十字の沈黙
少年は夜ごと、胸を押し潰されるような夢を見る。
夢の中で彼は、大勢の人々に囲まれていた。幼子を抱いた母が泣きながらひれ伏し、老人が震える手で十字を切る。その視線のすべてが、自分ひとりに注がれている。彼らは声をそろえて叫ぶ。
「救ってくれ」「導いてくれ」「あなたこそ神の子だ」
だが、夢の中の少年は声を失っていた。喉が凍りついたように言葉が出ず、ただ冷たい汗が背を伝う。目を覚ませば、胸の奥に残るのはひとつの問い。
——私は本当に、神の子なのか。
彼はまだ十代の若者にすぎなかった。刀を握った経験も乏しく、ただ信仰の言葉を知っているにすぎない。だが人々は彼に奇跡を求めた。米が育たない痩せた土地で、年貢に苦しみ、祈りのほかに支えを持たぬ人々にとって、彼の存在は一縷の光だった。
昼は戦場に立ち、兵を鼓舞する。震える声を奮い立たせ、言葉に力を込める。自分でも信じ切れぬ未来を、「必ず救われる」と宣言する。
夜は天を仰ぎ、唇を噛みしめる。血に濡れた土と泣き叫ぶ声が、胸を切り裂く。もし自分の言葉がなければ、この人々は死を選ばずに済んだのではないか。もし自分が「神の子」などと呼ばれなければ、彼らはここまで戦うこともなかったのではないか。
祈りの答えは、どこにもなかった。星は静かにまたたくだけで、神は沈黙を守る。
城に籠もる日々は飢えと死で満ちていった。老いた者は力尽き、子を抱いた母は乳を出せずに泣き崩れる。人々の顔に希望の色は薄れ、だが彼の前ではまだ「信じています」と口にする。
その言葉が刃のように少年の胸を突いた。信じられている限り、立ち続けねばならない。己が崩れれば、全てが瓦解するからだ。
ある夜、彼は独りで祈った。
「神よ、もし私があなたの道具なら、せめて人々の苦しみを終わらせてください。だがもし私がただの人間なら……なぜこのような重荷を背負わせるのですか」
答えはなかった。あるのは冷たい石壁と、遠くから聞こえる呻き声だけだった。
やがて、炎の夜が訪れる。城は火に包まれ、兵は斃れ、叫びがこだまする。少年は立ち尽くし、剣を握った。
だがその剣は敵を斬るためではない。最後まで希望の象徴であるために、握らねばならなかった。
燃え盛る炎の中で、彼は静かに悟る。
——私は神ではない。ただの人間だ。恐怖も迷いもある、ひとりの若者にすぎない。
それでも人々が望むなら、最後まで「信じられる者」でありたい。
足元で火がはぜ、熱が頬を舐める。死が迫るのを感じながら、少年は微笑んだ。
「私は、最後まであなたたちと共にある」
そして、その名が呼ばれた。
天草四郎時貞。
彼は、信仰と絶望の狭間で燃え尽きた。
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