ビニール袋
――最初にそれを拾ったのは、通勤途中だった。
駅へ向かう細い路地。まだ朝日が斜めに差し込む時間帯、電柱の陰にしわくちゃになった白いビニール袋が落ちていた。スーパーの名前も書かれていない無地の袋で、口の部分は風にふわりと揺れている。
普通なら気にも留めなかっただろう。だがそのときは、妙に視線が吸い寄せられてしまった。袋の口が開いた瞬間、そこからじっとこちらを覗いているような、暗い穴のような感覚があったのだ。
鳥肌が立ち、足を速めた。
会社につけば忘れると思っていた。けれどデスクに座っても、あの白い袋が視界の隅にちらつく。紙コップの淵、電話の受話器の影、PCの黒い画面。どこかにあの袋がぶら下がっている気がしてならなかった。
帰り道。
朝の路地を通ると、やはり同じ場所に袋があった。風に乗って、こちらに近づいてくる。慌てて足を踏み出したが、タイミングを合わせたように袋が地面を滑り、靴に触れた。
カサ、と鳴った音はただのビニールの音。しかしその刹那、耳元で「見てる」と囁かれたように感じた。
振り返っても誰もいない。袋は電柱に絡みつき、くちゃくちゃにしわが寄っているだけだった。
その夜、夢に出た。
部屋の中に白いビニール袋がひとつ落ちている。窓もドアも閉めているのに、袋はふわりと浮き上がり、膨らんでいく。やがて中に何かが詰まっていくように形が変わり、人の頭ほどの丸みを帯びた。
袋の口が大きく開いた。中は真っ黒な空洞で、そこから低い声が漏れる。
――見てる。
飛び起きたときには汗でシーツが湿っていた。
翌朝。恐る恐る路地を覗いたが、袋はなくなっていた。胸をなでおろしたのも束の間、会社の休憩室に入った瞬間、給湯器の横にそれがあった。
くしゃくしゃの白いビニール袋。
なぜここに? 社員の誰かが捨て忘れた? そう思いながらも手が伸びない。袋がぴたりとこちらを向いているように思えた。
同僚が何気なく拾い、ゴミ箱に投げ込んだ。
その動作が終わると同時に、彼女の顔から表情が消えた。無言で席に戻り、その日一日、どんな話しかけにも反応しなかった。
翌日、彼女は欠勤した。二日後も。結局、彼女は会社に戻らなかった。
日を追うごとに袋は現れる。通勤路、会社の机の下、エレベーターの隅、果ては帰宅した自室のベランダにも。
見つけた瞬間、心臓が鷲掴みにされたように苦しくなる。袋のしわが目や口のように歪み、わずかに膨らんで動くように見える。
無視すればいい。だが無視できない。視線を逸らすと、背後から「見てる」という囁きが迫る。振り向けば、やはり袋がある。
ある晩、思い切って火を点けた。ライターを近づけると、袋は確かに溶け、焦げ臭い煙を上げた。黒く縮み、跡形もなくなるはずだった。
しかし翌朝、玄関を開けると、焼け焦げた同じ袋が敷居の上に置かれていた。
精神的に追い詰められていった。寝不足が続き、出社すれば同僚から「顔色が悪い」と言われる。鏡を見ると目の下には濃い隈ができ、頬はこけていた。
あるとき思い出した。最初に袋を見た路地。あそこは数年前、近所で変死事件があった場所だったはずだ。若い母親が幼い子供を連れ、心中を図った。子供は袋を被せられて窒息死、母親も同じ袋で顔を覆って倒れていた――新聞記事を読んだ記憶がよみがえる。
背筋が凍った。
あの袋は、そのときの……?
答えを確かめる勇気はなかった。
しかし袋は確実に近づいてくる。夜ごと夢に現れ、膨らんで顔の形を作る。しわが目と口になり、真っ黒な穴がこちらを見つめる。
――代わりを。
そう聞こえた。
私は理解した。袋は新しい「中身」を欲している。見つめ続けられた人間は、やがて中に取り込まれる。あの同僚もそうして消えたのだ。
もう逃げられない。
今日、私は決意した。会社の帰り、電車を降り、コンビニの袋をいくつも手にぶら下げた。中身は飲み物やお菓子。家に帰るふりをして、人気のない路地に足を向ける。
そこにいた。しわくちゃの袋が風に揺れ、待っていた。
私はコンビニ袋を地面に広げる。ひとつひとつ、無造作に投げ捨てる。袋は袋を呼ぶだろうか。いや、違う。あれが欲しいのは“人”だ。
背後で足音がした。振り返ると、通りすがりの学生がいた。スマホを見ながら歩いてくる。
私は心臓が潰れそうになった。
――代わりを。
袋が揺れる。私は一歩、横へ避けた。
次の瞬間、風が強く吹き、袋が学生の足元に絡みついた。驚いた声が上がり、彼はつまずき、倒れる。
袋は顔に貼りついた。もがく彼を、私はただ見ていた。
耳元で囁きが消えた。胸の圧迫感が抜け、全身が軽くなる。
その夜、ぐっすり眠れた。夢も見なかった。
翌朝、通勤路の路地を通っても、袋はなかった。
会社に着くと、誰も気づいていないように日常が続いている。ニュースにも何も出ていない。学生のことは「なかったこと」になったのかもしれない。
私は平穏を取り戻した……はずだった。
だが今日、オフィスの自分の席に座った瞬間、引き出しの中からカサリと音がした。恐る恐る開けると、白いビニール袋が一枚、丁寧に折り畳まれて入っていた。
しわの形が、まるで笑っているようだった。
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