第2話

第2部 ― 三人の女優を深掘る


老人の声が稽古場に残像のように消えると、空気は別の層を帯びた。若手たちは息を潜め、耳だけを傾ける。老人は杖を床に立て、目を閉じて遠い砂の光景を追った。そこから、語りはひとりの女優の輪郭をなぞるように滑り出す。


ゴネリル(演:桐谷香織)


桐谷香織は三人の中で最も「演じること」を道具にしてきた女優だった。都会の劇団出身、たくましい履歴書、語り口は早く、目は常に前を見ている。彼女のゴネリルは鋭利だ。観客に向かって刃を振るう瞬間、会場がひりつくのは彼女の意志がつくり出す「確信」が伝播するからだ。


だが桐谷の目は、稽古のときにだけ見せる別の表情を隠していた。鏡に向かって一度も笑わない。鏡の向こうの自分を、厳しい裁判官のように睨みつける。彼女の幼年期は父親の厳格さで満たされていた。褒められることは少なく、賞賛は仕事でしか手に入らなかった。「役を得ること=生きること」が幼い頃からの方程式だ。だからこそ彼女は役を“勝ち取る”ことに執着する。


稽古場での桐谷は、常に試合前のアスリートのようだ。台詞の語尾を変え、微妙な視線の置き方を何度も試す。だが彼女の試みは時に過剰になり、演出の目を逸らせる。老俳優は彼女に言った。


「香織、技術で塗り潰すな。役は表層の技巧を拒むとき、深く切り込む」


桐谷は黙って鏡を見つめる。そこへ、幻の声が風のように入る――ステラ・アドラーだ。


「想像力を使いなさい。あなたの台所の記憶は王の悲劇を生み出さない。王国をつくりなさい。言葉の裏側にある物語の土壌を耕すのです」


桐谷は小さく息を吐き、肩の力を抜いた。技巧は彼女の武器だが、アドラーの言葉はその武器に目的を与えた。彼女がゴネリルとして一歩前に出るとき、そこにはただの鋭さではない「襞のある動機」があった。父の影、得られなかった承認、同僚への渇望――それらを骨格として身体が動く。刃は研がれているが、切っ先の裏に血が流れているのだ。


リーガン(演:飯沼理栄)


飯沼理栄は静かな激情を抱えた女優だ。町工場の娘、幼い頃から手を動かして道具を作る家の匠の家系。無口で、しかし技術に対する執念は誰にも負けない。彼女のリーガンは「沈黙する刃」だ。喋るときは少ないが、沈黙の中の眼差し、肩の落とし方で場を凍らせる。


理栄は舞台に立つとき、自分の体を“道具”として扱う。舞台裏では指先の筋をしつこくほぐし、歩幅を粒のように刻む。彼女にとっての「演技」は身体の精密な機械化であり、その先に感情がついてくる。仲代達矢の語り口が稽古場に響く。


「感情を追うな。呼吸を追え。目の奥の間合いを掌握しろ」


理栄は長年の稽古で、呼吸の中に他者の息を呼び込む術を身につけた。彼女のリーガンはときに冷酷だが、なおかつどこか脆い。舞台上で彼女が一瞬だけ頬を震わせると、観客の中で小さな波紋が広がる。あれは技術ではない。彼女が自分の身体の中の小さな言い訳を捨て、役の痛みに身を委ねた瞬間だ。


そこへ差し込むのは、マーロン・ブランドの影の言葉だ。低く、突き刺さる。


「燃やせ。だが燃えるだけでは足りない。燃えた後に、残るものが必要だ。炎が何を焼いたのか、観客に見せろ」


理栄は帽子の縁を掴んで、俯く。彼女の中で燃焼は静かに進んでいる。燃えることで自己は失われるかもしれないが、その失われ方の美しさが観客に新しい真実を残す。リーガンの怒りは私的なものではなく、世界に対するひとつの回答であり、それが表現されるときに初めて意味を持つ。


コーディリア(演:藤堂紗良)


藤堂紗良。三人のうちで最も静謐で、見る者の胸を裂くような透明さを持つ女優。彼女のコーディリアは沈黙を宿す聖性のようだ。だがその透明さの背後には、避けられない孤独と強い意志が横たわる。


紗良は小さな漁村の出身だった。海の匂い、潮の引き方、母親の手仕事――世界が彼女の五感の基礎を形作った。彼女は幼い頃から「聞くこと」を学んだ。人の言葉よりも、海の声や日の光の微かな変化に敏感だった。舞台に立つとき、彼女はその繊細さを用いて透明な真実を掬い取る。


ある夜、老人は紗良と稽古場で向かい合った。紗良は静かに台詞を紡ぎ、そこにほとんど音のない悲しみを込めた。老人は目を閉じて聴いた。紗良の体はまるで水の層を静かに揺らしているようで、そこに触れたら崩れてしまいそうだ。老俳優は言葉を選んで言った。


「お前は声ではなく、沈黙で語る。だが沈黙もまた準備だ。沈黙の中に、世界を入れろ」


サラ・ベルナールの幻影が、劇場の古い空気を震わせる。ベルナールは劇場で死ぬことを美化した最後の大女優の一人だ。彼女の言葉は詩的で、紗良のうなじに涼風を送る。


「舞台で消えるのを恐れるな。消えることは、形を残す最も確実な方法よ」


紗良はその言葉を胸にしまい、さらに深い沈黙を身にまとった。彼女がコーディリアとして舞台でただ立つとき、観客は彼女の周りに溶けていく。何かが確かに失われ、それを見届けたという記憶だけが残る。



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老人は三人を順に見渡し、言葉を紡いだ。


「香織は勝ちに飢え、理栄は器としての身体を磨き、紗良は沈黙で世界を浄める。だがこの三人――互いに羨い、互いに嫉妬し、互いに愛した。コーディリアをやりたいと誰もが思った。だが役は一人を選ぶ。選ばれなかった者の恨みは、舞台上では刃となり、観客の胸を切り裂く」


老人の言葉には苦笑が混じる。舞台は意図せぬところで女優たちの私情を喰らい、それを作品へと返してしまう。だがそれが残酷でいい。舞台とは残酷で真実だ。


ここで、川上貞奴の幻が、静かに立ち現れる。貞奴は日本で初めて「女優」という職業の前線に立った女だ。彼女の声は現代の稽古場にささやく刀のように鋭い。


「海外を見よ。女の役割は世界でどう演じられているかを学べ。日本の土だけで育った演技は、時に狭い。国境を越え、文化を持ち帰ることが女優の務めだ」


桐谷は貞奴の言葉に一瞬肩を震わせ、理栄は目を細めた。紗良は静かに首を垂れる。三人はそれぞれの欲望を抱えたまま、しかし共に同じ舞台を生きている。


老俳優は稽古場の灯りを手で擦るように見つめ、続けた。


「想像力を持て。しかしそれだけでは足りない。想像を動かす身体と、想像を裁く誠実さが要る。アドラーは想像の大切さを説き、ブランドは燃焼の怖さを見せ、ベルナールは消えることの美を示した。貞奴は国境を越える勇気を教えた。お前たちはそれぞれを受け継ぎ、そして自分のやり方でそれを焼き直すのだ」


若手の誰かが、まだ口を開かぬまま、紗良の指先が稽古場の床に描く小さな円を追っていた。円は消え、また新しい円が生まれる。舞台の訓練はそうして繰り返され、微かな恥と誓いが積み重なる。


老人は静かに立ち上がり、杖を床に立てた。彼の視線は三人を越えて若手全員へと向かった。声は、今一度厳しく、だがどこか慈しみに満ちている。


「さあ、今夜はここまでにしよう。だが覚えておけ。君たちが次に舞台に立つとき、ここで交わされた嫉妬、ここで飲み込んだ恐怖、ここで隠した涙――それらが必ず役となって甦る。役を生ききれ。そして、生ききれない自分を恥じろ。恥はお前たちの燃料になる」


稽古場の扉が閉まると、外の夜風が砂と海の味を連れてきた。三人の女優の影が揺れ、幻の声は消える。だがその消え残りの余韻が、若手の胸に小さな火を灯していた。

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