角を上げた。
「斎宮。今の“全域呼吸”は、要請があるまで禁止だ。学園の結界と干渉する」
「禁止。うん。ご飯のあと」
「今は授業中だ」
観覧席の一年生に笑いが広がる。緊張が解ける音が、床の木目に落ちる。
「次は通常課題。半径一メートルの“護身ひと張り”。――一年生、列になって。順番にやってみなさい。斎宮は見学、もしくは“補助側”に回る」
御影先生の指示に、前列の生徒が震える指で札を受け取った。
ひとり、ふたり――呼吸が上擦り、線が紙の中で暴れて、護符は途中で死ぬ。御影先生は叱らず、穂先の角度と呼吸のタイミングを短く直す。三人目はうまくいった。半径一メートルの膜が、教室の光を柔らかく歪ませる。周囲から小さな拍手。
「透花、補助側、入れる?」
澪が視線だけで問いかけてきた。
私は頷き、一歩下がって生徒の背中側に立つ。背中の呼吸に合わせて、胸の小袋を指先で叩く。石が、からり、と軽く鳴る。
「だいじょうぶ」
補助の呼吸は、吸うのではなく“揃える”。
生徒の肩が一度上がったときに、私は息を半分だけ吸った。紙の繊維が、破れないラインで閉じる。膜が張った。
振り返った一年生の目が、驚きで丸くなる。私が笑うと、彼も笑った。
「できた……」
「できた。唐揚げ半分」
「半分!? ……え、あ、うん」
観覧席でまた笑いが起きた。
御影先生の眼鏡の奥が柔らかくなる。灰島は、口元だけで小さく笑った。
⸻
Ⅲ 昼の食堂:会報創刊と塩
実習のあとは、食堂が私たちの教室だ。
厨房の奥では大鍋が唸り、揚げ場では油が喜々として跳ねる。カウンターの上の木札は、朝見たのと同じ配列。けれど、昼には昼の“匂いの重さ”がある。炊きたての米の湯気、味噌の香り、醤油の焦げる甘さ。
「唐揚げ定食×2、ご飯大盛り×2、味噌汁×2。……塩、貸して」
「ほい」
颯がポケットから小瓶を取り出す。輪島の塩。粒が大きい。ひとつまみを指に乗せ、唐揚げの上に雪みたいに落とす。衣の角が光る。
噛めば、油の甘みが塩に引き締められて、舌の上で“決まる”。私はおもわず目を細めた。
「美味しい」
「はい、ここで“名言”一ついただいた!」
莉子が机に小冊子を広げる。会報準備号。表紙には墨で描いた私っぽい“誰か”。似ているような、似ていないような。
「内容は、“臨界点講座・入門編”“唐揚げの塩は何グラムか問題”“昨日の模擬戦・観戦記”……」
「観戦記?」
「うん。『月城先輩の黒影核、あれは恋のはじまりのように――』」
「莉子、それは違うジャンルだ」
「え、違う? でも、黒影が吸い込まれていく感じ、恋の――」
「違う」
澪が真顔で制止し、颯がこめかみを押さえる。
私は笑いながら、ご飯を一口。味噌汁を二口。唐揚げを一つ。
周囲のテーブルでも、昨日の模擬戦の話題が出ていた。「式神を石にした」「核の糸が綺麗だった」「月城先輩、本気出してなかった?」――好き勝手な推測が飛び、やがて「今日の結界実習、斎宮が校舎を包んだって本当?」に移っていく。
私は耳で聞き、口で食べ、胸の石の静けさで今日の空気を測る。石は鳴らない。昼のうちは、大丈夫だ。
「午後は理科室で“結界素材学”らしいよ」
澪がメモ帳をめくる。「塩の比重、紙の繊維、墨の炊き方。……透花、絶対好き」
「塩、好き」
「学問として、ね?」
「学問の塩」
「そう、それ」
莉子が会報に“学問の塩”と書き足し、ハートを三つも飛ばして先生に見つかって没収されかけ、澪が救い出した。
颯は、私の唐揚げ一つに塩の粒の分布をメモし始めた。研究熱心すぎる。
⸻
Ⅳ 午後の素材学:紙と墨の呼吸
理科室――と呼ぶには、どこか寺の納戸めいた部屋。
棚には和紙の束、糊、松煙墨、膠の瓶、白い砂。窓辺にハゼの実。床には小さな秤が四台。御影先生が嬉しそうに腕まくりしている。
「護符は紙に術を書くんじゃない、“通す”。そのために、紙と墨が人間の呼吸と同じ速度で動く必要がある。……今日は、そこだけ覚えて帰りなさい」
紙の繊維を顕微鏡で覗く。木の川のように細い筋が、向きを変えながら重なっている。
墨は黒い液体ではなく、粒の集まり。粒が呼吸を吸って膨らみ、吐いてしぼむ。紙の川に墨の粒を流し込むと、粒が川の向きに沿って整列する。
私は、紙の上に自分の呼吸を置く。墨はその呼吸を“食べる”。食べるものは、食べ物だけじゃない。学問も食べる。紙も食べる。食べると、からだの中が静かになる。
「透花、いい顔してる」
澪が小声で笑う。
颯は顕微鏡を奪うように覗き込み、「核の糸と同じ……いや逆だ」と呟いた。「核は“外へ漏らさない輪”。紙墨は“外と揃えるための川”。対称的」
「輪と川」
「そう」
「唐揚げは?」
「食堂に行け」
御影先生が黒板に“輪/川/呼吸”と三つだけ書いて授業を締めた。
午後の日差しは、理科室の窓で柔らかく分解され、机の上に明るい筋をいくつも作る。私の胸の石は、まだ鳴らない。
⸻
Ⅴ 夕暮れ:静けさの縁
寮の前の道は、夕方の匂いがする。洗濯物の柔軟剤、土の湿り、遠くで揚がるコロッケの油。
屋上に上がると、校庭の端の桜が薄いオレンジの空に細かい影を描いていた。風見の小さな鏡に夕日が跳ね、数秒だけ私の目を刺す。
牛乳を一本飲んで、紙パックを折り、胸の小袋の紐を確かめる。指先に馴染む結び目。祖父の手の癖。
――からん。
石が、ひとつだけ、風に挨拶するみたいに鳴いた。
夜は、ゆっくりやってきた。
廊下の灯が点り、食堂の閉店を知らせるベルが鳴る。寮の部屋に戻ってノートを開き、昼に書いた“輪/川/呼吸”の三語を眺める。
そのときだ。
胸の奥で、石が短く三回、鳴った。からん、からん、からん。
“危険”の合図ではない。けれど、“綻び”が近いときの合図。
「……鍵穴」
口の中に出して言ってみる。
窓を開けると、夜の空気が薄い冷たさで入ってきた。校舎の外周、結界の縁。その向こうに、黒い影がじわりと濃くなっている。
学園の結界は完全だ。昼の御影の話では、外側からの圧力は鈍くなるように張ってある。押してくる力は面で受ける。だから、抜けにくい。
なのに、影は“面”ではなく“点”で滲もうとしている。鍵穴をこじ開けるみたいに。
私はドアを開け、廊下へ出た。
同時に、反対側の部屋のドアが開いて、澪が顔を出す。手には護符、肩には薄いカーディガン。
「透花?」
「鍵穴、壊れてる」
「……やっぱり。私も、さっき護符がざわついて」
向こうから、莉子がスリッパで全力疾走してくる。「透花さん、非常ベル鳴ってないけど、鳴らす?」
颯も現れた。寝ぐせが一本、綺麗に跳ねている。「結界の縁を見に行こう。先生には連絡した。黒江さんが来るまで、時間がある」
「行く」
四人で、夜の校舎を駆けた。
非常灯の緑が足元で揺れ、長い廊下は自分の呼吸をよく響かせる。足音が石に吸われ、窓の外で夜風が低く鳴った。
⸻
Ⅵ 夜襲:群れと操り手
結界の縁は、校舎裏の小さな林の手前にある。
昼間は鳥がうるさくて落ち着かない場所だが、夜は鳥が一斉に黙り、葉の裏で虫が囁く。
そこに、“点”があった。
夜に穴を開けて覗いているみたいな、黒い一点。見ていると目が痛む。穴は大きくなろうとしている。
穴の縁から、最初の“影”が溢れた。犬と狐の中間のような形。尾が二本、口が裂け、舌がない。二体、三体。
私は歩み出る。鼻の奥が少し冷たくなった。喉の星が光る。
右手を差し出す。透明の線。吸う。固める。石がひとつ、掌に転がる。
二体目。三体目。――数が多い。
澪が護符を構え、左右の木に札を貼る。「透花の左右、二歩分に“内向き”。敵の足元は“外向き”。すべり止め!」
地面の葉が、札の呼吸に合わせてざらりと沈む。滑らない。足元が強くなる。
颯が背中に張り付くように位置を取り、低い声で言う。「右上、枝の陰。影が一枚厚い」
そこから、別の“形”が落ちた。
人の形。輪郭が濃い。顔の位置がはっきりしている。目の空洞。口の切れ込み。髪らしきものが風に揺れて、地面に届く寸前に消える。
“操り手”。
背後の群れの足が、一瞬で揃った。“揃える者”が出た群れは、ただの数の暴力ではなくなる。リズムを持つ。呼吸を持つ。こちらの呼吸を崩しにくる。
「透花、前に立つな!」
颯の声。
私は前に立つ。鼻血が垂れた。舌に鉄の匂い。
胸の石が、ばち、と小さく弾ける。膜が一枚、皮膚の表面に張られる。祖父の掌の温度。
群れが一斉に踏み込む。澪の札が光り、地面の葉が粘り、影の足が取られる。
私は右から二体、左から一体、正面から一体を、順に吸う。喉の星が四つ。目の前が少し白くなる。
莉子の声が、震えて、それでも高い。「頑張れ……頑張れぇ……! 臨界点さま……っ!」
「莉子、息を整えて」
澪の声が、違う意味で切迫している。「祈りは“音”より“回数”。呼吸で数えて」
「ひと、ふた、みっ……」
操り手が、手を横に払った。
群れの動きが一瞬止まり、次に、全員が“同じ方向”へ重心を移した。私の左足。
私は、半歩ずれる。札の粘りが、左足の裏でうまく仕事をする。
操り手の目の穴が、わずかに狭まった。
私は笑う。
操り手の“呼吸”が見える。核の位置が、胸ではなく、喉にある。喉の星と同じ高さ。そこから群れの“糸”が出て、地表に走っている。
私は一歩進む。
操り手が影を濃くして、喉を守ろうとする。守るなら、そこが核だ。
右手を上げる。
透明の線。喉の星。
操り手の喉に触れた瞬間、膜が外側から圧をかけてきた。核を守る“膜”。
私は、膜の縁を指先で“撫でる”。紙を破らないやり方。輪ではなく、川で。
膜が流れて、核が露出する。
吸う。
光。
掌に、小石がひとつ。黒に近い灰色。内部に濃い糸が渦を巻いて、しかし外へ漏れない。閉じた核。
操り手の体が、すっと解けて、夜風に混じった。残った群れは、糸を失って散り、半分は自壊し、半分は私の指先で石に変わった。
静かになった。
澪が、息を吐く。札が役目を終えて、落ちる音が乾いた。
莉子がその場にへたり込み、「臨界点さま、推せる……」と泣き笑いで呟く。
颯は、私の掌の石を凝視して、低く呟いた。
「操り手の核……“濁り”があるのに、輪で閉じてる。普通なら漏れ続けるはずなのに。……斎宮、お前、今、膜を“撫でた”な」
「うん。紙、破らない」
「膜の外周を川にして、内側の輪だけ残した。……臨界点の置換、教科書に載せたい」
「載せる?」
「倫理委員会に怒られる」
颯が溜息をついたところで、林の奥から懐中電灯の光。黒江と、警備担当の職員が数名。御影と灰島も後れて到着した。
黒江の光が、地面の石と札の名残と、私の掌と鼻血の跡を順に撫でた。彼は短く息を吸い、吐いた。
「怪我は」
「出血。止まる。ご飯で治る」
「……よし」
御影は操り手の消えた空間を観察し、灰島は結界の縁の“点”をじっと見た。点はまだそこにある。小さく、固い。
「穴を開けられた、というより、“鍵穴を作られた”」
灰島が低く言う。「外からの圧ではなく、内と外の“規格”を合わせに来ている。……誰だ」
「裏で鍵を売る連中の匂いがします」
御影が眼鏡を押し上げる。「術式に“規格書”の手触りがある。雑な暴力ではなく、設計」
「鍵の設計」
私は呟く。「鍵穴が、増える?」
「増やされる前に塞ぐ」
黒江が短く言い、携行の札を二枚、結界の縁に重ねた。「今夜はここを倍の厚みで巻く。……斎宮、よくやった。残りは我々で」
「ご飯」
「食べて寝ろ」
「うん」
⸻
Ⅶ 夜更け:塩と星
寮に戻る途中、食堂の裏口に灯りが残っていた。
片付け中のおばちゃんが私を見て、手を振る。「はいはい、臨界点ちゃん。夜食はダメって言ったのに……まあ、今日だけ特別。おにぎり二つ、鮭と梅。塩はきつめ」
「ありがとう」
ラップの内側の塩が、米の湯気でちょっとだけ溶けて、指先にくっつく。私は廊下の端でひとつ頬張り、目を閉じた。
舌の上に“静けさ”が戻ってくる。
部屋に戻ると、莉子がメッセージを送ってきた。“会報号外:臨界点さま、夜の守護”。絵文字の雨。
澪は“護符の折り方、明日練習しよう”と短いメッセージ。
颯は“核スケッチ、明日見せる”とだけ。
私は“唐揚げ”と返す。既読が一気に三つついた。
布団に潜り、胸の小袋を撫でる。
祖父の石は、今日も不滅だ。
目を閉じると、喉の奥の星が、塩の粒と同じ形で、ゆっくり冷えていく。
⸻
Ⅷ 翌朝:教員会議と裏の影
朝、講堂の控室。
黒江、御影、灰島に、学園長代理の男が加わっていた。細い顎、銀の縁の眼鏡。壁には、学園の古い地図。結界の層が、年ごとに重ねられている。
「昨夜の“鍵穴”は一つ。術式痕から見て、外部の“規格屋”の仕事だ」
御影が印刷を配る。「設計された鍵穴。臨界点の呼吸に似せた“輪”と“川”の重ね。……模倣に近い」
「臨界点を“規格化”している」
灰島が言う。「斎宮の呼吸を、外部が手に入れている。誰が」
「——連合の流通派か、財閥の研究部門か、あるいは“鍵売り”」
黒江は名を出さない。「いずれにせよ、“利権”が動いている。彼らは“鍵穴”の出入りを設計し、石に換える流れを支配したい」
「しかし、斎宮透花がいる限り、学園は守られる」
学園長代理が淡々と告げる。「昨夜の対処は見事だった。彼女を中心に、結界運用の再設計を行う」
「“中心”に置きすぎるな」
灰島の声が低く尖った。「子どもだ。紙を破らず通せるからこそ、紙を破らせるな」
「理解している。……黒江、窓口の監視を強化しろ。斎宮の石は“安全”だという噂が市場に走っている。価格が上がる。スカウトが来る」
「もう来ている」
黒江は短く答えた。「門前に。名乗らない連中も」
「排除か」
「合法の範囲で。だが、いずれ正面から来る」
会議は、静かに、しかし明確に“戦時”の空気で終わった。
⸻
Ⅸ 朝の食堂:新作と笑顔
私はそのころ、食堂のカウンターでおばちゃんと新作メニューを見ていた。
木札に“臨界点ランチ(試作)”と書かれている。内容は、唐揚げ二種(塩/生姜)、白米二山、具だくさん味噌汁、胡瓜の浅漬け、卵焼き、そして牛乳。値段は……まあ、そこは窓口でなんとかする。
「これ、名前、恥ずかしい」
「皆が呼ぶのよ。だったら堂々と出すほうが、変な噂も消える」
「変な噂?」
「“斎宮ちゃんは食べると世界が揺れる”とかね」
「揺れない。揺れても、紙、破らない」
「そうそう」
おばちゃんは笑い、皿をカウンターに並べた。
澪、莉子、颯が合流する。澪はすでにノートを開いて“昨夜の配置図”を書いている。莉子は会報“号外号外”。颯は塩をテーブルに置く。
「透花」
「うん」
「昨日の“撫でる”やり方、もう一回、言語化しておいて。覚えているうちに」
「輪と川。膜の縁を川にする。輪は残す。紙は破らない」
「十分だ」
颯がノートに走り書きする。
澪は、私の皿に胡瓜の浅漬けを一つ乗せ、「塩分の偏りはよくないからね」と笑う。
莉子は真剣な顔で両手を合わせ、「臨界点様、いただきます」と拝んでから、自分のパンを齧る。
私は、唐揚げに塩をひとつまみ。
噛む。
世界は、少しだけ、私の均衡に近づく。
紙を破らず、鍵穴を塞ぎ、呼吸を整える。それができるのなら、私は今日も、食べて、笑って、戦う。
――そして、たぶん。
門の外では、もう、誰かがこちらを見ている。黒いスーツか、白い手袋か、古びた札か。
何が来ても、私の返事は変わらない。
ご飯、食べる? それとも先に、紙を通す?
胸の石が、からん、と心地よく鳴った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます