木の船は乾かない
古道具屋の奥で、その船はガラスのケースから半ばこぼれ落ちていた。帆は色あせ、糸は毛羽立ち、甲板の手すりは指で撫でたように艶がある。手に取ると、乾いた木のはずなのに、指先にかすかな湿り気が移った。潮とピッチの匂いが鼻の奥に残る。銅板の小さな名札には、乱れた筆記体で「戻り舟」と彫られていた。
その夜、机の隅に置いた模型から、きい、と艀のような小さな軋みがした。風はなかった。窓は閉めていた。耳を澄ますと、机の上で砂を撫でるような、さらさらという音が続いている。翌朝、船の周りに白い粉が薄く散っていた。舐める勇気はなかったが、見た目は塩にしか見えなかった。
三日目、甲板に灰色の点々が増えた。埃だと思ったが、綿棒で払うと、点はわずかに爪の形をしていた。人差し指の先ほどの跡が、舷側に沿って並んでいる。誰かが夜の間に甲板を歩いたのだとしたら、その誰かはつまようじより細い。
週末、ケースの台座を外してみた。裏に浅い引き出しが隠れていて、そこに折りたたまれた紙切れが五枚、古い名刺ほどの大きさで入っていた。紙は潮気でたわみ、インクは薄青く広がっている。一枚ずつ開く。小さな文字で、名前が一つずつ書かれていた。姓と名の間に、わずかな空白。どれもどこかで聞いたことのあるような、しかし思い出せない名前だった。最後の一枚だけ、空白のままだった。
名札の「戻り舟」が気になって、私は船体を詳しく観察した。船腹の板は微妙に色が違う。灰に近い木、茶に寄る木、黒ずんだ木。継ぎ目には細い繊維が挟まっていて、引き抜くと、髪の毛のようにしなった。船首の下、ひび割れに指を当てると、冷たかった。木目は海面の波に似ていて、指先を滑らせると、遠くから寄せる水音が喉の奥に滲み込んでくる。
その夜は雨だった。屋根を打つ音に紛れて、机の上で帆が鳴った。起き上がると、部屋の空気が塩辛い。カーテンの裾が湿って重くなっている。模型の甲板は光っていた。濡れている。私は思わず帆柱に息を吹きかけた。薄布がふわりと膨らみ、その影の中で、何かが走った。小さな足音。甲板の蓋が、音もなく開いて閉じた。
翌朝、新聞受けに見慣れないチラシが入っていた。近くの小学校の校章。見出しは「行方不明の児童を探しています」。写真の下の名前を、私はどこかで見たことがあった。思い出すのに半日かかった。引き出しの紙切れだ。五枚のうちの最初の一枚に書かれていた名前と同じだった。
私は仕事の帰りに古道具屋へ行った。店主は無口で、いつも爪の間に黒いものを溜めている。私は「戻り舟」の出所を訊いた。彼はしばらく考えてから、湿った声で言った。港の解体屋が持ち込んだそうだ。古い漁船を潰したときに、棺のように抱えられて出てきた、と。作ったのは、港の片隅に住んでいた偏屈な男で、実物の船の板を切って模型にしたらしい。「戻ってきますように」とぶつぶつ言いながら、夜通し釘を打っていたという。
帰る途中、雨は止んだのに、靴はいつまでも乾かなかった。部屋に戻ると、甲板の手すりに小さな布が括られていた。糸で裂いた端切れだ。色は私の持っているシャツと同じだった。昨夜、破れを見つけた胸ポケット。笑い話にするには、布の結び目があまりに丁寧すぎた。
引き出しの最後の空白が気になった。私は鋭い鉛筆を探し、机に座った。誰の名前を書けばいいのか。行方不明の子の名前を埋めるのは違う気がした。私は紙をしばらく見つめ、やがて自分の名前を書いた。書いた瞬間、部屋のどこかで薄い紙が吸い込まれるような音がした。風もないのに、帆がわずかに張り、船首が東を向いた。
その夜、私は夢を見た。私は背丈の合わない甲板に立っていた。足元の板は柔らかく、踏むたびに水が滲む。手すりの向こうに、暗い海。音はしないのに、海は確かにそこにある。帆の影の中から、擦れた声がした。「乗せて」。振り向くと、甲板の蓋が開き、小さな階段が続いている。階段を降りると、船腹の中は木の匂いで満ちていた。誰かが長い時間、祈り続けたあとに残る静けさ。そこに五枚の札が吊られていた。最初の四枚には、あの名前たち。最後の一枚に、私の字。札は風もないのに揺れている。私が手を伸ばすと、揺れは止まり、甲板の上でポツン、と塩がはぜた。
目が覚めると、枕が湿っていた。窓は曇り、カーテンの下から、細い水の筋が床を走っている。机に近づくと、模型の周りの白い粉が消えていた。代わりに、机の天板に細い線が刻まれている。港の地図のような線。辿ると、私の住む町から海へ出る道が、正確に描かれていた。海の上には、小さな孤島のような点がいくつも浮かんでいる。点は、読み上げれば名前になりそうな配置で並んでいる。
私は地図の上に指を置いた。たちまち冷たさが皮膚に吸い込まれ、爪の白い半月が青くなる。甲板から足音。顔を上げると、手すりに五つの影が並んでいた。指ほどの影。影は頭を下げ、同じ動きで手を上げた。敬礼のような仕草。私は頷いた。影たちは一斉に甲板の蓋へ駆け、消えた。帆が鳴った。小さな風が、部屋の隅に溜まった埃を巻き上げた。
その日から、帰宅すると机の上にはいつも、濡れた輪が一つ残っていた。コップを置いたわけではない輪。うっすらと塩が縁に固まっている。輪は毎日少しずつ位置を変え、やがて窓辺へ寄っていった。私は窓を開けないまま、夜ごとに帆に息を吹いた。帆は静かに膨らみ、縮んだ。ある夜、帆は戻らなかった。膨らんだまま、ぴんと張り詰め、室内の空気が海に似た重さを帯びた。
台風が近づいた日の夜、私は模型を抱えて窓辺に立った。外は白く煙り、電線が唸る。窓ガラスを叩く雨粒が、甲板に跳ね返っては消えた。私は窓を少しだけ開けた。海の匂いが一気に入り込み、部屋の色が薄くなる。私は模型を窓の桟に置いた。帆は雨に濡れず、影だけが濃くなった。耳を澄ますと、遠くで汽笛が鳴った。港まで歩けば一時間はかかる。こんな夜に船が出るものか、と私は思った。汽笛はもう一度、短く鳴った。返事を求めるような音だった。
私は引き出しから、あの札を取り出した。自分の名前の書かれた札は、最初よりも濃く、わずかに滲んでいた。私はそれを甲板の蓋の隙間に差し込んだ。札は吸い込まれるように消え、代わりに甲板が温かくなった。帆が震え、船首がさらに東へ向いた。手すりの影に、小さな手がいくつも重なった。私は窓をもう少し開けた。風が部屋を通り抜け、紙の音がした。どこかで名前を呼ぶ声がした。はっきりとは聞き取れない。誰かの、そして私の名前だった。
翌朝、雨は嘘のように上がっていた。窓辺の桟には、水の輪が二つ、並んで乾きかけていた。机の上の地図の線は消え、代わりに、船の名札の文字が少し変わっていた。「戻り舟」の「り」の曲がりが深くなり、まるで何かを抱え込む腕のように見えた。甲板は乾いていたが、手すりの一部だけ、指で触れると冷たく湿っていた。そこに細い傷が四本、刻まれている。爪の幅。私は自分の手の甲を見た。同じ場所に、いつつの小さな白い線が並んでいた。掻いた覚えはない。
その日の夕方、古道具屋の前を通ると、店主が店先で濡れた木箱を拭いていた。「この前の船、まだあるか」と訊くと、彼は首を傾げた。「あんた、何を言ってる。そんなもの、うちは売ってないよ」。私は笑って誤魔化した。彼の肩越しに店の奥を覗くと、空のガラスケースが一つ、埃を吸っていた。台座の跡だけが濃い色で残り、細い塩の輪がその周りに白く縁取られていた。
帰り道、海の方向からひとつ、短い汽笛が聞こえた。風はなかった。空は高く、雲は千切れていた。夜になっても、机の上に輪は現れなかった。帆は静かに垂れ、影は薄い。窓を閉める前、私は模型の名札を指でなぞった。木は冷たく、わずかに湿っていた。乾くことのない木。耳元で、小さな足音がしたような気がした。
私は明かりを落とし、ベッドに横になった。まぶたを閉じると、波打ち際の砂粒が踵に触れる感触があった。遠くで、もう一度だけ、汽笛。返事をするように、私は息を吸った。帆は見えないところで、きっと、少しだけ膨らんだ。木は、まだ乾いていない。
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